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8月17日 地下鉄(6)

 自衛隊が救助活動を行なっているという千葉の館山を目指し、望と音葉は地下鉄を歩き続けた。

 途中の駅で見つけた地下鉄の路線図で、地下鉄のまま千葉まで行けるルートがいくつかあることがわかった。少なくとも人口密集地帯の都心を抜けるまでは地下の方が安全、そう音葉が判断し、二人は行ける所まで地下を歩く事にした。

 地下鉄のトンネル内にゾンビはいなかった。時々、物音に驚き武器を構えたことはあったが、ネズミや水の流れる音だった。一度、ある地下鉄駅を通り過ぎた時、ホームドアの向うに駅員らしい人影を見かけた。音葉が懐中電灯の明かりを当てたが動くことは無かったので立ったまま事切れたのか、あるいはゾンビ化したものが視覚や聴覚を失っていたのかもしれない。二人はその人影には構わず先に進んだ。


 歩き始めて一時間ほど、駅から百メートルほど離れた位置に地下鉄の車両が停車しているのを見つけた。


 「なんでこんな所で電車が止まっているんだ?」

 「噴火の翌日に緊急停止した地下鉄がブレーキのトラブルで動けなくなった、そんなニュースを見たことがあります。この車両が多分そうなんだと思います」

 「二日目はまだテレビもネットも通じてたもんな」

 「私は二日目の朝に電車を使いました。あの時はこんな事になるなんて考えもしなかったです。あそこに出入口があります。電車の中、誰もいないみたいですね」


 音葉は車両の運転席から降りていた脱出用の梯子に手をかけ、車内を懐中電灯で照らした。光が無人の車内を横切り、天井の吊革が整列した兵隊のような影を落とす。座席や網棚の上にも動く物は見当たらなかった。


 「今日はここで休みましょう」

 「ここで?」

 「この辺りはゾンビがいないですし、この梯子をしまって非常ドアを閉じれば電車の中は安全です。座席はクッションですから地面の上で寝るよりはゆっくり休めると思います」

 「まだ早くないか? 夕方前だし、移動もほとんどできていない」

 「無理はしたくないんです。お兄さんは外に出て一日目。西山さんの事もあります。今は気が張っているから動けますが、すぐに限界が来ると思います。動けなくなってから安全な場所を探すのは難しいです。それにこの先は色々な路線が合流するターミナル駅です。きっとゾンビもたくさんいます。今日はここで休んで明日に備えましょう」

 

 望は自分の身体を見下ろした。体力的にはまだ余裕があるように思えたし、精神的には西山の死でまいってはいたが、動いている間は考えずにすんでいたのでできればもう少し歩き続けたかった。たが腕時計を見ると時刻は午後三時を少し過ぎた頃。今から無理をして進むと夜に都心である山手線の内側に入ることになる。音葉の言う通り、ゾンビの数が増え危険も増すだろう。地上に出ても街灯無いので逃げるのもままならない。


 「わかった。音葉ちゃんの言う通りだと思う。今日はここで休もう」

 「まずは車内を確認します。ゾンビはいないようですが油断はしないでください」


 望は一度車両の周辺をヘッドライトで照らし、異常が無いことを確認してから音葉の後に続いて車内に入った。

 車両の中は空気が篭っているからかトンネルの中よりも暖かく少しかび臭かった。乗客は慌てて避難したらしく、本や雑誌、飲みかけのペットボトル、イヤホンなどが床に落ちている。音葉は落ちている物を一つずつ観察し使える物を探した。飲める水や未開封の食料はなかったが、誰かが忘れたらしいリュックサックが網棚の上にあった。女性物らしいクリーム色の鞄で中に法律関係の教科書やノートが入っていた。音葉は中身を捨てると、空っぽになったリュックを背中に背負った。

 小柄な音葉が小さなリュックを背負う姿はどこか小動物のようでかわいらしく、望はそんな音葉の様子を見て溜息をついた。もし富士山が噴火しなければ、もし西山が生きていれば、自分も恋人が新しいカバンを身につけるシーンを見ることができた、そう考えると生きている音葉がたまらなく羨ましく思えた。


 「いけないな。こんな後ろ向きじゃ西山に怒られる」

 「何か言いましたか?」

 「あ、うん。その鞄似合ってるよ」

 「…今はそういう事、関係ないと思います。でも、まあ、ありがとうございます」


 弱々しく褒め言葉を口にした望に音葉は微妙な表情で返した。六両編成の車両を全て確認した後、二人は運転席から出ていた梯子を中に入れ、非常用の出口を閉じた。


 「寝る場所は二両目にしましょう。一両目には罠を仕掛けます」


 運転席から出てきた音葉は車内で集めた雑誌からグラビアページなどの滑りの良さそうなページを破き床に撒いた。それからイヤホンを二つ結び、左右の座席の手すりの低い位置結びつける。


