8月18日 ターミナル駅(2)
作業着はポケットが多く調べるのに手間がかかった。たが出て来たのは財布とハンカチだけ。財布には身分証が入っており、死体の生前の名前が高田良則で東京都の職員だったことがわかった。
音葉はせめてもの弔いに身分証を死体の手に握らせた。その時、遠くで何かが動いた気配がした。音葉は猟犬の接近を察知した野兎のようにはっと顔を上げる。視線先はトンネルの闇に向けられていた。望もそちらに意識を向けると、コンクリートで舗装された長いトンネルの向こうから無数の掠れた声や歩調の揃わない足音など聞こえた。音葉は懐中電灯を向けたがトンネルの先はカーブになっており遠くまで先見通すことはできなかった。しかし確実に何かが近づいて来る。
「またゾンビが来るのか」
「迂闊でした。銃声が他のゾンビを集めてしまったみたいです」
「どうする? 戦うか?」
「数によります。様子を見て、一体ずつ倒せるなら戦いましょう。先に進みたいですし。でも数が多いならこの駅から地上に出ましょう。直ぐに逃げられるように準備をしておいてください」
「俺も一緒に戦うよ。一人より二人の方が安全だろ」
「ありがとうございます。でも次は私が戦います。お兄さんは銃を撃つ準備だけお願いします」
望は頷くとドラマで見た知識を頼りに銃の側面にある出っ張りを押したり引いたりしてみた。すると銃が二つに折れ、弾倉が露わになり、五つの穴とそこに詰まった三発の空の薬きょうと二発の弾丸が取り出せるようになる。望はまず使用済みの薬きょうを床に捨てた。中身の弾丸を失った金属製の筒はちょうどレールの上に落ち甲高い音を立てた。横にいた音葉が余計な音を立てるなと言いたそうに眉を潜め、望は申し訳なさそうに身を縮めながらカバンから新しい銃弾を取り出し空になった弾倉に込める。暗闇の中で金色に輝く銃弾を確認し、二つに折れた銃を元に戻す。
トンネルの先から聞こえてくる音はその音量と密度を増していく。不規則に立ち鳴らされる音が一つの塊となって空気を震わせていた。さきほど高田ゾンビが接近して来た時、その足音はクリアに聞き取ることができた。しかし今は無数の音が壁に反響し、暗闇の中で何が起きているのか、どれくらいの数がいるのかはわからない。
「数、多そうだな」
「そうですね。二十か、四十か、もっと多いかもしれません。……そろそろです」
カーブの先からゾンビが姿を現した。中年の女性のようだ。足元に横たわる高田の死体と同じ作業着を着ている。さらに同じ格好をしたゾンビが続いて現れる。一体、二体、その数は次々と増えていく。
「これは、すごいな」
トンネルの先からは百体近いゾンビの群れが現れた。百メートル以上離れているのでまだ危険ではないが、戦えば間違いなく勝てない数だ。望の口の中がカラカラに乾いた。
「高田さんの知り合いみたいですね」
音葉は平然と手にした懐中電灯を左右に振ってゾンビの群れの全体像を確認していた。半数近くは肩だけ緑色の作業服を着ている。他にも警官や高校生らしいゾンビ、スカート姿の女性や小学生低学年くらいの小さな子供の姿もある。ゾンビの服装はバラバラだったが一つだけ共通点があった。どのゾンビも、身体のどこかしら、胴体や頭部を血で赤黒く染めていた。赤い血はゾンビ化した人間を倒しても出ない。
「あの人たちも生きている間に殺されたみたいですね」
「そんな!! 小さな子供も……一体誰がやったんだ」
ゾンビの群れに恐怖を感じていた望だったが、その感情は激しい怒りによって上書きされた。この悪夢のような世界を生き延びていた人々を、子供まで殺すような人間がいる、そのことが信じられず、その理不尽さに悔しさと憤りを感じていた。
「落ち着いてください」
怒りの矛先を見つけられず地面を踏んだ望に音葉はあくまでも冷静に声をかけた。
「あれだけの数の人を殺したんです。殺した側も何か理由があったはずです」
「だとしても、生きている間に殺すことはないだろ」
「それが最善だった場合もありえます。全員がゾンビ化する寸前だったのかもしれませんし、もっと私たちが考えつかないような背景があったのかもしれません。とにかく今は冷静に。どんな死に方をしていても、ゾンビはゾンビです。同情したところで何の役にも立ちません」
「そうかもしれないけど……」
「お兄さん。やるべきことを思い出してください。館山に行って、西山さんの妹を見つけることですよね。その目的にあの人達の死に方は関係ありますか」
