8月20日 ホームセンター(7)
床に落ちた無線機からは男の声が助けを求め続けていた。他にもバンバンと多人数が板を叩く様な音やゾンビの呻き声が聞こえる。切羽詰まった状況にあるのは間違い無いようだ。
「どうする!?」
「仕方ありません。取り敢えず無線機を拾って来ます。あれだけ音を出されたらゾンビが寄って来るかもしれません」
音葉はエスカレーターから降りようとするが、先ほどの戦闘のダメージが残っているらしく、左腕一本で持つ日本刀は重そうで、動作にキレが無い。
「いや、俺が行く。音葉ちゃんはここにいて」
音葉が返事をする前に望はホールの中央に駆け出した。先程の銃声や今も鳴り続けている無線を聞いていつゾンビが現れるかわからない。急いで新城の死体に近づき、落ちていた無線機を拾い上げた。少しでも音量を減らそうとスピーカー部分を手で押さえ、ボリューム調整が出来そうなツマミが上部にあったので回してみる。音量を最小にするつもりだったが、電源も兼ねていたらしくカチッという音と共に無線機の電源が落ちた。望は無線機をポケットに投げ込むと銃を構えて周囲を警戒した。ゾンビが近づいてくる気配は無かったので急いでエスカレーターまで戻る。
音葉はエスカレーターの手すりにもたれながら望を待っていた。
「取って来たよ」
「ありがとうございます。まずは二階に避難を。無線機の人と話すのは安全を確保してからにしましょう」
「了解」と望が頷く。二人は早足で二階に上がった。壁に立て掛けてあったテーブルをエスカレーターの手前に置いた後、バリケードを通り抜けて二階のフロアに戻る。レンガの積まれた買い物カートでバリケードを塞ぎ、さらに水の入ったポリタンクや他の重量物をカートの後ろに積んで固定した。
「これで一安心かな?」
「多分ですけど。警戒は、怠らないでください」
大慌てでバリケードを塞いだからか、音葉は少し苦しそうに肩で息をしていた。
「辛そうだけど大丈夫?」
「さっきの体当たりが利きました。あの赤い目のゾンビ、すごい力で、まるで車にぶつかられたみたい。少し休みたいですが、そうも言っていられません。無線の人と繋いでもらえますか」
音葉はバリケードの一部になっていたサッカー台に日本刀を置くと立っているのが辛いのか近くにあった柱に身体を預けた。望は無線機のツマミを回し電源を入れる。液晶画面が点灯し、スピーカーから男の声がした。
『繋がった!? 誰かいるんだろ? 頼む、答えてくれ』
二階に上がったため音質が悪くなっていたが先ほどと同じ男の声がした。音葉は望から無線機を受け取り口に近づける。
「もしもし、聞こえますか」
『野瀬さん? 新城さん? いるなら答えてください。牧野です』
「あの、もしもし?」
『誰かいるんですよね? 無線の電源をつけた人がいるなら答えてくれ!!』
音葉が呼びかけているのだが、牧野と名乗った無線の男には聞こえていないようだ。
「もしもし、聞こえませんか? ……ダメです。こっちの声が通じません」
「多分横のボタンを押しながら話すんじゃないか? 俺がやってみるよ」
望は音葉から無線を受け取ると、横についていたボタンを押し込みながら話してみた。
「もしもし、聞こえますか」
『通じた! 新城さん? いや原田か?』
男は通信が繋がった興奮でマイクを口に近づけたらしい。突然ボリュームが上がった。 望は無線機を少し顔から遠ざける。
「俺は冠木といいます。野瀬さんに頼まれた皆さんを探しに来ました。あなたが牧野さんですか?」
『そうだ。僕が牧野だ。野瀬さんに頼まれた? よかった。すぐに助けに来てくれ。もう保ちそうに無い。小笠原、右を抑えるんだ! ドアの金具が外れそうになっているぞ!!』
牧野達が無線機を何かにぶつけたのが、ガサガサという音がスピーカーから流れる。
「大丈夫ですか?」
『大丈夫じゃない。僕たちは、トイレの個室にいる。外のゾンビがドアを押して来ていて、もう外れそうだ。頼む、早く来てくれ!!』
会話を聞いていた音葉が壁に表示された地図を指差した。望は地図を見ながら牧野達の位置を尋ねた。
「ええと、店内には何箇所かトイレがありますけど、どこのトイレですか」
『一階の自転車コーナーの近くにある、女子トイレの一番奥の個室だ!』
『お願い、早く来て。もう鍵は壊れていて、私達がドアを押さえているの。でも体力が、腕が痛くてもう抑えきれない』
