8月20日 ホームセンター(6)
バリケードを抜けた先には四基のエスカレーターが横一列に並んでいた。三階に続く二基の出入口は別のバリケードで塞がれていたが、一階へ続くエスカレーターの前は開いていた。本来は一階へのルートを閉じていたのか、大型のテーブルが壁際に立て掛けられている。
「新城さん達は一階に降りたみたいですね。三階に移動するのは……難しそうです」
望に続いてバリケードを抜けて来た音葉が三階側のバリケードに触れた。大きな木製箪笥がエル字金具とボルトで床に固定されており、音葉が力一杯押してもびくともしない。
「一階、何か見えますか?」
望はエスカレーターとその下に広がる一階のフロアをヘッドライトで照らした。
「何も見えない。けど……嫌な臭いがする。生臭くて腐ったチーズみたいな」
「ゾンビの臭いですね」
「数はどれくらいかな?」
「この感じだと多くても十体くらいだと思います。この近くにはという意味ですが」
「奥にはもっといるかもしれないってことか」
望は一階を観察するため下げていた頭をさらに俯かせて嘆息した。ゾンビの群れと戦った経験はある。だからと言って慣れたわけでは無い。いくらゾンビの動きが鈍くとも十体に囲まれたら手の打ちようがない。死角になっている背中や足を噛まれ、食い殺されるか、逃げられてもターミナル駅で見た早見の様にゾンビになるだけだ。
「先頭、私が行きましょうか?」
「いや、俺が行くよ。普段は音葉ちゃんが前を歩いてくれてるんだ。階段くらい俺が警戒するよ。それに、ゾンビは階段を這ってでしか上れない。下にゾンビの群れがいても落ち着いて二階に戻れば大丈夫、だよな?」
「はい。でも、たまに走るゾンビもいます。階段を登れるゾンビがいても不思議ではありませんよ」
「不吉な事言わないでくれよ」
望はバールを手に一歩ずつエスカレーターを下り始めた。電気が通じていないのでただの階段と化したエスカレーターだったが、一段一段の高さがあるので足音を殺すのに苦労した。その望の少し後ろを日本刀を持った音葉が続く。
半分ほど下ったところで、空気が変わった。生臭い臭いが強くなり、何かの気配もする。望は後ろを振り向き、視線で音葉に注意を促した。
一階に降り立つと、そこはイベント用の大きなホールだった。夏だからか、クーラーなどの冷房関係、テント、花火などレジャー用品などがずらりと並べられた特設コーナーが出来ていた。商品のほとんどはきれいに整列していたが、その一角が不自然に崩れ、その奥で何かが動いている。
「扇風機の向こう、何かいる」
ヘッドライトを向けると、三段に並べられた数十台の扇風機の列の向こうに人影が見えた。こちらに背中を向け、その場にうずくまり、地面にある何かを手にとり口に運んでいる。明かりを当てられても反応しないところを見るにゾンビだろう。柔らかい肉の様な物を噛む咀嚼音と血生臭い臭いが、エスカレーターから二階に上がろうとする空気に混じって二人の側を通り過ぎて行った。
「うっ、マスクを持ってくればよかった」
「ゾンビは一体だけみたいですね。回り込んで確かめてみましょう」
望は音葉に先頭を譲りながら周囲を見渡したが他にゾンビの姿は見当たらない。群れとの遭遇を覚悟していた望は若干気が楽になったが、すぐにそれは油断だと気づき気を引き締める。
二人は扇風機の列を回り込んだ。特設コーナーは中央に広い円形の空間、周囲に同じく円形に商品棚が並べられ、そこに扇風機や冷風機、虫取り網、アウトドアチェアなど夏向けの商品が配置されていた。商品は階段状の台に陳列されており、あたかもローマのコロッセオの競技場とその周囲を囲む観客席のようになっていた。そして、その中央に一体のゾンビがいる。
それは上下スウェット姿の男性のゾンビだった。二人に背中を見せ、両膝を揃えて床に跪き、祈るような姿勢で頭を上下させ何かを食べている。人影の動きに合わせてビチャビチャっと液体が飛び散る音がした。
