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8月18日 ターミナル駅(1)

 翌朝、といっても地下鉄の中なので陽の光はなかったが、望と音葉の二人は昨晩と同じ保存食の朝食を取った後、車両を出て千葉に向けて歩き始めた。先頭を日本刀を持った音葉が歩き、その後ろにヘッドライトを着けた望が続く。出発前に決めた通り、音葉が正面、望が左右を注意しながら線路の上を進んでいった。トンネルを走る上りと下りの二本の線路は狭い間隔で並ぶ柱で仕切られているだけなので、簡単に行き来ができる。望は反対側の線路に怪しい動きが無いか警戒していたが、危険の兆候を見られなかった。先を進む音葉との距離は昨日よりも五十センチほど近い。地下に入ってから西山以外のゾンビを一体も見ていないからか、あるいは一晩を同じ空間で過ごしたからか、張り詰めた糸の様な音葉の緊張感は、今日は幾分か和らいでいた。


 暗いトンネルを照らすのは二つの小さな明かりだけだった。望のヘッドライトの明かりは音葉の強力なLEDの懐中電灯に比べると光の強さも範囲も弱々しいものだった。その小さな視界の中で、音葉の二つに束ねられた長い髪が少女の歩調に合わせて振り子のようにリズミカルに揺れている。望は何とは無しに音葉の背中を眺めていた。身体は小さいが素早い動きで日本刀を振いゾンビを倒す、その姿はどこか猫や豹に似ていた。

 望のヘッドライトが自分の背中から動かないことに気付いた音葉が後ろを振り返る。ワンテンポ遅れて二つに結ばれた髪がふわっと横に広がった。


 「何ですか? 嫌な視線を感じます」

 「あ、いや、音葉ちゃんの髪が」

 「私の髪がどうかしましたか?」


 小柄な少女の眉がつり上がる。


 「……猫じゃらしみたいに見えて」

 「はあ?」


 一瞬、ぽかんとした後、音葉は小さくぷっと吹き出した。


 「何ですか、それ。私が猫じゃらしならお兄さんは猫ですか?」

 「たまたま目に入っただけだから。深い意味はないんだ」

 「……私の髪、気になりますか」


 自分の髪をちらりと見ながら音葉が少しだけ視線を落とした。


 「その内切ろうとは思っているんです。戦うとき邪魔になりますから。でもまだ心が決まらないんです」


 望が首を傾げていると、周囲に危険が無いからか音葉が話を続けた。


 「私、ピアノをしていたんです。発表会とかコンクールの時は髪が長い方が色々とアレンジができて都合がいいんです。綺麗な髪飾りとしていると審査員の印象が変わりますから」

 「ああ、希美も中学に入る前は髪を伸ばしてたな……」


 妹の名前を口にしつつ、望の頭の中には西山千明の姿が浮かんでいた。優等生然とした艶やかな黒髪、その長い髪を暑い日上げる仕草、最後に見たポニーテールを揺らしながら人混みに消える背中、一度思い出すと記憶の濁流が望の心をかき乱した。望は頭を振り強引に西山の思い出を意識の外に振り捨てる。決して忘れたいわけではない。しかし感傷に浸るには今ではない。


 「そういえば、水と食料が後一回分しかない。今日中に見つけないと。俺はカップラーメンが食べたいな。お湯が無くてもいいからさ」


 過ぎ去った事は全て無かったかのように望は能天気に言った。無理をして軽口を叩いた望の気持ちを察した音葉は何かを言いかけて一度口を閉ざす。小さく頷いた後、望を励ますように笑顔を向けた。


 「……私は缶詰です。塩っ気のある物を探しましょう」


 それから二人はこれから食べたい物についてどこに行けば手に入るかという会話をしながら地下鉄の中を進み続けた。二十分ほど歩くと次の地下鉄駅が見えてきた。別の地下鉄路線との接続駅で、ホーム上にこの先四百メートルと案内が出ていた。ホームドアは全て閉じており、人影は無い。いつも通り駅を素通りしようとしたところで音葉が足を止め、左手を上げた。止まれ、の合図だ。


 「この先、気配があります」

 「ゾンビ?」

 「たぶん。でも数は多くないと思います。足音みたいなもの聞こえませんか」


 耳をすませてみると排水溝を流れる水の音に混じり別の音が聞こえる。それほど大きく無い平らな何か、靴底のような物が規則正しく水面を打っていた。


 「確かに足音みたいだ。どうする? 引き返すか?」

 「二体までなら私で対応できます。三体以上ならこの駅から地上に出ましょう。お兄さん、ライトを交換してください。戦う私がヘッドライトを使いますから、お兄さんは手持ちのライトで私の足元を照らしてください」