小笠原らしい女性の声もする。スピーカーの向こうからは、ゾンビがドアを叩く音が絶え間なく聞こえていた。「数を聞いてください」音葉が小声で呟く。
「数を教えてください。どれくらいのゾンビがいますか」
『正確な数はわからない。追われていた時は二十くらいだったと思う』
「その中に目が赤い、動きの速いゾンビはいましたか?」
『わからない。動きの速いのもいたが新城さんが引きつけてくれた。俺達を追いかけて来た中にはいなかったはずだ。頼む早く来てくれ!』
「わかりました。今から、うわ、音葉ちゃん!?」
音葉が望の手からもぎ取るように無線機を奪った。『何があった』と叫ぶ牧野の声を遮るように電源を落とし、唇を噛み締めながら望を見た。
「音葉ちゃん、何をするんだ。助けに行かないと。早く行かないと間に合わなくなる」
「無理です。今の私達に牧野さん達を助ける事はできません」
音葉ははっきりと言い切った。
「どうして!」
「あの赤い目のゾンビが一体でもいたら、今度は私達が殺されます。出来る事なら助けに行きたいです。でも大切なのは私達の命です」
「戦わなくてもいいじゃないか。近づいて囮になるだけでいいかもしれないだろ?」
「赤い目のゾンビ、物凄い身体能力でしたよね。お兄さんの身長より高く飛び上がっていました。そんなゾンビ相手にこの暗闇の中を逃げ切れると思いますか? もし二体、いえ三体いたらどうしますか?」
「そ、それは……」
「私だって助けに行きたい気持ちはあります。でもゾンビの群れに近づくのは危険過ぎます」
望は反論しようとしたが言葉が見つからなかった。音葉がいなければ、望はさっきの戦いで赤目のゾンビに殺されていた。その音葉も今は右手が使えず日本刀を振るえない。そんな状態でゾンビと戦えるのかと聞かれれば、答えは明確に否だった。
「悔しいです。助けを求めている人達を助けられないなんて」
音葉は無言で右手をサッカー台の上に置いた日本刀に伸ばした。柄を掴むが、痛みで持ち上げる事すら出来ない。
「せめて、外にいる野瀬さん達に知らせるか」
「止めましょう。もっと酷い結果になります」
それは望にもわかっていた。野瀬グループで、リーダーの野瀬以外の戦力は子供と怪我人、年寄りだけ。飛び道具は無く、武器もナイフや農具だ。普通のゾンビ相手でも不安なのに視界悪い暗闇の中で赤目のゾンビと戦うのは自殺行為だ。だが牧野達が生きていると知れば野瀬は一人でも助けに来るだろう。その結果、野瀬グループの全員が館山に到着する前に全滅するかもしれない。
「……野瀬さん達に合流は出来そうにないですね」
「仲間を見捨てて来た奴と一緒に行動したくはないだろうな。黙っていればついていけるかもだけど、精神的にキツそうだ。まあ、俺は音葉ちゃんと二人きりも悪くないって思うけど」
「そういう事は……いえ、なんでもありません」
音葉は言いかけた言葉を途切ると無線機を口の近くに持って行った。望が止める間も無く、スイッチを入れる。
『繋がった? 何かあったのか』
「待たせてしまってごめんなさい。私は奥山と言います。ごめんなさい……私達はあなた達を助けにいけません」
『ど、どういうことだ。助けに来てくれたんじゃ無いのか!?』
「さきほど、赤い目のゾンビと戦いました。強力なゾンビで何とか倒しましたが私達も怪我をしました。もう一体の赤目と戦う余裕はもうありません。申し訳ありません」
『……どうしても無理なのか』
「ごめんなさい。近づくだけでもリスクが大き過ぎます」
『わかった』
絞り出すような声で牧野が言った。
『野瀬さんには、俺達は死んでいたと伝えてくれ。あの人は俺たちが生きていると知ったら一人で乗り込んでくる。ここで野瀬さんまで死なせるわけにはいかない。おい小笠原、何をする!?』
『ダメよ』
突然大きな女性の声がスピーカーから響いた。小笠原という女性が牧野の無線機を奪ったらしい。
『私達は仕方ない。でもサトル君もいるの!』
初めて聞く名前に望と音葉は思わず顔を見合わせた。
「サトル君、それは誰ですか? 中に入ったのは四人だったんですか?」
『違うわ。このホームセンターで暮らしていた子よ』
「生存者がいたんですか?」
『そう。サトル君はこのホームセンターに避難していた人達の最後の生き残り。熱でうなされて調達に来た私達をゾンビと勘違いして一階に逃げてしまって、それを追いかけたたらこんな事になったの』
「それでわざわざゾンビがいる一階に降りたんですね」
