8月17日 地下鉄(5)
2023年2月21日:全面改定
ようやく涙が収まり顔を上げると、目の前に少しだけ柔らかな表情をした音葉がいた。膝を着き、望が倒れないように抱きかかえてくれていた音葉を見て、年下の少女の胸に顔を埋め泣いていた事に気付き慌てて身体を離す。
「落ち着きましたか?」
「あ、うん。ごめん。本当に、何から何まで」
「大切な人を失ってショックを受けるのは当たり前です。でもここは安全な場所とは言えません。動けるようになったのなら使える物を回収して移動しましょう」
回収という単語に望が首を傾げていると音葉が立ち上がり隣に横たわったままの西山の死体に視線を向けた。
「お兄さん、遺体から使える物をもらいたいのですけれど許してもらえますか。西山さんは少し前まで生きていました。おそらくバッグの中には食料や薬が入っていると思います。もしかしたら他の生存者に関する情報も」
望はキッチンペーパーに覆われた西山の顔を見た。生きていたら何と言うのだろうか。彼女は困っている人がいれば進んで手を差し伸べるタイプだった。内申点や人気取りなど打算的な一面も確かにあったが、優しくて責任感のある少女だった。
「西山なら好きなだけ持っていきなさい、って言うと思うよ」
「……いい人、だったんですね」
「そりゃあ、俺の恋人だもん」
自分で言って望はまた目頭の奥が熱くなる。望が泣くまいと鼻をすすっているとなぜか少し寂しそうな顔をした音葉が手に持っていた懐中電灯を差し出した。
「私が調べます。兄さんはこのライトを持って西山さんと私を照らしてください。それでは西山さん、失礼します」
音葉は死体の横に屈みこみ、まず西山のワイドパンツのポケットに手を入れた。中から出てきたのは飴の銀色の包装。食べて後、道端に捨てずに持ち運んでいたようだ。次にショルダーバッグを開くと中にいくつかの物が入っていた。音葉は中身を地下鉄のコンクリートに一つ一つ並べていった。手帳、ボールペン、輪ゴム、空っぽの消毒液、最後に黒い金属の製品と真鍮色の小さな筒がいくつか出てくる。拳くらいの大きさの黒い金属製品を音葉は慎重に持ち上げ、地面に寝かせる。
「ピストルですね。弾丸もありました」
弾丸は十発。音葉は転がらないように地面に置いた。ライトの光を反射して金色に輝く弾丸に望は思わず息を飲んだ。拳銃は日本の警察が使用している回転式のもののようで弾倉には五発の弾が装填されたままになっている。
「本物みたいですね」
「あいつ、銃でゾンビと戦っていたんだな……」
「そうみたいです。使った跡があります」
拳銃の握りの部分に西山の物らしい血が付着していた。音葉はウェットティッシュを一枚取ると拳銃の汚れを拭う。銃の下部に金属の輪が付いておりそこに千切れた紐がぶら下がりゆらゆらと揺れる。西山は警官の死体から紛失防止用の紐を切って銃を手に入れたのかもしれない。
銃を地面に戻すと次に音葉は汚れた手帳を手に取った。血の跡で黒ずんだ水色の表紙を開き最初のページを確認する。
「……これは日記ですね。見てもいいと思いますか?」
「あいつなら、どうしようっ、人様に見せる字で書いてないよーて言いながら許してくれると思うよ」
「では読ませてもらいます。最近の出来事が書かれていますね」
音葉はそのままページをめくり続けた。
「西山さんは家の近くにあった避難所にいたみたいです。避難していた人が次々とゾンビなって、生き残った人たちと一緒に近くの教会に逃げ込んだ。その時は西山さんの妹さんを含めて二十名以上が生きていて、警官も何人かいたそうです。籾山さんという警官から銃の使い方を教わったと書かれています」
西山が銃を持って戦う姿を、望は簡単に想像できた。きっと自分から進んでゾンビと戦うと言い出したのだろう。音葉の後ろで怯えているだけの自分とは大違いだ。
「今から二日前、何か希望を見つけたようです。それから教会を車で脱出しようとして事故にあって、ゾンビの群れに囲まれた」
音葉は日記の内容をかいつまんで望に説明した。
