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8月18日 ターミナル駅(4) 

 「どういう事ですか!?」


 日本刀の切先を向けられても早見は気にも留めず、ただ怪物への変貌を始めた左手を見ていた。音葉が立ち上がった衝撃で、床に落ちたプラスチックのコップが床を転がる。近くの机にぶつかると空っぽの容器がカツっと音を立てる。それを合図にようやく早見が顔を上げた。


 「落ち着きな。ゾンビになるまでもう少し時間はあるさ。左腕以外、私はまだ人間だよ」


 早見が作業着の袖をめくった。やや太めの腕にははっきりと歯型が残っていて、その傷口から広がるように皮膚が明るい灰色に近い白色になっていた。上は肘の辺り、下は指の中程まで変色している。


 「ちょっと前に噛んでもらったんだ。この感じだと後三十分ってところかね」

 「そんな!! 死んだ後に肌が白くなるんじゃないんですか?」


 望の全身から血の気が引いた。昨日「倒した」西山のゾンビは望達が見つけた時はまだ肌の色は人間のままだった。最後には全身が白くなっていたが、それまで十数分はかかっていた。もしあの時、意識があったとしたら、そう考えると地球の重力の方向が変わったかのように身体がふらついた。


 「何パターンかあるのさ。高熱でぽっくり逝った人はゾンビ化してから白化するし、噛まれてじわじわと全身が白くなって、最後に脳を侵されてゾンビになる奴もいる。私は後者だったみたいだね」


 早見が自分の左手を握ったり開いたりしながら言った。手の見た目だけは完全にゾンビだったがまだ早見のコントロールが効くらしい。それを見て望は胸をなでおろす。西山は全身が白くなる前にすでに意識や知性を失っていた。だが今の早見は左手はゾンビのようだが意識ははっきりしているし理性も保っている。意識にゾンビと人間の境界線があるのなら、あの西山は間違いなくゾンビだった。

 ほっとする望の隣で音葉も警戒を解き椅子に座り直していた。


 「おばさんは誰かに噛んでもらったんですか? 噛まれた、ではなく」

 「そうさ。私はね、ゾンビになるつもりだったんだ。でもあんた達を見て気が変わったよ。やっぱり人様に迷惑をかける生き方をしちゃいけない」

 「どういうことですか?」

 「あの奥に、」


 早見は指先まで白くなった左手で部屋の奥にある扉を指差した。扉には「書庫」と書かれたプレートがかけられている。


 「あの奥に私の息子がいる。翔太っていうんだ。都庁から脱出した時にゾンビに噛まれちまってね。本当は直ぐに頭を撃ち抜かなきゃいけなかったんだけど、できなかった。一緒にいた警官の生き残りにあの部屋に閉じ込めてもらって、私だけシェルターには向かわずここに残ったのさ」


 望は書庫の方に耳を傾けてみたが何かが中にいる気配は感じなかった。


 「本当に中にゾン……早見さんの息子さんがいらっしゃるんですか? 物音とかしませんが」

 「一人にしておけば大人しいものなのさ。だから、私もいつか意識がもどらないかって期待したんだ……まあ何日経っても帰って来なかったけどね。だから私もゾンビになって側にいてやろうって思ったんだ。でも、あんた達が来ちまった。死んだ後も生きている人に迷惑をかけちゃいけないからね。だから頼みがあるんだ。それで、」


 早見は左手で望が持っている短機関銃を指さそうとした。しかしゾンビ化が進行したのか五本の指は小刻みに震えるだけで持ち主の言う事を聞かなかった。


 「参ったね……もう指が動かないよ。腕だけが別の生き物になっちまったみたいだ。もうすぐ、私も私じゃなくなるんだね」


 早見は右手で完全に白くなった左手をこする。


 「白粉を塗ったってこうはならないね……そう、だから頼みがあるんだ。私がゾンビになったら、私とあの子をその銃で眠らせてくれないかい」


 早見は真っ直ぐ見つめられ望はたじろいだ。ゾンビになってしまった人は何度も見た。だがこれからゾンビになる人間は初めてだ。ほんの少し前まで普通に会話をしていた人間をゾンビになったからといって殺せるのか、自信は無かった。