 「わかった。でも最初からこうしておけばよかったな。音葉ちゃん、片手じゃ刀が使いにくいよな。気づかなかった」

 「……こっちのライトの方が光も強いですし電池も長持ちします。昨日のお兄さんにこのライトを預けるのは不安でしたので予備のヘッドライトを使ってもらっていました」

 「うっ、そういうことか。今日はいいんだ?」

 「私も腹をくくったんです。これから二人で生きていくにはお互いを信じることが大切ですから。私の期待、裏切らないでくださいね」

 「がんばるよ……一応、武器もあるし」


 望は西山の形見となった拳銃をカバンのナイロン生地の上から触った。だが銃があればすぐに戦えるとは考えていない。訓練を受けた警官でさえ犯人の脚を狙って発砲するのは難しいと聞いたことがある。素人の望が鈍いとはいえ動き回るゾンビの頭を正確に打ち抜けるとは思えなかった。だが今の状況では難しいからといって戦いを避けるわけにはいかない。

 ヘッドライトと懐中電灯を交換した二人は駅の端で敵が現れるのを待った。やがて前方に人影が現れる。顔が白色なのでゾンビで間違いない。だが身長がかなり低く、小柄な音葉よりも一回り小さく見えた。


 「子供?」

 「いえ、排水溝の中を歩いています」


 そのゾンビはレールとレールの間の排水溝の中を歩いていた。排水溝の深さは三十センチくらい。足が上がらないのか、あるいは排水溝を流れる水に浸かっていたいのか外に出てくる気配はない。そのゾンビは三十代くらいの男性で肩の部分だけ緑色をした灰色の作業を着ていた。命を落とした原因なのか、胸から腹にかけて血で真っ黒に染まっている。排水溝は狭い一本の水路なので中を進むゾンビの動きも自然と直線的になっていた。


 「音葉ちゃん、あのゾンビ、俺にやらせてくれないか」

 「お兄さんが? 武器はどうするんですか」

 「銃を使う。あのゾンビは一体だし、動きも単調だから頭を狙えると思う」

 「射撃の経験はあるんですか?」

 「無いよ。だからここで練習しておきたいんだ。いざって時、ちゃんと戦えるように」

 「……確かにそうですね。ではライトを貸してください。私がゾンビを照らします」


 音葉は日本刀を左手だけで持つと懐中電灯を受け取り、前方の作業着ゾンビに向けた。距離は三十メートルくらい。

 望はカバンを床に置き、片膝を地面について銃を取り出した。弾倉には五発の弾丸が入ったままになっている。銃口を下向けながらゆっくりと立ち上がり、両手で黒い金属の塊を握ると前に突き出した。初めて扱う銃に緊張しつつ映画や漫画で読んだ知識を総動員する。


 「撃鉄を引いて、狙いをつけて、引き金を引く。それでいけるはずだ」

 「……私や自分を撃たないでくださいね」


 不安そうな音葉が望から距離をとる。望は銃のリアサイトの凹んだ部分にフロントサイト凸部分を合わせ、さらにその先にソンビを重ねる。作業着ゾンビは少し小太りな体型をしており的は大きい。だが狙わなくてはいけないのは樽のような胴体ではなくサッカーボールのような頭部だ。ゾンビは向けられた銃口を気にすることなく目の前にある光源、望と音葉に向けて一心不乱に排水溝の中を歩き続けている。


 (きっとあの人にも家族や友達がいる。もしかしたら子供とか)


 ゾンビ化した西山の姿が頭の中をちらつき、引き金を引こうとする指が強張った。


 (いや、あれはゾンビだ。人間じゃない。人間だったあの人はもういない。怪物が体を乗っ取っているだけだ。大丈夫。撃てる。倒せる)


 作業着ゾンビが二十メートルの距離まで近づく。ゾンビの顔がよりはっきり見えるようになる。丸顔で人のよさそうな顔をしていた。生前は優しい人だったのだろう。


 (迷うな! 冠木望。俺は生きる。生きるために戦う)


 望は大きく息を吸い込み、呼吸を止めた。意識を銃と作業着ゾンビに集中させる。ゾンビの頭、白い額、眉と眉の間の皺、ゆっくりと銃の狙いをつける。


 「撃つ」


 震える指で力づくに引き金を引く。白い閃光が銃口を照らし甲高い銃声がトンネル内に轟いた。発射の反動で銃口が上に跳ね上がり、弾丸はゾンビの頭上を飛んでいく。外れた弾丸はトンネルの天井に命中し小さな火花とコンクリート片を散らした。作業着ゾンビは変わらず歩き続け、銃声の残響だけがトンネル内に幾重にも反響した。


 「ううっ、耳元でシンバルを叩かれたみたい。銃ってこんなに大きな音がするんですね」


 隣で音葉が顔を歪めた。


 「ごめん、大丈夫?」

 「平気です。ゾンビから目を離さないでください。でも私もう少し離れます」


 音葉は次の射撃に備えて耳を抑えようとし両手がふさがっていることに気が付いた。仕方なく日本刀を地面に置き、望側の耳を塞ぐ。一方のゾンビは撃たれた事を認識もせず排水溝の中を歩き続けている。距離は十五メートル。