あるだろ、と言いかけ望は言葉をぐっと飲み込んだ。もし、彼らを殺したのが快楽殺人犯であれば西山の妹にも身の危険が及ぶ可能性がある。だが殺された理由は当事者でなければわからない。音葉の言う通り、殺した側に何か理由があったかもしれない。望が怒りを爆発させたところで死者が生き返ったりゾンビが人間に戻ったりするわけでもない。望は一度目を閉じた。開きっぱなしで乾燥していた眼が涙で潤った。瞬きを忘れるほど冷静さを失っていた、その事実が望の興奮を幾分か鎮めた。
「……そうだな。音葉ちゃんの言う通りだ。あのゾンビは俺たちには関係無い。今大事なのは、生き残ることだ。生きて館山に行く」
「そうです。それを忘れないでください」
「これからどうする? あの数は戦えないよな」
「はい。突破は無理です。駅に上がりましょう。ゾンビはホームの段差を超えられません」
望と音葉はゾンビの大群との戦闘は避け、線路からホームに登った。長いホームを階段に向かっ歩いていると、ゾンビたちの先頭グループがトンネルから駅の中に入ってきた。だが一メートル以上の高さがあるホームに登る手段がなく、ただ餌を待つ鯉の様に口を開き、両手をホームに向かって伸ばすだけだった。
そのゾンビの群れに自分達と同年代の男女の姿を見つけ、望は思わず西山の妹ではないかと目を凝らした。
「どうしたんですか?」
「いや、あの子、俺たちと同じくらいの年だと思って」
「有名な進学校の制服ですね」
「そこって中高一貫だったりするのか?」
「いえ、高校だけだったと思います」
望はほっと胸をなでおろした。西山の妹はまだ中学生のはずだ。高校生なら別人だ。
二人はゾンビの群れに背を向け、地上に出るため階段を上った。改札階にたどり着くと下の方から響いて来ていたゾンビの声が小さくなって行くのが聞こえた。目の前にいた生きた人間が消えたことでゾンビの群れは別のどこかへ移動を始めたのだろう。
無人の構内を歩いている途中、壁に表示された東京都の地下鉄の路線図を見つけた。
「……この駅から別の地下鉄に乗り換えても千葉までいけそうですね」
「この紫色の地下鉄? 確かに千葉まで続く緑色の路線とつながっているけど、次に乗り換える場所はターミナル駅だ。毎日何千万人が使っていた駅だからゾンビもたくさんいるんじゃないか」
「どうでしょう。噴火の次の日には東京中の電車は全面封鎖になったはずです。いくらターミナル駅でもシャッターが閉じていればゾンビは入って来なかったんじゃないかと思います」
「地下鉄を進んだ方が外よりは安全か。わかった。そうしよう」
二人はそのまま駅構内を通って別の地下鉄に進むことにした。地上につながる入り口は全てシャッターが下りており、駅の中にゾンビの姿は見当たらなかったが代わりに駅員の死体が数体あった。外傷は無くゾンビ化もしていない。高熱で倒れたまま息を引き取ったらしい。
「あの人たちは幸せだったのかもしれませんね」
ぽつりと音葉が呟いた。望は返す言葉が見つからず黙った少女の背中を追って歩き続けた。
二人が乗り換えた路線は比較的最近に作られたもので、今まで歩いていた路線よりもさらに地下深くを通っていた。そのホームに降りるまで、二人は百段を軽く超える階段を何度も下る必要があった。ホームは完全に無人で線路上にもゾンビの姿は無い。てホームに降りた。望と音葉はホームドアが設置されていないホームの端から線路に降り、その上を歩きながらターミナル駅を目指した。途中、大きな障害もゾンビとの遭遇もなく一時間ほどで目的地に到着した。
「やっとターミナル駅だ。普段は電車で十分もかからないのに。歩くと遠いんだな」
目的地のホームによじ登った望は周囲を見渡たす。ここにも誰もいない。耳を澄ませてもゾンビの気配も生存者の気配も感じられ無かった。
ターミナル駅はJRや私鉄、三つの地下鉄が乗り入れる巨大な駅で、同じ駅名でも路線が違えばホームは数百メートルの距離が離れている。駅そのもの巨大で東口から西口に移動するだけでもかなりの時間がかかる。望も良く利用する駅ではあったが、普段は別の路線でターミナル駅に入るので、現在いるホームに馴染みはなかった。
「乗り換えるには上に上がらないとです。また階段ですね……」