 望が肩から下げている短機関銃は拳銃の三倍は大きく重い。その分威力もあるのだろう。ゾンビの頭部も簡単に貫けるはずだ。だが「できる」と「やれる」は同じではない。


 「お兄さん、難しいなら私がやりましょうか?」


 音葉が自分の膝の上に抜身の日本刀を置いた。今まで何体ものゾンビを葬って来た刀身が部屋の明かりを反射する。


 「奥山さんだっけ? ずいぶん物騒な物を持ってるね。ゾンビになって痛みを感じるかわからないけど、できるだけスパッとやっておくれよ。特に翔太の方はね」


 音葉が頷くと早見は安心したのか、椅子の背もたれに寄りかかった。顔全体が赤くなり、まるでサウナの中にいるかのように全身から汗が吹き出し始める。


 「早見さん、大丈夫ですか」


 望が手を差し出そうとすると早見は首を振って拒絶した。


 「噛まれなければ感染しないとは思うけど、念のため近づかない方がいいよ」

 「でも、何かできることはありませんか」

 「なら、飲み物を、くれないか。さっきからやたら喉が乾くんだ」

 「わかりました!」


 望は素早く席を立つと、壁際に置かれた食料の山に向かった。そこには早見が駅構内で集めたらしい、大量のペットボトルや食料が置かれていた。まともな物はあらかた消費されたらしく、飲み物は変わった味のジュースや炭酸、食料も酒のつまみや激辛味、期間限定のシークワーサー風味スナックなど癖の強い物ばかり残っていた。その中から瓶に入った海外のミネラルウォーターと生姜のど飴を手に取り早見の所に戻る。


 「最後くらい、日本の水が飲みたい、なんてのは贅沢かねえ……」


 望はプラスチックコップに水を注ぎ早見に差し出した。早見はまだ動く右手でコップを受け取ると一気に飲み干した。望は空いたコップに水を注ぎながら自分にこの人が撃てるのかと何度も自問する。


 「奇妙なもんだね……ゾンビになる人は、たくさん見て来たけど、自分の番が来るなんてね。結構、苦しいもんさ。全身が、燃える様に熱い。身体の細胞が一つづつ焼かれて、別な物に置き換わっていく感じがする。身体の感覚も、どんどん遠くなってくねえ……これは、何味かい」


 早見はのど飴を口に入れたが味がわからないらしい。「生姜味です」と望が言うと、確かめる様に何度も飴を口の中で転がし、最後は力なく首を振り「わからない」と呟いた。

 早見の衰弱は急速に進み、首のあたりまで白化が進行していた。それを見た音葉は早見が答えられる内に話を聞いておこうと質問を始める。


 「おばさん、教えてください。近くにあるシェルターの位置、ご存知ですか?」

 「シェルター? ああ。自衛隊は、陸軍中野学校の地下に秘密の避難所があるって言っていたよ」

 「中野ですか。そこは、今は警察の病院とか公園になっている場所ですよね。私の家はその近所にありました。何日か前、家に寄った後に警察病院にも行きました。でも中も外もゾンビだらけで避難所がある感じはしなかったです」

 「そうなのかい? じゃあ、自衛隊が、嘘をついていたのかもねえ」

 「嘘ですか。でもどうして」

 「連中は、最初から、胡散臭かったからね。隊長以外は、マスクを一度も外さなかったし、声をかけても返事もしなかった。まるでロボットだよ。脱出する時に身軽になるために、余計な武器は都庁に置いていけなんて言うし。でも、私たちはもう限界で連中を信じるしかなかったのさ。……ねえ奥山さん、地下で死んでいた人の中に自衛隊はいたかい? 防毒マスクに迷彩服、鎧みたいな防弾チョッキを着ていた」

 「いなかったと思います。お兄さんは覚えていますか?」

 「いや、地下にいたのは作業着の人、警官、あとは高校生とか普通の服の人だけだったと思う」

 「じゃあ、連中だけ逃げたのかもしれないね」


 ある程度予想をしていたのか、あるいはゾンビ化が進み感情が希薄になってきたのか、早見はそれほど驚きを見せなかった。音葉は質問を続けるか迷っていたがその様子を見て心を決める。


 「おばさん、言いにくいんですが、地下の人たちは銃で殺されたように見えました」

 「銃で?」

 「はい。それもゾンビになる前に」

 「……連中は最初、知事だけを連れて避難するつもりだったんだ。それを知事が全員で避難すると説得して、いや説得できたように見えただけかもしれないね。ああ、だからヘリコプターなのか。百人は無理でも、知事と自衛隊だけなら、一台のヘリコプターで輸送できるものね」

 「ヘリで逃げるために、他の百人を殺したっていうんですか!? そんなの許されるわけがない」

 「お兄さん、落ち着いてください。おばさん、もう一つ聞きたい事があるんです」


 早見がもう長くない事を悟った音葉がヒートアップし始めた望を抑える。


 「その自衛隊は館山から来たんでしょうか?」

 「館山? 確か千葉県にある町よね。そこに何かあるのかい」

 「私たち、館山に向かってるんです。そこで自衛隊が救助活動をしていると聞きました」


 音葉は西山の手帳に書かれたいた館山の自衛隊の話を早見に聞かせた。


 「あの連中は、どこから来たとか一言も話さなかった。でも生き残りの保護してるって感じじゃなかったね。違うグループなんじゃないかね……」

 