 「もう一度撃つよ」

 「わかりました。もしゾンビが刀の距離に来たら私が対処します。そうですね、五メートル、あの柱をゾンビが超えたら銃は下ろしてください」

 「わかった。そうなったら頼む」


 今度は倒すことよりも命中させることを優先し頭ではなく胴体に狙いを定める。射撃の反動で狙いが逸れないよう、しっかりと銃を両手で握った。


 「二発目、行くよ」


 引き金を引く。銃声が響き、ゾンビが後ろに倒れた。頭を排水溝の角にぶつけたらしく鈍い音がする。


 「当たったんですか?」

 「多分。でも頭に命中した手応えはなかった……やっぱりダメか」


 望が言い終わらない内に作業着ゾンビがむくりと起き上がる。倒れた際に怪我をしたらしく頭から白い物が滲み出ている。首元に真新しい傷が開いておりそこからも火山灰を水に溶かしたような液体が流れ出していた。弾丸はゾンビの頭部と胴体の中間に命中していた。


 「どうしますか? 私がやりますしょうか?」

 「もう一度だけやらせてくれないか。コツがわかってきた気がする」


 射撃の反動が抑えきれないのなら、跳ね上がりの分も計算して狙いをつければいい、そう考えた望は作業着ゾンビの首に狙いをつける。


 「三発目!」


 引き金を引いた瞬間、十メートルほどの距離まで迫っていた作業着ゾンビの顔面に小さな穴が開き、後頭部で何かがぱっと吹き飛んだ。ゾンビはぐらっと揺れ、そのまま前のめりに倒れる。その後頭部には大きな穴が空いており中から脳みその残骸や白い液体が覗いていた。


 「倒せたみたいですね。念の為、止めを刺します」


 日本刀を拾い上げた音葉が作業着ゾンビに近づき、穴の空いた頭部に刃を差し込んだ。ゾンビは反応を示さなかったが音葉は頭の中で刀を捻り確実な止めを刺した。それからジャンパーのポケットからキッチンペーパーを取り出し刀身に付着した汚れを拭き取り、別のキッチンペーパーを作業着ゾンビだった死体の後頭部にかける。

 望はまだ熱を持った拳銃を握ったまま、音葉の隣に立ち地面に横たわる死体に手を合わせた。相手はゾンビ化していたとはいえ、結果として人の身体を使って射撃の練習をしてしまったことに罪悪感を感じる。


 「この人、なんて名前だったのかな」

 「ゾンビに感傷は持たない方がいいですよ。ただの動く死体です。攻撃する時に手を緩めたら死ぬのはお兄さんです」

 「そうだよな。でもこの人や他のゾンビも人間だったってことは忘れたくないんだ」

 「気持ちはわかります。でもほとほどにしてくださいね」


 音葉は身を屈めると何か使える物がないか死体を調べ始めた。死体の着ている服は生前に出来た傷と血の跡で汚れていたがその背中に大きく書かれた文字があった。


 「東京都の職員みたいですね。背中には大きな文字で東京都って書かれています」

 「そうか、ここは都庁に近いもんな。噴火の対応をしていてゾンビになってしまったのか。でもどうして地下に?」

 「逃げてきたのか、あるいは地下鉄の復旧作業を確認していたのかもしれませんね……これは!?」


 死体のポケットを確認しようとした音葉が何かに気付き手を止めた。

 

「お兄さん、銃は何回撃ちましたか」


 急に緊張感を持った音葉の声に動揺しつつ望は手にした銃を見て残弾を確認する。銃に装填できるのは五発、残っているのは二発。


 「三回だよ。音葉ちゃんも横で見てただろ」

 「この人の背中を見てください。これも銃で撃たれた跡ですよね」


 作業着の死体の背中には複数の穴が開いておりその周囲は黒く染まっていた。


 「俺が当てたのは首の辺りと頭で、一発は外してる。背中には当ててない。でもこの人は背中からも撃たれたみたいだ。待てよ、傷口が黒いってことは血を流していたってことだよな?」

 「そうです。背中の傷は血が固まって黒くなっています。この人は人間だった時に撃たれたんです。ゾンビになる前に」

 「そんな! じゃあ人殺しがいるのか」


 望の前身から血の気が引いた。ゾンビは恐ろしいが銃を持った殺人鬼の存在はもっと恐ろしい。すぐ近くの闇に潜んでいるのではないか、望は咄嗟に、当ても無く銃をトンネルの暗闇に向けた。だが墨で塗りつぶしたような暗闇が広がっているだけで人の気配は無い。


 「落ち着いてください。この人が撃たれたのにはちゃんと理由があるのかもしれません」

 「そ、そうか。そうかもな。別に悪意を持った人がいるって決まったわけじゃないよな」

 「そうですね。でも、世界がこんな風になってしまったんです。人間が人間を襲うこともあります。ここから先、ゾンビ以外にも生きた人間にも気をつけないとですね……」


 その人が銃を持っていると思うと気が重いです、そう続け音葉はため息をついた。

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