8月20日 ホームセンター(10)
音葉と合流し一息つけた望だったが、ゆっくりしている余裕は無かった。エスカレーターの方から重ねたポリタンクが崩れる音がした。ゾンビが二階に上がって来たらしい。
「もうエスカレーターを上って来たのか?」
「赤目以外にも動きのいいゾンビがいました。歩くよりは速い速度で動いていましたからそれだと思います。すぐに外に出た方が良さそうです」
そう言いながら音葉は近くのテーブルに置いていた日本刀を左手で持った。
「わかった。じゃあ俺が先頭で行くよ。その前に」
望は次の戦闘に備えて短機関銃のマガジンを交換する。マガジンを外してみると弾丸は全て発射されており空になっていた。大体三十発くらい入っていると知識では知っていたが、実際に使っている最中に残りが何発かはわからない。
(牧野さん達に向けて誤射してしまったのが最後の一発だったのか。このままだと次の戦いが危なかったな)
そう考えながら床に下ろしたバックパックから新しいマガジンを取り出し銃に差し込む。カチッと音がしてマガジンを固定した時、牧野がゾンビの接近を察知した。
「まずいぞ。ゾンビがこっちに向かって来ている」
「カートの音がした方向を覚えていたんでしょうね。急ぎましょう」
音葉に促された望は慌ててバックパックを背負い直すと先頭に立って家具コーナーの隅にある銀色の扉を開きバックヤードに入った。
小笠原に抱えられたサトルを含めた五人は、望を先頭に暗いバックヤードを進んだ。店内とは打って変わって天井は低く、通路も広く無い。道もほぼ一本道なので前方だけを警戒すればよかった。できるだけ音を立てずに進みたかったが、サトルを乗せたカートを押す音は無人のバックヤードによく響いた。大きな音を立てれば当然ゾンビに追跡されるが、暗闇に包まれたホームセンターから出る事を優先した。車に乗ってしまえばいくらゾンビが走ったところで追いつく事はできない。
しばらくして前方に光が見えた。外への出口だ。
「外だわ!」
興奮した声で小笠原が叫ぶ。
「ああ、やっとだ。もう二度と太陽の光は見れないかと思ったよ」
長時間ホームセンターで身動きの取れなかった牧野と小笠原は外の光を見て走るペースを上げた。望自身も暗闇から出られる安心感、無事に人命救助を成し遂げた達成感、そしてこれからは大人の野瀬達と行動を共にし、車で移動できる期待など様々な正の感情が望の胸の中に湧き上がる。しかし同時に、何か違和感を覚えた。
(何だ?)
望は出入口の数メートル手前で足を止め銃口を前方に向けた。引き戸型の扉は二枚とも床に倒れている。一枚は内側、もう一枚は外側にあった。大きく開いた出入口からはやや強い風が吹き込んでおり、二枚の扉は真新しい火山灰で覆われていた。望は床を見た。自分達が入って来た時に残した足跡は新しい灰で覆い尽くされ見えなくなっている。目線を上げ外を見る。金属剥き出しの階段の踊り場に人影は無い。視線を店内に戻す。太陽の光が差し込むおかげで周囲はよく見えている。ここにもゾンビが潜んでいるようには見えない。
「どうして止まるの!?」
すぐにでも外に出たいのか、カートからサトルを抱え上げた小笠原がやや乱暴に言った。
「何か、変な感じがするんです」
「ゾンビがいるようには見えないわよ! 今は前よりも後ろから来るゾンビを気をつけた方がいいんじゃない?」
小笠原の言う通り、ゾンビの一部が望達を追いかけてバックヤードに入って来る可能性は高い。これだけ派手にカートを転がしていれば当然だ。
「お兄さん、私が様子を見てきましょうか?」
左手で日本刀を持った音葉が聞いて来る。太陽の明かりの下で見る音葉は、望が考えていたよりもずっと辛そうにしており顔色が悪い。一階で赤目のゾンビと戦った時のダメージが相当残っているようだった。
「それはダメだ。行くなら俺が。牧野さん、小笠原さん、外の様子を見て来ます。皆さんはここにいてください」
「心配し過ぎじゃないか? ホームセンターの外にゾンビはいなかった。ここで止まっている方がよっぽど危険だと思う。足音も聞こえてきたし」
最後尾の牧野が焦り気味に言った。通路の奥からはゾンビ集団の迫る音が聞こえて来た。何かが蠢く音が通路に反響している。ゾンビがバックヤードに入ったらしい。
「わかりました先に行ってください。ここからは俺が最後尾につきます」
「すまない」
「ああ、サトル君、もうすぐ外よ!」