『この子はまだ五歳なの。私達大人は仕方ない。でも、この子は見捨てないで。この子まで死んだら新城さんの死が無駄になってしまう』
「少し、考えさせてください」
そう言って音葉は一度無線機から手を離した。
「まさか、生き残りがいたなんて。それも子供かよ」
「誰がいても状況は変わりません。牧野さん達を助けに行くのはリスクが高すぎます。でも……」
そう言って音葉は黙り込んでしまった。望も悩んでいた。牧野達を見捨てる事は後ろめたいが仕方がないと割り切れる。彼らは自分達よりも大人で、覚悟を持って危険な場所に飛び込んだ。だが、生き残っていた子供は違う。
「俺たちが倒した赤目のゾンビ、あれが最後の一体だった可能性はあるんじゃないか。普通のゾンビなら一体ずつ誘き寄せれば対応できるはず」
「楽観的過ぎます。もう一、二体、強力なゾンビがいても不思議じゃありません」
「それは、そうだけど……」
望は何が方法が無いか、周囲を見渡した。望の手には短機関銃がある。命中すればゾンビは倒せる。だが当たらなければ意味は無い。先ほどは音葉が作った隙があったから動きを止める事ができた。だが、縦横無尽に飛び回る怪物の頭部に正確に弾丸を打ち込むのは難しそうだ。音葉の日本刀、右手が使えない状況では普通のゾンビ相手でも危険だ。音葉の左手には無線機。その先で今まさに三人の命が失われようとしている。
「無線機……、そうだ、何か音の出る物を使ってゾンビをトイレ前から引き離すんだ。そうすれば近づかなくてもいい。スピーカーを買い物カートに乗せて、遠くから思いっきり押し出して俺たちはすぐに逃げる。そうすれば戦わなくてもいいだろ?」
「いい考えだと思います。でも、ゾンビの耳はあまり良くありません。いくらスピーカーでも、相当近づかないと、多分、トイレの入り口くらいに設置しないと効果が無いと思います。トイレの中からトイレの入り口までゾンビを誘き寄せても大して意味は……そうか、私が、囮になります」
「何を言っているんだよ。さっき近づくのは危険過ぎるって自分で言っていたじゃないか」
「ゾンビの前に姿を見せて、声で誘き寄せる場合はです。お兄さんが言うとおりスピーカーを使って大きな音を出せれば多分二十メートルくらい離れていても大丈夫だと思います。ある程度距離があれば走って逃げられますし、安全地帯を作ってそこに逃げ込めば……」
音葉は店内地図を見て自転車売り場から少し離れた位置にある階段を指差した。
「ここです。ほとんどのゾンビは階段を登れませんし、二階には鍵のかかる防火扉があります。一階のゾンビを誘き寄せて階段まで逃げれば、囮役は安全です。いくらゾンビの力が強くても金属の扉は簡単には破れないはずです」
「よし、それなら俺がやるよ。音葉ちゃんはここにいてくれればいい。俺がスピーカーを持って一走りして来る」
「ダメです」
音葉は首を横に振った。
「囮役は私がやります。お兄さんはトイレの近くに潜んで残ったゾンビを倒して牧野さん達を救出してください。」
「俺一人で? いや構わないけど、囮の方が危険じゃないのか。赤目に追われたら手を怪我している音葉ちゃんじゃ……」
「だから私なんです。お兄さんは一人で戦えても負ける可能性の方が高いですよね? 私なら逃げる事に集中すれば対応できますから」
「そうかもしれないけど」
「議論している時間はありません。牧野さん達にはもう時間が無いんです。やりますか? やりませんか?」
言葉は強かったものの、音葉自身も迷っているようだった。もしここで望がノーと言えば、危険過ぎると言えばきっと従ってくれる。二人で安全にホームセンターから脱出できる。そしておそらく、それが正しい。見ず知らずの他人のために命を捨てる事は無い。だが同時に、この決断がこれからの自分の生き方を決めてしまうような予感がした。恋人だった西山千明は、妹の為に命を落とした。今、望と音葉は家族でも無い、会ったこともない人間の為に命をかけようとしている。どちらが正しいのか。どちらを選びたいのか。望は迷いながらも決断を下した。
「やるよ。生き残りを見捨てたら、多分これからずっと後悔するから」
「助けに行ったら後悔する事もできなくなるかもしれませんよ?」
「それでも、今は助けに行きたい、そう思ってる」
「ありがとうございます。私も同じ気持ちです」
望の言葉を聞いた音葉がほんの少しだけ笑った。それを見て、望は自分の決断が正しかったと思った。少なくとも、この時点では。




