8月17日 地下鉄(4)
2023年2月21日:全面改定
ゾンビの顔を見た音葉は、それが望の持っていた写真に写っていた女性だと理解した。音葉は望の手を払いのけると数歩後ろに下がり、仰向けに転がったゾンビから距離を取った後に日本刀の構えを解いた。
「この人が西山さんですか?」
「そうだ。だから殺さないでくれ」
「殺さないでくれ、ですか。気持ちはわかります。でもここにいるのは西山さんの姿をした怪物です。お兄さんの知っている人ではありません」
「それは……そうかもしれない。いや、でも、こいつは西山だ」
「外見だけです。しっかりと見てください。そのゾンビは本当にお兄さんの彼女だった人ですか」
ライトに照らされるゾンビの顔は間違いなく西山千明だった。大きな目やすっきりとした鼻筋、ほくろの位置まで望の知っている通りだった。だが、その内面は違う。だらしなく開いた口、垂れ流しの涎、焦点の合っていない目、でたらめに振り続ける腕、意味のないうめき声、そこに望が憧れた少女の面影は無い。
「どんなに親しい人でもゾンビになったら別人、いえ別物なんです。私は親だったゾンビが自分の子供を食い殺した場面を見ています。子供がどんなに泣き叫んでもそのゾンビは止まりませんでした。おばさんだってそうでしたよね。お兄さんのお母さんはゾンビになった後、お兄さんの声に耳を傾けてくれましたか」
「それは、そうだけど」
「辛いのはわかります。でも現実を受け入れてください。そうしなければ、次に死ぬのはお兄さんです」
音葉の言葉は正しい、それは望にもわかっていた。だが生きる目的だった西山がゾンビになっていたという事実は簡単に受け入れられるものではない。未だに動き続ける西山の姿に望は僅かでも希望を探さずにはいられなかった。
「もしかしたら治療方法があるかもしれない。音葉ちゃん、何か知らないか。ゾンビを、人間に戻す方法を」
「そんな物が無いから世界がこうなっているんです」
「でも、それでも何か助ける方法が……」
「ありません。現実を見てください」
ぴしゃりと音葉は言い放つと刀を手に西山ゾンビの横に立った。「ごめんなさい」そう呟くと音葉が最小限の動作で日本刀を西山ゾンビに突き刺さす。
「何を……やめろ!」
望はとっさに手を伸ばしたが間に合わず、音葉の日本刀が西山ゾンビの左胸に突き刺さった。刃先が十センチほど胸に刺さり、刀を抜くと赤と白が混じった血液が吹き出し西山ゾンビの白い服を染めていった。だが西山ゾンビは胸の傷など存在しないかの様に相変わらず呻きながら手をバタバタさせている。動きが止まることも、流れる血を止めることもしない。
「心臓を刺しました。普通の人ならショックで死にます。これを見てもまだこれが西山さんだと思いますか」
望は半ば放心しながら仰向けのまま手だけを動かし続ける西山ゾンビを見ていた。匍匐前進するために寝返りをうつ知性も残っていない。音葉の言う通りそこにいるのは西山の姿をした別の存在だ。
「わかってる。わかってるけど、やっぱり俺には西山を殺すなんてできない」
「お兄さんがする必要はありません。私がやりますから」
そう言うと音葉は日本刀を逆手に持ち直した。その視線の先には西山ゾンビの目がある。音葉の言う通りなら眼球の後ろは頭蓋骨に守られていない脳がある。脳を破壊すればゾンビは動きを止める。
「だめだ。やめてくれ! 頼むから」
望は大声で叫んだ。自分が何をすればいいのかわからない。音葉は正しい。だが心が追い付かない。音葉はため息をつくと望に構わず西山ゾンビに止めを差そうとした。恋人の姿をした何か殺される、目前に迫ったその事実が混乱する望の身体を動かした。
「だめだ!」
望は日本刀を奪うため音葉に掴みかかった。音葉がとっさに避けたので攻撃は空振りしたが、勢いのついた望の体が音葉にぶつかり、華奢な少女の体ごと地面に倒れる。日本刀が音葉の手から離れ、レールにぶつかり甲高い音を立てた。音葉は直ぐに刀に手を伸ばしたが、馬乗りになった望は必死にその手を押さえつける。その背後で獲物が近くに来た事を察知した西山ゾンビが望の背中に手を伸そうとしていた。