望に礼を言った牧野とそれに続いた小笠原が二人並んで望の横を通り抜け外に向かった。望は廊下の暗闇に銃を向けながら、二人の行動に何かを感じていた。
(どうして二人並んで? ああそうか。扉は二枚とも空いているから十分スペースが……)
やっと思い出した。このホームセンターに入った時、引き戸は片方しか倒れていなかった。それがどうして二枚とも外れているのか。風で倒れるような扉ではない。牧野達が最初にしたように、誰かが蹴り飛ばしでもしない限りは引き戸が外れる事は無いはずだ。
「牧野さん、ダメだ! 待って!!」
望は急いで牧野達二人の後を追いかけた。外に一歩目を踏み出した小笠原が何事かと後ろを振り向く。その横で別の何かが動いた。外に潜んでいたゾンビが真横から小笠原に襲いかかろうとしたのだ。
そのゾンビは初老の男性で、恰幅のいい体にぼろぼろになった警備員の制服をまとっていた。生前、他の生存者を守るために傷ついた跡だったが、今の望達にかつての彼の勇気はなんの意味も持たなかった。
「えっ、どうして外にゾンビが」
小笠原はサトルを抱えているため回避行動が取れない。咄嗟にゾンビに背中を見せ腕に抱えた子供を守ろうとする。警備員のゾンビは小笠原を抱き抱えようするように両手広げて突進してくる。
「最後の最後で! やらせるか!!」
望は滑り込む様に小笠原に追いつくとその身体を左腕で思いっきり突き飛ばした。小笠原はサトルを抱えたまま床に倒れる。直前まで小笠原がいた空間を、水平に振ったゾンビの腕が空振りした。
望は小笠原を押した前のめりの態勢のまま、右手で持った短機関銃を警備員のゾンビに向けた。距離は数十センチ。時間をかけて頭部を狙う余裕は無い。片手で持った短機関銃では一発必中は狙えないが至近距離で連射すればマガジンに詰まった三十発の内どれかが命中するだろう。たとえ頭部に当たらなくとも、胴体に命中すれば時間稼ぎができる。望は狙いをつけずゾンビに向けて引き金を引いた。だがカチと乾いた音が鳴るだけで弾は一発も発射されない。そこで自分の過ちに気がついた。
「しまった」
短機関銃は銃弾が発射される際に生じるエネルギーを使って自動的に次の弾丸をマガジンから銃本体の薬室に送り込む。だから本体に銃弾が入っていれば引き金を引くだけで次々と弾を発射できる。しかし銃本体に弾丸が入っていない状態で引き金を引いても次の弾がマガジンから薬室に装填されることはない。そのため、マガジンを交換した後は、コッキングレバーという部品を引いて一発目の弾丸を手動でマガジンから銃本体に送り込まなくてはならなかった。しかし銃を扱い始めたばかりの望はその基本的な動作を忘れてしまっていた。それが致命的なミスになった。
望の目の前には口を大きく開けた警備員のゾンビ。視界から消えた小笠原の代わりに目の前で動きを止めている望に襲い掛かろうとする。望は慌ててコッキングレバーを引こうとするが、小笠原を突き飛ばした左腕は銃から離れている。左手を銃まで戻し、レバーを引く。そのわずか一、二秒の時間が無かった。
(間に合わない!?)
その刹那すべての動きがスローモーションになった。
望の喉元に食らいつこうとする警備員ゾンビの歯の一本一本がはっきりと見えた。滴る涎が空中で球形になる。どこか遠くで音葉や牧野が叫んでいるが何を言っているのかわからない。小笠原を突き飛ばした左手はコマ送りで銃のコッキングレバーに向かっているがまだ届かない。
(死ぬのか)
不思議と恐怖は感じなかった。ゾンビに噛まれるのは痛いだろう。だが、死ねば西山千明に会うことができる。それはそれで悪く無いと思ってしまった。唯一の心残りは音葉の事だが、彼女ならこれから野瀬達とうまくやっていけるだろう。
望が生き延びる事を諦めようとした時、目の前に一本の影が飛び出しゾンビの口に吸い込まれていった。その直後、温かい真っ赤な液体が望の顔に飛び散る。
「えっ?」
目の前に音葉がいた。望に覆いかぶさるように立ち、苦痛で顔を歪めている。彼女の右腕は望に食いつこうとしていたゾンビの口の中にあった。
音葉は腕を噛まれたまま、全身で警備員のゾンビを押し、望から引き離すと階段の手すりに押しつけた。ゾンビの歯がさらに音葉の腕に食い込み、少女の口から苦悶が漏れる。その光景に望は反応することができなかった。自分が死ぬはずだったのに、どうして音葉がゾンビに噛みつかれているのか理解ができなかった。
「どくんだ!」