音葉が二百段はありそうな長いエスカレーターを見上げ嘆息する。エスカレーターは四基が横に並んでおり、それぞれ大人二人が並べる程度の幅があった。本来であれば乗客を地上まで運んでくれる設備だが、今は電気が通じていないのでただの階段と化していた。
「上にゾンビがいるかもしれません。すぐに戦えるように休憩しながら登りましょう」
止まったままのエスカレーターの一段目に音葉が足をかける。その背中で二つに束ねた長い髪がねこじゃらしの様にふわっと揺れた。頼れる頼もしい背中だ。だがエスカレーターの一段目に乗ってようやく望と同じくらいの背丈になる。望はその小柄な少女に続こうとして、足を止めた。
「音葉ちゃん、今度は俺が前を歩くよ」
音葉はエスカレーターの上でくるっと後ろを振り向くと申し訳なさそうな顔をした。
「その申し出は嬉しいんですけど、外に出て二日目のお兄さんにはまだ早いと思います。前から来るゾンビや辺りに隠れている危険に気を付けながら歩かないとなんです」
「ここは階段だろ? 左右は壁だし、ゾンビが来るとしても上からだけ。それなら俺でも見張りはできる」
「まあ、確かにそうですけど」
音葉は少し考えてから自分の持つ日本刀と望の拳銃を見比べた。エスカレーター内は左右に手すりがあり刀を振り回すのには向いていない。銃の方が戦いやすそうだし、望に経験を積ませるいい機会にも思えた。
「わかりました。ではお願いします」
二人は位置を入れ替えると十階建のビルがすっぽり収まるくらいの巨大な空間をひたすら登りはじめた。四列のエレベーターの中央右側を望が、その数段後ろの中央左側を音葉が登る。望は不安を感じながらも階段を登り切った所にある空間を凝視していた。いつも目の前にあった頼れる背中は、今では後ろから聞こえてくる足音になった。音葉が担ってくれた役割を今度は自分が担う。その意気込みで銃を握る手は自然と力が入った。
二人の足音が高い天井に反響し、シャボン玉の様に上に登っては消えていく。三分の二ほど登った所で望は何かの気配を感じた。タイル張りの床を何かが歩く音がする。錆びついたロボットのような歩き方はゾンビに違いない。
「待って!」
望は足を止め、エスカレーターの出口に銃口を向けた。
「上にゾンビがいる」
「しゃがんで身を隠してください。やり過ごせるかもしれません」
「そ、そうか」
音葉に言われ、望はエスカレーターの手すりに身を隠した。やがて上の方に人影が現れる。ふらつく足、白い顔、間違いなくゾンビだ。望は銃を握りしめたまま、そのまま通り過ぎてくれと祈ったが、ゾンビは二人の匂いに気が付いたのか、エスカレーターの中に視線を落とし、その中腹に新鮮な餌を見つけてしまった。ゾンビは嬉々として二人に襲いかかろうとするが、階段を一段ずつ降りる知恵はなく、勢いよく踏み出した脚は宙を踏み抜く。ゾンビは頭から望が登っていた列のエスカレーターに落ち、転がり始めた。
「お兄さん、避けてください!」
音葉が叫ぶ。ゾンビは狭いエスカレーターの中を右に左に蛇行しながら転がり落ちている。
「避けるってこの狭さだぞ!? 場所なんて無い」
「右です、お兄さん、右のレーンに飛び移ってください!!」
「うぎっ? 飛び移るっ!?」
望は慌てて手すりから身を乗り出し、隣のエスカレーターレーンに飛び移ろうとした。エスカレーターとエスカレーターの間は長い滑り台の様になっているので移動に失敗すれば、数十メートル下まで一直線に落下することになる。
「急いで!! もう来ます」
「ああ、くそっ」
望は隣のエスカレーターの手すりを掴むと勢いをつけて飛び移った。頭と身体は隣のエスカレーターに入れたが、右足が滑り台の上を滑る。何とか左足で踏ん張り、腕の力を総動員して全身を隣のエスカレーターの中に避難させた。その直後、ゾンビが先ほどまで望がいた空間をグチャとかベチャとか柔らかい組織を潰しながら転がり落ちて行った。たっぷり時間をかけて一番下まで落ちたゾンビは、一際大きな音を立てて地面に潰れた。灰色の液体が床一面に広がる。ゾンビの頭部は無事らしく、立ち上がろうとしているが、両手両脚の骨が折れたからか床の上をのたうちまわるだけだった。
「いったいなんなんだ!?」
「お兄さん、下じゃないです! 上を見てください。また来ます!!」