「バカなんですか? そこにゾンビがいるんですよっ!!」
「あれは西山なんだ。あいつを殺させはしない」
「分からず屋! もう死んでるんです。ゾンビなんです!」
「でも、うがっ」
望の目の前が一瞬真っ黒になり、鼻に激痛が走る。下敷きになっていた音葉が望の鼻を目掛けて頭突きをしたのだ。望が怯んだ隙に、音葉は望を左側に突き飛ばし、素早く身体を起こすと日本刀を拾い上げ今度は望に切っ先を向けた。望は尻餅をついたまま怒りに震える刀を見上げる。
「手間ばかり取らせないでください。そんなことではこの先生きていけませんよ」
「でも、俺は西山を……」
二人が対峙している間に、獲物を捕まえようとする西山ゾンビの腕が望の身体に届いた。望は急に弱々しい力で上着の裾を掴まれ、はっと後ろを振り向く。そこには仰向けのまま頭を望に向けた西山ゾンビがいた。その目は腐った牛乳の様に濁ったままだ。
「西山……俺は」
「言ってるそばから!」
音葉は駆け出すと望の横を通り抜け、望を掴んだ西山ゾンビの剥き出しの右腕を踏みつけた。手はあっさりと望から離れ、音葉はすかさず日本刀でその腕を薙いだ。切断までは至らなかったが筋肉や筋が切れたのか、ゾンビの右腕がだらんと落ちる。
「西山っ!」
望はゾンビと成り果てた恋人の名前を呼んだ。しかし、「それ」は望の呼びかけに答える事も腕の痛みを訴えることもしなかった。音葉はそんな望を見て、わざと西山ゾンビの視界に入り注意を引きつけてから一歩後ろに下がる。
「お兄さん、もう一度だけ言います。西山さんはもう死んでいるんです。よく見てください。お兄さんの顔にも声にも反応しない。腕を切られても悲鳴も上げません」
「でも、」
「辛いですけど私たちにできる最後のことは止めをさしてあげることだけです。恋人さんの体を解放してあげてください」
音葉はさらにもう一歩下がり距離をとる。つられた西山ゾンビが音葉を追いかけようと体を動かし、望が視界から外れた。
「せめてこのままにしちゃだめか。動けないんだから止めまで刺さなくてもいいだろ」
望は声を絞り出す様に言ったが音葉は即答で首を横に振った。
「できるだけ避けるべきです。ゾンビは他のゾンビを呼ぶ習性があります。西山さんのゾンビが地下鉄にいる他のゾンビを呼ぶかもしれません。いつか他の生存者が襲われるかもしれません。それともお兄さんは西山さんのゾンビが他の誰かを殺すのを見過ごすんですか?」
音葉の問いに、望は何も答えられず俯いた。少し離れた位置で西山ゾンビが獲物を求めて手を空中でばたつかせている。腕の動きでわずかに胴体が動いているが、移動とは言えない。肌は先ほどよりもさらに血の気が失われ完全に白くなりつつある。傷口から溢れる液体もほとんどが火山灰のように白い灰色をしており、赤い血はわずかだった。時折口から漏れる音は単に空気がのどを通過する際に声帯をふるわせているだけで意思を感じない。
「今なら私達の手で眠らせてあげられます。もう一度聞きます。お兄さんはどうしたいんですか?」
「……わからない」
「それでいいんですか?」
「わからないんだ。そんなこと、俺にわかるわけないだろ! 君には他人かもしれないけど、俺にとっては大切な人なんだ。それを殺せるわけないだろ? それくらいわかってくれよ!」
ついに望は音葉に怒鳴ってしまった。怒りと非難の混じった叫びが地下鉄のトンネルに響き渡り、何度も残響する。それが消えると音葉は深くため息をついた。
「そうですか。なら好きにしてください」
音葉は、数歩後ろに下がり望と西山ゾンビから距離を取った。
「その人が西山さんだと思うならそれでいいです。でも、私はもうお兄さんと一緒にはいられません。お兄さんは自分の信じた事をしてください。私は生きる為に出来る事をします」
「……」