銃を持ったまま呆然としていた望を押し除け、牧野が消防斧の峰を警備員ゾンビの頭部に叩きつけた。音葉の腕を避けたため攻撃が浅くなったが、頭部に強烈な打撃を与える。ゾンビの動きは止まらなかったが顎の力が緩んだ。牧野は音葉をゾンビから引き離すと、斧を両手で持ち直しゾンビの頭部に向けて垂直に打ち下ろした。消防斧の刃が頭頂から鼻の辺りまでめり込み、ゾンビはふらふらと左右に揺れながら床に崩れ落ちた。
望は呆然としながら腕から血を流す音葉と、床に倒れたゾンビを交互に見ていた。ゾンビの歯は音葉の血で真っ赤に染まっている。
「この、よくも!」
望はコッキングレバーを引いて銃弾を薬室に送り込むと、怒りに身を任せ既に動きを止めたゾンビに向かって短機関銃の引き金を引いた。連射モードにあった銃は五秒も経たずに全ての銃弾を吐き出し、ゾンビの頭部は原型を留めないほどぐちゃぐちゃに破壊された。
弾丸を全て撃ち出した後、望は短機関銃の引き金を何度も引いた。カチカチという音だけが鳴る。牧野と小笠原は鬼の様な形相の望に声をかけられずにいたが、しばらくしてその音葉がその肩に左手を置いた。
「お兄さん、落ち着いて。もう終わりました」
音葉が身につけている長袖の右袖にはくっきりとゾンビの歯形がついており、傷口からは赤い血がにじみ出ていた。
「そんな、どうして。どうして俺なんかを庇って」
「勝手に身体が前に出たんです。いつかこんな結果になるとは思っていました。気にしないでください」
「でも」
「今は脱出が優先です。店内からゾンビが出て来ます。急いでここから離れ、うっ」
急に音葉がその場に片膝を着いた。左手で傷口を掴むように押さえる。
「音葉ちゃん?」
「くっ、ゾンビに噛まれるとこんなに、痛いんですね。腕が焼けるようです」
「……ゾンビ化が始まっているんだ。腕の熱が全身に広がって、やがて傷口から灰化が始まる」
牧野が音葉から目を逸らしながら言った。その向こうでサトルを抱えた小笠原が無言で音葉から距離を取ろうとする。
「そんな、どうして」
「もし弾丸が残っているなら止めを刺してあげた方がいい。これからは苦しいだけだ。早くても数時間、下手をすると一日近く苦痛が続く」
「そんなこと、できるわけないだろ!」
望は音葉に近づくと肩を貸そうと屈み込んだ。
「お兄さん、近づかないでください。危険です」
「いいから」
望は背中に腕を回し音葉を立たせる。だが苦痛に苦しむ音葉は自分では満足に歩けないらしく、肩を貸しても階段を降りられそういない。
「牧野さん、手を貸して下さい」
「……すまない。僕にはできない」
牧野は首を横に振った。
「君も離れた方がいい。ゾンビ化の進行速度は一定では無い。中には数分でゾンビになる人もいる。彼女の側にいるのは、危険だ」
「なんで!? 俺達はあなた達を助けに来たんですよ」
「感謝している。だが、もう手遅れなんだ。本当に、すまない」
「お兄さん……」
痛みと熱に耐えながら音葉が口を開いた。
「牧野さんの言う通りです。お兄さんも私から離れてください」
右腕の傷口からは真っ赤な血が滲み出て床に血溜まりを作っていた。
「そんな事できるわけがないだろ。俺は一緒に、ずっと一緒にいる。音葉ちゃんを残して行けるもんか」
「もう手遅れです。私は、今まで何度かゾンビ化する人を見てきました。お兄さんも早見さんが亡くなったところを見ていますよね。これはもう」
音葉が右腕の袖を捲った。血の気のない細い腕にははっきりとゾンビの歯形が残っている。その傷口の一部が白くなりかけていた。
「そんな、なんで」
「過ぎた事は仕方ありません。離れてください。私はお兄さんを食べたくないんです」
「嫌だ。絶対に離れないからな」
「聞き分けの無い人ですね……」
音葉は望を振り解こうとしたが、望の腕がしっかりと自分を掴んで離さないのですぐに諦める。代わりに牧野達の方に顔を向けた。
「仕方ありません。牧野さん、小笠原さん、先に行ってください。私達もすぐに追いかけます」
サトルを抱えた小笠原は何も言わず、目を背けたまま階段を下り始めた。牧野は「すまない」と一言だけ言い、消防斧を持って小笠原に続く。
「さあお兄さん、私達もいきましょう。早く行かないと野瀬さん達に置いて行かれてしまいますよ」
痛みに慣れたのか、音葉が弱々しい足取りで前に進もうとした。望はどうしたらいいのか分からず、肩を貸したまま一緒に歩き始めた。一歩ずつ、金属剥き出しの階段を下りる。ゾンビに噛まれた人間はゾンビになる。ゾンビになる。ゾンビになる。その言葉が望の頭の中をぐるぐると巡り離れなかった。