音葉の声を合図にしたように、次々とゾンビが現れた。どのゾンビもエスカレーターを降りようとして、段差を踏み外し転がり落ちて来る。幸いというべきか、エスカレーターは四列に仕切られているので回避は難しくは無かった。だが数が多い。一体が右端の列を落ちてきたので真ん中の列に移動すると、すぐに次のゾンビがその列を降りようとして足を滑らせる。ダイナミックに前転しながら落ちて来るゾンビ、滑り台のように滑り落ちてくるゾンビ、中には音葉の目の前で両手を踏ん張って止まった強者ゾンビもいたが、止まった一秒後に日本刀で眼球を貫かれそのまま下にずり落ちて行った。まるで坂道にスイカを転がすように、ゾンビが次々とエスカレーターの中を転がっていき、下で砕け、潰れていった。
「きりがない!」
「頑張ってください。間隔が開いてきていますから後少しです」
転がり落ちて行ったゾンビたちが次々と階下で潰れていく。頭部を破壊されるものが多いらしく、ほとんどはそのまま動かなくなる。だが次第につぶれたゾンビがクッションになり十五体目くらいから落ちた後、元気にエスカレーターを這い上がり始めるゾンビも現れた。そこに別のゾンビが突っ込み、一緒になって階下に落ちて行く。エレベーターの上も、必死にゾンビを避ける望と音葉も、大量のゾンビが折り重なる下も、混沌とした状態が続いた。
「はあはあ……くそっ、また来る」
「次、左です。一番左側の列まで移動してください」
二人は息を切らせながら必死にゾンビを避け続けた。永遠に続くかと思われたゾンビ落としは二十五体目がうめき声をあげながら転がり落ちたところで途切れた。ゾンビは打ち止めになったが、第二波が来ないとも限らない。二人は手すりにつかまりすぐに隣に飛び移れる姿勢で次に備えた。だが数分経っても新しいゾンビは出てこなかった。
「お、おわた、のか?」
「そうみたいですね……落ち着いたら、上に上がりましょう」
息を整えた音葉と望はいつでも回避行動が取れるように準備をしながらエスカレーターを上りきった。
「これは!?」
「ここも凄いですね。ターミナル駅だけあってゾンビも人も大勢いたみたいです」
エスカレーターを登り切った先はかなりの広さがある空間で、左手には改札、右手には別の地下鉄へ続く連絡通路が見えた。壁はレンガ調になっており、事務所や機械室があるのか、武骨な金属製の扉がいくつか見えた。床はタイル張りだったが、そこに激しい戦闘の跡があった。おびただしい数のゾンビの死体が床に転がり正方形のタイルの溝に沿って白い液体が流れ固まっていた。
「誰かがここで、ゾンビと戦ったのか」
「三十体はありますね。気をつけてください。まだ動けるゾンビがいるかもしれません」
倒れたゾンビの服装は先ほどと違いバラバラで、一部は腕や脚が無かったり内臓が飛び出たりしていた。ほとんどの死体は頭部を何か強力な力で破壊され、火山灰色の液体や頭部の残骸が辺りに散らばっている。
「バットや刀の傷ではありませんね。これも銃でしょうか」
音葉が一番近くにあった死体の頭を覗き込みながら言った。死体の額には丸い穴が空いており、後頭部には内側から爆発でも起きたかのように大きな穴が空いており髪の毛に乳白色の血液のようなものが固着していた。死体はどれも乾燥していて、戦いがあったのは数日前のように見えた。
「エスカレーターを降りてきたゾンビ達はここの生き残りだったみたいですね。これで全部だったならいいのですが」
音葉は近くの床に電源の切れたスマートフォンを見つけた。それを拾いあげるとゾンビが倒れている辺りに投げる。スマートフォンは床にぶつかり、背面のバッテリーカバーが弾け飛んだ。その音に反応して倒れているゾンビの一部がむくりと起き上がった。数は三体。いずれも頭部の一部にダメージを受けている。
「弾丸を頭に受けたけれど脳は破壊されなかった、そんな感じですね。それでしばらく動けなかったんでしょうか。お兄さんは下がっていてください。今度は私が対処します」
「いや、俺だって戦える」
「ここで銃を撃ったらまた余計なゾンビを集めてしまいます。ここは私に任せてください」
音葉は日本刀を構えて三体のゾンビと対峙した。動きは鈍かったが三体がまとまっているので迂闊には近づけない。どうやって各個撃破するか戦略を練っていると、突然ばんっと金属板を壁に叩きつけたような音がした。とっさに刀を音のした方に向ける。その先で壁に設置されていた金属製の扉に一つが開いており、中から東京都の灰色の作業服を着た女性が現れた。女性の手には大きな銃がある。
「あなた達、どうして戻ってきたの!?」
叫びながら作業着の女性は手にした銃の引き金を引いた。