「あれは人間を食べているのか……」
ゾンビの周囲には一面赤と白の液体が広まっており、扇風機や団扇、虫取り網などが散らばっていた。ここで激しい戦闘が行われたのだろう。中央の床には男性らしい死体があり、ゾンビはそれを食べているようだった。男の死体は全身が血で黒く汚れていたが、身につけている服ははっきりと識別ができた。
「オレンジ色のベスト、あれが新城さん……くそっ、ゾンビめ」
「残念です。手遅れだったんですね」
スウェット姿のゾンビはライトを当てられても気にする事なく、食事を続けている。よく見ればオレンジ色のベストを着た死体に頭部は無く、少し離れた所に目を見開いたまま事切れた男性の頭部が転がっていた。その頭部の周りには三体白化した肌の死体があった。いずれも脳を破壊されている。新城らしい人物の胴体から吹き出た赤い液体と、ゾンビの頭部から出た白い液体が混ざり合い、床はピンク色に染まっていた。
「人間の死体は一つしかない。他の二人、牧野さんと小笠原さんはどこに?」
「近くにいるのかもしれません。調べる前にあれを片付けましょう。一階にいるゾンビがあれだけとは思えません。数を減らせる内に減らしておきましょう」
「ああ。このクチャクチャを聞いているだけで腹が立つ。新城さんの仇を討ってやる」
床の上で無念そうに天井を見上げている新城の頭部を見て、望は怒りを感じていた。赤ん坊の為にホームセンターに入った人間がゾンビの犠牲になる、その理不尽さが気に入らなかった。数は一対二、ゾンビはこちらを気にしておらずしかも背中を見せているという有利な状況もあり、望はバールを手にすぐにでも背後からゾンビに襲いかかろうとする。
「お兄さん、冷静に。大人三人がやられたんです。あのゾンビは普通より手強い可能性があります」
音葉が望を制止しながら日本刀を構えた。
「それでも新城さんは三体倒してる。俺でも一体ならやれる」
「ダメです。いつも通りに行きましょう。お兄さんが誘き寄せて、私が頭を攻撃します」
「でも、」
望は反論しようとして自分に驚いた。思っていた以上に頭に血が上っているらしい。望にとってゾンビが人間を殺したばかりの場面に遭遇するのはこれが初めてだった。住宅街や地下鉄で見た死体は殺されてから時間が経っており生々しさが薄れていたが、目の前にある新城の身体からはまだ赤い血が流れている。そこに恐怖よりも強い憤りを感じていた。
「……いや、そうだな。ごめん。少し興奮してた」
「そうです。慎重に行きましょう。いつも通りです。ゾンビの体液が床に広がっています。足元には気をつけてください」
音葉は望を落ち着かせようとその背中を軽く二回叩いた。それから少し横に離れ、ヘッドライトを消す。音葉の姿が暗闇に溶け込み、光に照らされているのは望とゾンビだけになった。
望は一度大きく息を吐き出して深呼吸をした後、近くにあった団扇を手に取り、フリスビーの要領でゾンビに向かって投げた。団扇は水平に回転しながら飛び、見事にゾンビの背中に命中、一度背中の上で跳ねた後、血の海に落ちて音を立てた。その音に刺激され、ゾンビは手にしていた何かを床に落とす。
それは人間の背骨の一部だった。首を失った新城の胴体から引き抜きしゃぶっていたらしい。一度収まった怒りがまた湧き出して来る。今すぐゾンビに死体への冒涜を止めさせたかったが、ぐっと堪え、その怒りを発散するようにバールで床を叩いた。タイルが割れ、甲高い金属音がホールに響く。だがゾンビは動かない。望はもう一度床を叩きながらゾンビに声をかける。
「おい、こっちだ!」
人間の声に反応したのかゾンビが緩慢な動作で立ち上がり振り向く。ゾンビの全身は真っ白く干涸びていたが、なぜか目だけが赤く充血していた。
「赤い目?」