音葉はその場を立ち去ろうとして一度足を止めた。
「お兄さん、最後に聞きます。希美のことはいいんですか?」
「……どうせもう死んでるよ。西山も、希美も、母さんも、みんな。もう誰も生きていない」
「私はそうは思いません。希望はまだあるかもしれないじゃないですか」
だが望は何も答えなかった。頭の中は西山の事で一杯で、それ以外を考える余裕はどこにもなかった。
「……わかりました。私は行きますね。もし、希美に会えたら、お兄さんは恋人と一緒に亡くなったって伝えます。それでは。短い間ですがありがとうございました」
それだけいうと、音葉は地面に置きっぱなしだった懐中電灯を拾い望達に背中を向け地下鉄の先に歩いて行った。
音葉の足音がどんどん遠くなる。それと呼応するように望のライトの光量が落ちていった。望と西山ゾンビの周りを照らしていた明かりがどんどん小さくなる。音葉が地下鉄のカーブの向こうに消えると同時にライトも消えた。望はポケットから音葉にもらった小さなLEDライトを出し、点灯させる。西山ゾンビは仰向けのまま、まだ動く左手を伸ばし何かを掴もうとしていた。足や腕に受けたダメージが大きいのかうつ伏せに戻れないらしい。行動は赤ん坊のようだったが、その本質は永遠に飢えと渇きに苦しむ餓鬼のようだった。
「西山、俺だよ。冠木望だ」
諦めきれず望は地面のゾンビに声をかけた。しかし反応はない。
西山ゾンビの左手が、レールにぶつかった。ゾンビはようやく獲物にありつく答えを見つけたようで、頭を巡らせレールに視線を向けるともう一度左手をレールに伸ばし、がっしりと掴むとそこを支点に身体をレールに引き寄せ、それからレールの凹凸を利用してうつ伏せの姿勢になった。再び匍匐前進ができるようになった西山ゾンビが望の姿を捉え、口の端を釣り上げた。
「西山……俺の声に応えてくれたのか?」
一瞬、西山ゾンビの目に意思のようなものを感じ、望は奇跡を期待した。西山ゾンビが左腕を使って地面を這う。速度はさっきよりもぐっと遅く、二十秒かけて数センチ動く程度だったが、望が動かないので距離は確実に縮まっていく。その動きが、望には西山が望の所に来たがっているように見えた。
「会いたかった。俺はずっと君に会いたかった」
ふと西山ゾンビが左腕に身に着けている水色の時計が目に入った。
「いつものGショック?」
西山千明は空の色が好きな少女だった。高校に進学し初めて西山と廊下ですれ違った時、彼女の腕に見慣れない大きな時計があった。思わず足を止めてしまった望に、西山は「お父さんが入学祝いにくれたの。女子高生へのプレゼントなのににねー」と少し照れながら言った。その会話と状況は良く覚えている。望が高校生になった西山千明と初めて交わした言葉だったから。
「水色、好きだったもんな」
望は改めてゾンビになった西山を見た。ブラウスこそ白だったが、ワイドパンツやスニーカーは水色で、肩にかかったショルーダバッグも白をベースに水色のアクセントが入っていた。しかし、夏らしく爽やかな色合いだっただろう服や鞄は今や血と泥と灰で汚れていた。ブラウスの右袖は無く、ワイドパンツの右足の裾が破れており、むき出しの脚にはブラウスの一部らしい布が乱暴に巻き付けられていた。白かったブラウスは血で真っ黒に染まっている。
「足をゾンビに齧られたのか」
西山ゾンビの口があと少しで望の脚に届く。その唇に血の気は無く、灰色の混ざった紫色をしていたが、望は噴火の日の生徒会室を思い出していた。あの時の記憶、頬を赤く染めた西山の顔、夏の陽気にも負けない熱い吐息、キラキラと光る瞳、何もかもが懐かしい。
「西山に噛まれれば、俺も同じになれるのかな……」
西山ゾンビの手が望の右脚を掴み、それを支点にゾンビがぐっと頭を寄せてきた。まるで望の脚に口づけをするような動きだ。西山と同じ右脚を噛まれ、同じゾンビになる、そこに運命じみたものを感じ望は生きることを諦めてもいいと思った。