「西山さんは足を挫いた妹さんや戦えない人達のために囮になったそうです。ゾンビの群れからは逃げ切ったものの仲間とはぐれ、徒歩で目的地に向かう事にしたと。でも逃げている途中、ゾンビに足を噛まれて、慌てて地下鉄に隠れたそうです」
「音葉ちゃん、西山はいつ地下鉄に下りたんだ」
音葉は日付を読み上げようとして一瞬躊躇した。だが、隠しても仕方がないとありのままの事実を告げた。
「……今朝です。最後のメモは今日の午前十一時、いまから二時間ほど前です」
「二時間? たった、二時間前まで西山は生きていたのか。こんなに近くにいたのに。俺は、何も……」
「自分を責めないでください。お兄さんはできる事を精一杯やったんです」
もし音葉が家を訪れた時に一緒に外に出ていれば、あるいは住宅街で死体に躊躇せず前に進んでいれば、望は生きている西山に会えたかもしれない。その事実は望には耐え難いものだった。胸が張り裂けそうで、息が詰まる。
望の背中に音葉の小さな手が添えられた。
「過去は変えられません。あるのは未来だけです。これを見てください。西山さんはお兄さんに希望を残していきました」
そう言って音葉は手帳を裏返して望に見せた。そこには今日の日付と、震えた字で書かれた西山の字があった。ページの所々には血の跡がある。ゾンビに襲われた傷を止血した手で書いたようだ。
「これは……」
そこには望が家を出た時に求めていた情報、生存者についてメモがあった。
「千葉県の館山で自衛隊が救助を行っている……護衛艦の「いずも」が生存者を保護、生存者は二百名以上、医者や食料も十分……自衛隊がラジオで呼びかけている。生存者は千葉の館山を目指せ……ここに書かれていることが本当なら……」
「西山さんと一緒にいた生き残りはこの放送を信じて館山に向かったみたいです。次のページには妹の千尋さんという方へのメッセージと冠木望……これはお兄さん宛てです」
音葉は手帳を開いたまま望に手渡した。
そこには西山から望へのメッセージが書かれていた。死の直前に書いたのか字に力は無かったが間違いなく望の知っている西山の字だ。見開きのページの左側には西山千明の妹へのメッセージ、そして右側には望へのメッセージが書かれたいた。望はライトの明かりを頼りに西山の遺書を読んだ。そこには望への感謝と最後にもう一度望に会いたかったことなどが震える字で書かれていた。
「ごめん、西山。こんなに思ってくれていたのに。俺は、俺にもっと勇気があればっ」
望はあふれ出しそうになる感情を必死に抑え、西山の手帳を閉じた。音葉が少し心配そうに望を見た。また泣き崩れるのかと支える準備をしたが、望がしっかりと立ったままなので安心する。
「これからどうしますか?」
「これから?」
「私は長野に行こうと思っていました。希美がいるはずですし、東京を離れればゾンビも少なくなるはずです。畑があれば自給自足で生きていけると思うんです。でも、もし西山さんの情報が正しいのなら私たちは千葉の館山というところに向かった方がいいかもしれません」
「館山、聞いた事はあるけど場所が分からない。千葉も広いから」
「西山さんの手帳には南って書いてありました。房総半島の先っぽだと思います」
「なら車がいるな。歩いてはとても無理だ」
望はもう一度西山の手帳を開き、自衛隊についての情報が書かれているページを確認した。そこには三つのメッセージが書かれていた。一つ目は手帳を見つけた人へのメッセージ。ゾンビ化した自分を殺したことへの感謝が書かれている。二つ目は館山に行けば希望があること。自衛隊の放送で聞いた内容のメモが書かれている。そして最後に、もし館山で妹の西山千尋か恋人の冠木望のどちらかに会ったらこの手帳を渡してほしいと書かれていた。
「それでどうしますか?」
音葉がまっすぐな眼差しを望に向ける。望は横たわる西山の遺体と手に持った彼女の手帳、そして最後に音葉を見た。自分が死んだ西山にできる事、生きている音葉にできる事、望は死んだ恋人も聞かせるように自分の考えを口にした。
「西山の妹さんが館山に向かっている。なら、俺は館山に行きたい。妹さんに会って、お姉さんの最後を伝えてこの手帳を渡したい」