 「もしゾンビや人間が入ってきたら、床に散らばった紙で滑って、うまくいけばイヤホンで作った紐に引っかかって転ぶかもしれません」

 「ワイヤートラップか。よく思いつくな」

 「日本刀の持ち主だった人に教えてもらいました。空き缶があれば簡単な警報機がつくれるんですが」

 「空き缶は落ちてなかったな。その日本刀の人って?」

 「トイレは三両目でお願いします」


 望の質問に音葉が言葉を被せた。


 「えっと」

 「トイレです。大事ですよ」


 音葉は表情を変えず、望からは何も聞かれていなかったように三両目に移動する。望は違和感を感じたものの、特に指摘はせずその背中に着いていった。三両目に着くと音葉は微妙に中身の残っているペットボトルと車両の中で拾い集めた週刊漫画雑誌を入り口に置いた。


 「このペットボトルの中にして、終わったら蓋をしてください。大きい方は、三両目と四両目の連結部分でしましょう。紙はこの雑誌を使ってください」

 「電車の中でトイレなんだ」

 「車両の外に出るのは危険ですから」

 「あ、うん、そうだね……」

 「匂いに敏感なゾンビは見たことがありませんが、念のため車内でした方がいいと思います。排泄物の匂いを嗅ぎつけてゾンビがきたら大変ですか。……なんですか、その不思議そうな顔は」

 「いや、こんな状況でトイレの心配をするなんて思ってなかったから」

 「人間、生きていればお腹が空きます。食べる物を食べれば出る物もでます。それが生きるってことです」


 音葉の言葉遣いはいつもより少し荒っぽかった。彼女らしく無い口調に望が怪訝な顔をする。


 「今のも日本刀の持ち主だった人の言葉です。ごめんなさい。あの人の事を思い出すと少しイライラしてしまうんです」

 「その人はもう亡くなってる?」

 「はい。ゾンビに噛まれゾンビなりました」


 あの日、音葉を助けた男は乱暴で自分勝手な人物だった。ゾンビとの戦いには長けていたが、人間としては問題が多かった。命を救ってもらったが、それ以上に不快な男だった。そんな彼も既にこの世にはいない。死んでせいせいすらしたのに、時々教えられた行動や言葉が自然と思い出され、その度に音葉の心をかき乱した。

 音葉はふうっと深いため息をつくと首を左右に振り、余計な思い出を振り払った。苛ついたところでいいことなど一つもない。


 「二両目に戻りましょう」


 望はこくこくと頷いって黙って後ろに着いてきた。彼は音葉と日本刀の持ち主に何があったのが詮索しようとはしない。あの男に比べると望は年上なのに頼りない男子だ。散々足を引っ張られ、下手をすれば音葉自身も危険に晒されるところだった。だが不思議と不快感はなかった。

 二両目に戻ると音葉は寝床を探し車両のクッションに視線を向けた。座席は平らではなく座りやすいように凹凸がついていたがそれでもスプリング付きのクッションには違いない。音葉はこのまま倒れこみたい衝動を我慢しながら隣で子犬のように指示を待つ望を見て、久しぶりに年相応の笑顔を見せた。


 「音葉ちゃん、どうかした?」

 「いえ。世の中には色々な人がいるんだなって、改めて思ったんです。一緒にいる人がお兄さんでよかったです」

 「そ、そうか? ならよかったけど……」

 「そうなんですよ。それよりお兄さん、食事にしませんか? 安全は確保できましたし、私、もうお腹ペコペコなんです」

 「いいね! 食べるもなら持ってる」


 望は初めて音葉の役に立てる機会を見つけ、嬉しそうにカバンを叩いた。

 それから、二人は向かいあう形で左右の座席に座った。電池を節約するために望のヘッドライトを消し、音葉の懐中電灯の光量を最低に落とすと周囲は薄暗くなり、暗闇でたき火を囲んでいるような雰囲気になる。


 「お兄さんの鞄にはどんな食料があるんですか?」

 「保存食とビタミン塩飴。音葉ちゃんはチョコ味とチーズ味ならどっちがいい?」

 「ではチョコレートでお願いします」


 望はカバンを開き、銀色の個包装に入った保存食を音葉に渡した。


 「ありがとうございます。変わったデザインですね」

 「父親の会社のサンプルなんだ。味はイマイチだけど栄養はばっちりらしい。夏バテや夏風邪にも効くとか。あとこれが水のペットボトル」

 「頂きます。そういえば希美も同じような事を言っていました。お小遣いを人質に取られて毎日まずい健康食品を食べさせられていたって」

 「慣れれば食べれない事はないよ」


 音葉は望から受け取ったチョコレート色のブロック状の保存食を口にした。市販のものに比べると味も食感も数段階落ちる上、薬の様な味もする。はっきり言って美味しくない。あまりの不味さに音葉は思わずペットボトルの水で喉の奥に流し込んでしまった。


 「かなりパサパサしますね。チョコレート味は薄いですし漢方薬みたいな変な匂いもします。これは、不味いですね……」

 「ジャムとか本物のチョコと一緒に食べれば少しはマシな味になると思うんだけど」

 「私が地上に置いてきたリュックサックには缶詰が入っていました。乾パンをツナ缶のスープに浸すと結構美味しくなります。多分、この保存食もそうやって食べれば美味しくなると思います」