西山ゾンビが弱々しい動作で頭を寄せ、口開くと望の右脚を噛んだ。ゾンビになり立てのためか、それとも別の原因か、顎の力は弱く歯は制服のスラックスに阻まれ肌に届かない。ゾンビは服をかみ切ろうとするが制服の分厚い生地を破ることはできなかった。ゾンビの口から垂れた冷たい涎が望の服に染み込む。その冷たさが望を正気に戻した。
「違う。こんなんじゃない」
望は脚を払い西山ゾンビの手と頭を遠ざける。望が感じたかったのは、あの日生徒会室でわずかに触れ合った西山の温かく柔らかい唇の感触だった。だが西山ゾンビから感じたものは冷たく、堅く、暗い。死者の口付けだった。望の目を覆っていた壁がハンマーで砕かれたガラスの様に粉々に崩れ落ちる。ようやく現実を直視した望は目の前にいるゾンビを見た。そこにいるのはただのゾンビだ。
「もう、何もかも手遅れなんだな」
望が後ろに下がると西山ゾンビは必死に腕を動かし近づこうとする。奇跡は起きなかった。そこにいるのはただ食欲だけに突き動かされた魂の抜けた動く死体だ。
「俺が君にしてあげられる最後のこと……」
望は自分の鞄からハサミを取り出すと、音葉がしたように大きく迂回し西山ゾンビの側面に回り込んだ。長い髪の隙間から見える首筋やブラウスから覗く左腕は火山灰の様に真っ白だ。それでも綺麗だと思ってしまうのは怪物が恋い焦がれた女性の見た目をしているからだろうか。望はレールの上で斜めになっている西山ゾンビの右側を蹴った。ゾンビは仰向けになり、何か欲しそうに濁った目でを向けてくる。望はゾンビを跨ぐと両手で握りしめた大きくハサミを振りかぶった。
「……千明、ごめんな」
最後に恋人の名前を呼び、望は西山ゾンビの眼球めがけて思いっきりハサミを振り下ろした。先端が固いグミのような物を突き破り、刃が固い頭蓋骨に弾かれる。望は何度も、何度も、無言の叫びを上げながらハサミを突き刺し、叩きつけ続けた。目が砕け、頭蓋骨を砕き脳を貫く。刃先が曲がり、それが返しになり、スコップの様に脳をえぐった。西山ゾンビの両腕と両足がびくっと痙攣し、陸に打ち上げられた魚のように手をばたつかせやがて完全に動きを止めた。西山の頭部や口から白い液体が溢れ出し、地下鉄のコンクリートに広がっていく。
「ごめん」
望はハサミから手を離すと、倒れる様に西山ゾンビの横に座り込んだ。うつ伏せのままピクリともしない西山を正視できず、望は膝を抱えてうずくまり顔を腕に押し付けた。
「……許してくれ。間に合わなくて、助けられなくて、俺はお前の彼氏だったのに」
誰もいない地下鉄で、望は声を押し殺して泣いた。
始めて西山千明に出会ったのは中学一年の時。隣のクラスにやけに賑やかな女子がいると話題になり友達と見に行き一目惚れをした。中学の三年間で同じクラスになることはなく、部活も違ったので話す機会はほとんどなかった。だが何とか同じ高校に進学し、時計を切っ掛けに話すようになって、がんばって同じ生徒会役員になった。そして夜中に通話したり、生徒会の用事で二人きりで出かけるようになり、ついに告白し恋人同士になれた。出会ってから、今日まで、望の人生の中心は間違いなく西山千明だった。彼女は太陽で、希望だった。だがその夢のような日々は最悪の形で終わってしまった。望は恋人を手に掛けたのだ。
西山の死、自分のふがいなさ、絶望、色々な感情が交ざった涙がただただ望の目から流れ続けた。
どれくらい泣いていたのか。気がつくと、白い明かりが辺りを照らしていた。望のライトではない。別の明りだ。顔を上げると、そこに音葉が立っていた。
「なんだ、先に行ったんじゃなかったのかよ」
「食料をもらいにきました。お兄さんの死体から鞄ごともらうつもりで。でも、その必要は無いみたいですね」
音葉は西山の死体をライトで照らし、頭部が破壊され完全に停止していることを確認する。
「ちゃんと眠らせてあげられたんですね。西山さんもきっとお兄さんに感謝していると思います」
「違うよ」