「そうですか。でも、長野には希美がいますよ?」
音葉に出された妹の名前に、望は胸にもう一本のナイフが刺さったような痛みを感じた。噴火の日以来連絡の取れていない妹、同じく消息不明の父親。きっともう生きてはいないだろうと思っていた。だがこうして西山は直前まで生きていた。もしかしたら妹も無事かもしれない。長野に行く理由は間違いなくある。だが長野は遠い。無事にたどり着ける保証はないし、希美が生きているかもわからない。一方で、少なくとも館山には生存者がいる。西山の妹も向かっている。そして今、望は独りでは無い。目の前にいる少女はどこに行くか望の意思を尊重しようとしてくれている。なら館山に向かう理由は二つになる。
「今は確実に俺たちが生き延びる事を優先するべきだと思う。長野に行くとしても、安全を確保してからがいい。その、音葉ちゃんが反対じゃなければだけど。つまり、館山に行きたい」
「わかりました。私も賛成です」
意外にも音葉は何の反対もせずに望の案を肯定した。
「えっと、いいのか? 千葉に行くってことは人の多い都心を通るってことで危険も多いし、長野には希美も……」
「長野が安全とは限りません。それに、私とお兄さんが会えたのも、私たちと西山さんが会えたのも奇跡みたいなものです。私独りで地下鉄に入っていたら、きっと西山さんの事は素通りしていました。だから、私たちが自衛隊の情報を知れたのは奇跡なんです。この奇跡にはきっと意味があって、次の奇跡に繋がっていると思います。……少し楽観的過ぎますか?」
「音葉ちゃんはもっとリアリストだと思ってた」
「基本的にそうです。でも世界がこんな風になった今こそ神様とか奇跡を信じたくなります」
「……そうだな」
こうして西山と再会できたことが奇跡なら、きっと館山に行くべきなのだろう。それが恋人が最後に託してくれた希望だ。
「行こう。館山へ」
「はい」
望の言葉に音葉が頷いた。
決意した二人は地下鉄を反対方向に進むことにした。西山の形見にはショルダーバッグもあったが、損傷が激しく肩掛けストラップも千切れかけていたので諦めた。拳銃と弾丸は望がもらうことに、鞄に入れた。
西山のポケットに入っていた飴の包装には見覚えがあった。望が噴火の日に西山に渡したビタミン塩飴の物だ。この味が好きと西山は言っていたが、最後まで持ち歩くほど気に入っていたらしい。望は鞄に入っている飴をいくつか取り出し、西山の遺体の上に供えた。
最後に手を合わせ、立ち上がろうとしてふと、西山が身につけている水色のGショックに気がつく。
「時計をもらおう。妹さんと会った時、西山の形見として渡せる」
望は西山の腕に触れ腕時計を外した。ゾンビだった頃のわずかな体温は完全に無くなり、命の温かみは一切感じられなかった。それでも、望は西山の肌に触れた事を愛おしく思えた。自分の命を分けられないか、そんな思いで冷たい手を握ったがただ体温を奪われるだけでだった。
望が外した時計を自分の左腕につけると、すでに音葉は日本刀を持って移動の準備を終えていた。
「行けますか」
「ああ」
望は力強く頷き、膝を伸ばして立ち上がった。歩き出した音葉に続こうとして、最後にもう一度だけ西山の方を振り返る。
「西山の手帳と時計、必ず妹さんに渡すよ。だから……だから、」
望は別れを告げようとしだが、言葉に詰まった。百でも千でも言葉をかけたかった。間に合わなかった事を謝りたかった。どれほど自分が西山を好きだったか、告白したかった。その存在にどれだけ救われたか。感謝をしたかった。でも今はもうどんな言葉も届かない。万の言葉も死者を蘇らせはしない。西山千明は死んだ。だが望が生き続ければ彼女の物語は終わらない。西山が繋いでくれた希望で生き残る。それが望が新たに得た目標だった。
「さよなら」
望はたくさんの言葉を飲み込むと、一言だけ別れを告げて踵を返し歩き出した。先に歩き出していた音葉は何も言わず、ちらりとだけ振り返り望が付いてきていることを確認するとすぐに前を向いた。