普通のゾンビは肌だけでなく目も白い。望は違和感を覚えたが、目以外は普通のゾンビと姿は変わらず走りだすような様子も無かった。その上、ゾンビは赤い目をきょろきょろと動かし周囲を窺っているものの、望が見えていない様で視線が定まらない。
「充血して目が悪いのか? まあいい。いつも通りにするだけだ。さあ、こっちに来い!」
望はバールでもう一度床を叩いた。音に反応したゾンビはゆっくりと動き始める。基本的にゾンビは一つの目標を追いかけ始めると他への注意が散漫になる。望が注意を引き、音葉が背後から忍び寄り頭部を破壊する。地下鉄で十数体のゾンビを倒してきた必勝法だ。
ゾンビは数歩歩き、こちらに向かってくるかと思いきや不意に膝を崩し、四つん這いになった。
「何だ? 土下座……じゃないよな?」
ゾンビは床に這いつくばるとちらりと望の方を見た後、白い舌を出し床に溜まった血液を舐め始めた。
「なんだよ、気持ちの悪い奴だ。来ないならこっちから行くぞ」
望が暗闇の音葉に目で合図を送ると、少女は無言で頷き、闇に紛れてゾンビの背後に移動を始めた。音葉はゾンビの背後三メートルまで近づいたが、そこから先には床に血が広がっており足音を殺す事ができない。望も数歩前進し、血の海の手前で足を止めた。
「おい。こっちだ。こっちに来い」
赤目のゾンビの注意を引きつける為、望はバールを大きく振って見せた。ゾンビは一瞬頭を上げたがすぐに床を舐める事を再開する。
「なんだよ。生きた人間が目の前にいるんだぞ。少しはこっちに注意を向けろって」
もう不意打ちは必要無い、そう判断した望が一歩血の池に足を踏み入れると、突然赤目のゾンビが腹這いのまま腕立て伏せをするようにさらに姿勢を低くした。両腕と両足に力を溜める様な仕草だ。
「!?」
「気をつけて!」
音葉の警告とゾンビの跳躍はほぼ同時だった。赤目のゾンビはカエルの様に両足で床を蹴ると、三メートルほどの高さまで飛び上がりそのまま望に襲い掛かろうとする。望は咄嗟に身体を捻り間一髪で攻撃をかわした。ゾンビは、勢いよく着地、床に溜まっていた液体の飛沫が上がり、望の顔に飛ぶ。望は反射的に目を閉じ顔を逸らしてしまう。
「お兄さん! このっ!」
視界を失った望は慌てて服の袖で顔を拭った。赤目のゾンビは目を閉じた望を攻撃しようとしたが、そこに音葉が背後から日本刀で斬りつける。望に飛びつこうとしていたゾンビは背中をざっくりと斬られた事で攻撃の出鼻を挫かれ、その隙に視界を取り戻した望はゾンビから距離を取った。ゾンビは地面に這いつくばりカエルの様な姿勢のまま音葉の方に振り向き、その胴体に向けて下から突き上げる様に体当たりを喰らわせた。音葉は日本刀を盾にして攻撃を防ごうとしたが、強烈な一撃に踏ん張り切れず後ろに弾き飛ばされる。ゾンビと縺れながら床に倒れた音葉だったが、次の攻撃を受ける前に素早くゾンビを蹴り飛ばした。床の上を転がり、回転の勢いを利用して立ち上がろうとする。だが運悪く、身体を起こした場所に人間とゾンビの体液が混じったピンク色の海が広がっていた。膝立ちになろうとした音葉は血溜まりに足を取られ、咄嗟に右手を床に着いて身体を支えようとしたが勢いを殺しきれず体勢が崩れる。そこに赤目のゾンビが襲い掛かろうとした。
「このっ、音葉ちゃんから離れろ!!」
望は無我夢中で赤目のゾンビに駆け寄り、背中を思いっきり蹴り飛ばした。ゾンビは仰向けに倒れ、血の海をスライディングする様に頭から滑る。望はその背中に追いつくと叫びながらバールを振り下ろした。二つに分かれたバールの先端は易々とゾンビの背中を突き破り床のタイルに食い込む。腹部からゾンビの白い体液と、ゾンビが食べていた新城の赤い血液が滲み出た。だが胴体では致命傷にはならない。ゾンビは腕立て伏せの格好をすると勢いよく両手で床を押した。床に刺さったバールが抜け、ゾンビはアスリートの様な無駄のない動作で立ち上がると腹からバールの先端を覗かせたまま、望を見て笑った。まるで意思があるかの様なゾンビの表情に、望は思わず息を飲んだ。