望は力なく首を横に振る。
「俺は、間に合わなかったんだ。もっと早くここに来れていれば、西山を助けられたかもしれない。俺が代わりになれたかもしれない。なのに俺は外が怖くて家に引きこもっていた。こいつはさっきまで生きてたんだ。会えたんだ、助けられたんだ。なのに俺は何もしなかった。彼氏だったのに」
「それは違います」
今度は音葉が首を振り、望の肩に手を置く。
「お兄さんはがんばりました。ちゃんと西山さんを送ってあげたんです。もしお兄さんがもっと早く家から出ていても、あるいはすぐに大通りに出れたとしても、その時は地下鉄には逃げなかったと思います。お兄さんががんばったら最後に西山さんに会えたんです」
「でも、俺は……」
音葉は軽く望の肩を叩くと日本刀を下に置き、カーゴパンツのポケットからキッチンペーパーを取り出した。二枚のペーパーを左右の手にそれぞれ持ち、手袋がわりにする。それから西山の死体に向かって屈み込むと目に突き刺さったままのハサミをゆっくり抜くとそっと地面に置いた。
「何を?」
「この人はお兄さんの大切な人なんですよね。なら、できる限りのことはしましょう。お葬式はできなくても静かに眠れるようにすることはできます。お兄さんも手伝ってください」
音葉に促され、望はキッチンペーパーを受け取った。二人は丁寧に西山の身体を移動させ地下鉄の平らな部分に寝かせた。西山の顔は黒く汚れ、右目は貫通したハサミで潰れており、口と鼻からは白濁した液体が垂れていた。音葉は、ウェットティッシュを取り出し西山の顔を拭って綺麗にした。それから、キチンペーパー越しに開いたままの目を閉じる。少しだけ望が知るかつての西山の面影が戻った気がした。
「両手を胸の前で組ませて、それから顔にこれをかけてあげてください」
望はキッチンペーパー越しに西山の手を取った。西山の死体はすでに冷たくなっており両腕は枯れ枝のように軽かった。生きていた頃とは変わり果てた姿だったが、触れてみると確かに西山の身体だと感じられた。ゾンビだった頃の西山とは違う、望の知る少女の痕跡がその死体には残っていた。再び溢れてきた涙を堪えながら西山の両手を胸の前で合わせ、最後に真新しいキッチンペーパーを一枚西山の顔の上に置いた。
「私たちにできるのはここまでです」
「十分だよ。音葉ちゃん、ありがとう」
穏やかそうに横たわる死者の姿を見てた望は溢れる感情を抑えきれず口を腕に押し付け、声を殺し、歯を食いしばって堪えた。
「お兄さん、泣きたければ泣いた方がいいですよ。この辺りに他にゾンビはいませんでした。少しの間なら声を出しても大丈夫です」
その言葉に、望は嗚咽を堪えきれなくなった。会いたかった、守りたかった、生きる希望だった。何年も片思いをしてきた相手で人生最初の恋人。望は自分の人生で一番大切な人になったかもしれない人を失った。
———それじゃあ、また。映画楽しみにしてる!
西山と最後に交わした言葉がどこからか聞こえ、目の前にあの日の光景が浮かんだ。ポニーテールを揺らしながら駅の人混みに消えていく後ろ姿、望が見た西山の最後の姿だ。あの時追いかけていたら何かが変わっただろか。
———意外と筆まめだねえ。じゃあ私も書いてみようかな。
年賀状を口実に住所を教えてもらった。手紙を書いたり、プレゼントを贈ったり、いつか遊びに行こうと思っていた。もっと早く会いに行っていれば、もう一度言葉を交わせたかもしれない。
———なんか、キスってすごいね
そう言って照れた西山の表情は初めて見るものだった。これから、今まで知らなかった彼女のいろいろな顔を知ることができる、あの時はそう思っていた。だがそれは全て過去の話だ。
「ごめん西山、ごめん千明、ごめん、ごめん……」
望は声を出して泣いた。そんな望を音葉がそっと抱きしめる。分厚い生地越しにも望は音葉の体温と心臓の鼓動を感じることができた。生者だけが持つ温かさが無性に悲しく、望は音葉の胸の中で泣き続けた。