 「そうなんだ。今度試してみたいな」

 「食料を探す時にオイル入りのツナ缶を意識してみてください。でも自衛隊と合流すれば暖かい食事がとれると思います」

 「それはいいな。ラーメンとかカレーが食べたい」

 「私はパスタが食べたいです。カルボラーナとか。でも、自衛隊じゃ豚汁とか白いご飯なんでしょうね」

 「確かに、カルボナーラはないかもな」


 たわいの無い会話を続けながら望はこの二週間繰り返してきたように、保存食を口にした。毎日食べて不味さには慣れたものの飽き飽きしていた味だったが目の前に音葉がいるだけで不思議と美味しく感じられた。

 食事は五分も経たずに終わり、望は食事のデザートがわりにビタミン塩飴を食べた。音葉に勧めると、「体にいいなら」としぶしぶ口にしたが、終始顔をしかめていたので好みの味ではなかったようだ。


 短い食事が終わると二人は無言になった。音葉は日本刀の手入れをした後、ブーツを脱ぎ足をマッサージしはじめた。手持ち無沙汰の望も音葉を真似て靴を脱ぎ、座席に横になる。地下鉄車両のシートは望が仰向けに寝るにはやや小さかったが、弾力のある座席は心地よかった。横になった瞬間、緊張の糸がきれたのか今までの疲れがどっと望に押し寄せてきた。二週間ぶりに部屋の外に出て、母親の死、ゾンビとの遭遇、車の運転と人を轢いたこと、ゾンビの群れ、爆発、そして西山の死。わずか数時間の内に望の人生観を変えてしまうほど目まぐるしい出来事が起こった。思い出すと悲しみや恐怖、後悔、怒り、色々な感情が巻き起こり心の中がぐちゃぐちゃになる。だが言葉にならないその感情も朝の通勤ラッシュのように押し寄せる疲れの前に掠れていく。せめて音葉に一言いってから眠らないと、そう思ったが果たすことはできず、望は深い眠りに落ちた。


 気がつくと周囲は真っ暗闇だった。一瞬、一人取り残されたと思ったが、すぐに向かいの座席に音葉の気配を感じて安心する。音葉はまだ眠っていないらしく何か作業をしている。ビニール袋のようなものがガサガサと鳴り、布と布が擦れる音がする。時々、音葉の小さく湿り気のある声で「きゅう」と呟いていた。


 「音葉ちゃん何かしているのか」

 「お兄さん!? 起きていたんですか」

 

 音葉の声には少しだけ焦りがあった。何事かと望が体を起こし、枕元に置いていたヘッドライトに手を伸ばす。


 「明かりをつけようとしているなら待ってください」


 音葉が鋭い声に望は手を止める。


 「どうしたんだ?」

 「今身体を拭いているところです。服を着ていなので明かりはつけないでください」

 「あ、ええと、ごめん」


 慌てて寝返りを打って音葉に背中を向ける。暗闇なので意味は無いのだがそうした方がいいと思った。音葉がいる辺りから制汗剤のような清涼剤のにおいが香ってきた。ウェットティッシュか何かで体を拭いているらしい。


 「変な話です」


 音葉が身体を拭きながら呟いた。


 「昨日まで、ゾンビの視線以外に気にしたことがありませんでした。生きるか死ぬのかの状況でゾンビではなく人間の視線を気にするなんて変な感じです」

 「そんなものなのかな」

 「そうですよ。だから私はお兄さんに感謝してるんです」

 「感謝? 俺は音葉ちゃんの足を引っ張ってばかりで何の役にも立っていない」

 「それはその通りですね」


 きっぱりと言い切った後、音葉は柔らかな口調で続けた。


 「私は独りになってからお兄さんと会うまで毎日ゾンビと戦っていました。誰とも話さず、考えることは怪物の頭をどうやって壊すかだけでした。お兄さんと会うまで、私は自分が人間だってことも忘れかけていました。だから感謝はしているんです。でも明日はもう少し役に立ってくれると助かります。一応、年上なんですから」

 「……がんばるよ」

 「焦らないでください。三日くらいかけてゆっくり戦えるようになればいいんです」


 ゾンビ、たとえそれが人とは別の存在だとしても人間の姿をしていることはかわりない。それと戦えるようになるまでの時間に三日が長いのか短いのか望には今一つ判断ができなかった。


 「お兄さんも身体を拭きますか?」

 「あ、うん。もし余っているのなら」

 「投げますから受け取ってください」


 ぱさっと何かが望の体に当たった。手探りで見つけるとウェットティッシュの入った袋のようだった。


 「私は寝ますから、明日返してください」

 「わかった。ありがとう」

 「それでは、おやすみなさい」

 「おやすみ」

 

 その時だけ音葉の声は年相応の中学生の少女のもので望はほっとした。しばらくすると、向かいの座席から音葉の小さな寝息が聞こえてきた。望は音葉を起こさないよう静かに体を拭き、再び横になった。意識はすぐに遠くなり、いつしか眠ってしまっていた。

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