 早見のゾンビ化はどんどんと進行していった。ついに喉の辺りまで肌が白ばみはじめ、言葉を発するのが難しくなる。


 「悪いわね……そろそろ、お迎えが、来る頃。私は息子の所に行くよ」


 早見は立ち上がると熱でふらつきながら書庫に向かった。望と音葉もそれぞれの武器を手に早見の後を追う。早見が扉を開けると、書庫の中にはスチール製のキャビネットがずらっと並びんでいた。


 「翔くん……」


 早見の呼びかけに反応するように部屋の奥からゾンビのうめき声と金属と金属がぶつかり合う音がした。早見はゾンビ化の始まった右手でスチールラックを掴み身体を支えながらゆっくりと書庫の奥に進む。書庫の一番奥には手錠でスチールラックに繋がれた一人の少年がいた。


 「子供の……ゾンビ?」


 年齢は六歳くらい。上下ジャージでサッカーをしてそうな少年だった。外に出ている肌は火山灰色。目は濁り涎を滴らせながら歯をむき出し唸っている。既にゾンビ化しているのは明白だった。

 望は短機関銃を向けようとしたが、音葉に制止される。早見が近づくと少年ゾンビは視界に入って来た新鮮な餌に向けて牙を剥き手を伸ばした。だが腕にかけられた手錠のため近づくことはできない。手錠がかかっているスチールラックは耐震化のためか壁に固定されており少年ゾンビがいくらもがいても微動だにしなかった。


 「翔くん、待たせて、ごめんなさいね」


 早見は愛情と哀しみの籠った眼差しを少年ゾンビに向けた。そして息子のゾンビのすぐ近くに倒れこむように腰を下ろすとポケットから手錠を取り出し自分の右腕を金属製のラックに固定する。その隣で早見の息子だった少年ゾンビが母親を食らおうと必死に自由な方の手を伸ばしていた。


 「不思議なもんさ……こんなになっちまっても……子供の事は愛おしく思えるんだから……奥山さんと、ああ、すまない、あんたの名前、なんだったっけ」

 「望です。冠木望」

 「ああ、冠木さん、というのね。悪いけど後の事、頼むわね。しょうくん、ままも、もうすぐ、そばに」


 そのまま目を閉じようとした早見がふと何かに気が付いたように顔を上げた。左目はすでに白く濁っていたが、右眼の黒い瞳が何かを訴えようとしている。


 「か、ぶら……」


 最後に望の名前らしいものを口にした後、早見は力尽きた。がくっと頭が落ち、苦しそうに上下していた胸の動きがゆっくりと止まる。


 「早見さん? 早見さん!」


 早見の身体がゆっくりと床に倒れ、力の抜けた手足が重力に負けて身体から離れた。


 「……もう亡くなったみたいです」

 「どうして最後に俺の名前を口にしたんだろう」

 「わかりません。熱とゾンビ化で意識が混濁していたのかもしれません。最後に聞いた単語がお兄さんの名前でしたらか」

 「そんなものなのか」


 音葉は目を閉じて亡くなったばかりの早見に黙祷を捧げた。望も音葉に続いて首を垂れる。

 事切れた早見の隣で、母親に手を伸ばそうとしていた早見の息子のゾンビが動きをピタッと止めた。ゾンビは何か不思議そうな物を見る様に母親だった死体に首を傾げ、今度は望と音葉に濁った眼球を向けた。


 「ゾンビは生きている人間とゾンビの区別がつくみたいですね」


 やがて早見だった死体が動き出す。ゆっくり起き上がると理性を感じさせない表情と濁った瞳を望と音葉に向けた。そして隣に繋がれている少年ゾンビと同じように、うめき声をあげながら獲物を掴もうする。だが生前の早見が自分の腕を手錠でスチールラックに固定していたので望達には届かない。


 「これがゾンビになるってことか。さっきまで生きていたのに」

 「私たちも油断すればすぐにこうなります。お兄さん、もし私がゾンビになっても迷わず殺してくださいね。私もお兄さんがゾンビになったら確実に脳みそを破壊しますから」

 「……わかった。でもそうならないようにする」


 音葉は一歩前に進み出ると日本刀で二体のゾンビに止めを刺そうとする。


 「待って。俺がやる。早見さんは俺に頼んだんだし、刀だとゾンビに近づかなくちゃいけない。リスクがあるだろ? 銃なら離れた所から撃てる」


 音葉は望の顔をまじまじと見た後、こくりと頷いた。


 「わかりました。よろしくお願いします」


 それから望は早見から受け取った短機関銃を構え、照準をゾンビの頭部に合わせ引き金を引いた。銃声が二度鳴り響き、大きな物と小さな物が重なるように床に倒れた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 早見さんの最後はゾンビ物の悲哀が籠っていて素晴らしかったです。ケリをつけれる人もいればゾンビになった家族と運命を共にする人もいますよね。 [一言] 地下にいたゾンビ達を生前に殺したのは偽自…
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