「お兄さん! 銃を!!」
赤目のゾンビの背後で音葉が右手首を押さえながら横に移動する。銃の射線を確保するためだ。これでゾンビを撃っても外れたり貫通したりした弾丸が音葉に命中することは無い。
ゾンビは跳躍するため再び床に屈み込もうとする。
「やらせるか!」
望は背中の短機関銃に手を伸ばし正面に構えた。安全装置を解除し、銃口をゾンビの頭部に向け躊躇なく引き金を引いた。その時間はわずか〇.五秒。その間に短機関銃から七発の弾丸が発射され内三発がゾンビの顔面に命中した。赤目のゾンビは何が起こったのか理解する事もできず、強力な九ミリ弾の直撃を受け後ろに吹き飛んだ。背中に刺さったままのバールが床を打ち、戦いの終わりを告げる鐘のように甲高い音を上げた。
仰向けに倒れたゾンビの頭部には三つの銃痕が開き、白い液体が吹き出していた。望は念の為、ゾンビの額に向かってさらに一発の弾丸を撃ち込む。ゾンビの頭が跳ね、床に叩きつけられた。至近距離からの銃撃で原型を失ったゾンビの頭部と破壊された脳を確認してから、望は横に退避していた音葉の方を向いた。
「大丈夫?」
「平気です。それより他のゾンビの警戒を、痛っ」
「音葉ちゃん!?」
「ゾンビに噛まれたわけじゃありません。床で滑った時に右手で身体を支えようとして挫いてしまいました」
「ごめん、俺がミスしたせいで」
「仕方ありません。跳ぶゾンビは私も初めてでした。でもすぐに逃げましょう。銃声を聞いた他のゾンビが来るはずです」
「そうだな。もう充分だ。ここから出よう。他の二人も多分もう死んでるだろうし」
「せめて目を閉じるか遺品を持ち帰えるくらいはしてあげたかったですが……」
音葉は地面に転がったままの新城の頭部に向かって頭を下げる。望は赤目のゾンビからバールを引き抜こうとしたが曲がってしまった、骨に引っかかっているらしく素直に引き抜けない。
「時間がありません。バールは諦めてください」
「わかった」
二人は踵を返し、後ろを警戒しながらエスカレーターに向かおうとした。望は手首を挫いた音葉に手を貸そうかと尋ねたが、音葉は首を降って応じず無事な左手で日本刀を持って先に進んだ。先頭の音葉がエスカレーターに足をかけた時、不意にホールのどこかから人間の声がした。
『……誰かいるのか』
二人は武器を手に振り返ったが誰もいない。ホールにはゾンビと新城の死体があるだけだ。
『銃声が聞こえた。誰かいるなら応答してくれ!』
再び人間の声がホールから聞こえた。声の主は男性のようでスピーカーを通したようにくぐもっている。音の発信源を探してホールを見渡した。
「あそこ。何かが落ちてるぞ」
床の上、新城の死体のすぐ近くに黒い物体が落ちていた。折り畳み式の携帯電話を太くしたようなそれは掌に収まるサイズでアンテナの様な物が側面に着いている。
「あれは……無線機ですね。大きなコンサートホールで係りの人が使っているのを見た事があります」
「無線? じゃあ話しているのは牧野さんって人か。くそ、このタイミングでか」
望は目の前のエスカレーターを見上げた。これを上り切ればゾンビのいない安全な二階へ逃れる事ができる。だが助けを求める生き残りがいた。
「残念だけど無理だ。さっきみたいなゾンビいたら俺達が危ない」
「そうですね……でもまだ生きている……これは、難しい問題です」
「それは、そうだけど。くそ、どうすれば」
今まで見た事の無い強力なゾンビ、主戦力である音葉の負傷、助けを求める生存者、見通しの効かない暗闇、様々な不確定要素が絡み合い二人は即断ができなかった。
『誰かいるなら助けてくれ!! ゾンビに囲まれて動けないんだ』
そんな二人の葛藤をよそに無線機からは助けを求める男性の悲痛な声が響いていた。




