8月17日 地下鉄(2)
2023年2月21日:全面改定
爆発する数秒前、救急車に駆け込んだ音葉は、望と日本刀を床に放り投げ、すぐに体を反転させた。既に赤いポリタンクの山に迫った炎を見ながら、必死に後部ドアに手を伸ばす。観音開きのドアを両手で閉じロックを掛けた。その瞬間、大爆発が起こった。激しい衝撃波が救急車を直撃し、必死にドアを押さえようとしてた音葉の体を吹き飛ばす。
「あぶなっ」
望は咄嗟に両腕を広げ、音葉を受け止めた。缶詰か何かが入っている音葉のリュックサックが腹の変な部分にめり込み、さらに音葉そのものがその上に落ちてきて追い打ちをかける。昔、倉庫で大量のペンキ缶の下敷きになった時を思い出す。望は車に轢かれたカエルのように「ぐげっ」と悲鳴を上げ、床に沈んだ。一方、望の身体をクッションにした音葉は、身体を捻り、その勢いで床に膝立ち。すぐに後部ドアに手を伸ばす。ドアは歪み外が見えていたが鍵は機能している。救急車の車内にあった何かのチューブを引きちぎり、ドアの取ってに巻いて固定した。それから日本刀を拾い、まだ倒れている望を見た。
「ありがとうございます。支えてくれて助かりました。あの、大丈夫ですか?」
「いや……たいしたっ、ことじゃっ…な、いよ」
腹の痛みが激しくまともに受け答えができない。しかも隙間からガソリン臭い煙まで入り込み思わずむせそうになった。大きな声を立てないよう必死に我慢する。音葉は望に近づくと、後頭部に軽く触れた。
「頭は打っていませんね?」
ちょうど背中に通学バッグが入り込んでいたので頭は無事だ。コクコクと頷くと、音葉は少し安堵し、それから「外の様子を確認します」といい運転席の方へ移動した。救急車の後部と運転席側はカーテンで仕切られていた。その布の向こうから音葉の声がする。
「まずいことになっています」
「どうしたの?」
「こっち、これますか?」
望は痛みに耐えながら何とか立ち上がりカーテンを潜った。救急車の前部には運転席と助手席、そしてその間にパソコンのような装置がついていた。助手席側のサイドガラスとフロントガラスの一部は何かがぶつかった衝撃で割れており、蜘蛛の巣状のヒビができていた。音葉のいる運転席側は無事だったが、窓には黒く汚れた手形が着いている。彼女はハンドルに身を隠し、運転席側のサイドガラスから外に目を向けていた。
「姿勢を低くして、こっちを見てください」
音葉の言う方向にはまず検問に止められた車が列をなしていた。その大渋滞の向こう、ちょうど検問が始まる辺りで黒い影が蠢いている。よく見れば、一つ一つが人型をしていた。
「あれは?」
「ゾンビです。爆発を聞いて出てきたんだと思います。ほら、あの路地とかからも」
一番近くにある細い道から数体のゾンビが出てきた。長いスカート姿の女性や部屋着姿の老人のゾンビだ。さらに離れた所にあるマンションのベランダにも人影が現れた。
「どれも爆発した場所に集まろうとしています。まずいです。このままじゃこの救急車が沢山のゾンビに囲まれてしまいます」
「どうする?」
「そうですね。ここでじっとしていればまたどこかに行くとは思いますが」
「どれくらいの時間がかかるのかな」
「数日か、次の生存者が近くを通るまでですね」
「……それは」
選択肢としては非現実的だ。しかも望達が隠れている救急車は安全地帯としてはあまりにも頼りない。後部ドアは凹んでいるし、ヒビの入った窓は割れる寸前だ。一、二体ならともかく何十、何百のゾンビを防げるとは思えなかった。
「立て籠もるって選択肢は、なしだよね」
「はい。そうするとどこに逃げるかです」
見える範囲、検問方向にはゾンビの大群。あそこに突っ込んでいくのは自殺行為だ。かといって、先ほどまで抜けようとしたバスの横も危険だ。すぐ近くで起きた爆発で数が減っているかもしれないが数十体のゾンビがいた。そもそも、何かが激しく燃えた黒煙が車内に入ってきているレベルのなので、近づくことすら難しいだろう。大通りに面した路地からは次々とゾンビが出てきている。
望はできるだけ頭を出さないように外を観察した。
「近くのビルに逃げ込むのはどうかな? ほら、牛丼屋の入っている建物。階段がある。あそこから上に上がれれば安全じゃないかな」
「確かにゾンビは上り下りが苦手ですね。中に何がいるかわかりませんが、ここに残るよりは安全かもしれません。二階は不動産屋、三階は美容室、鍵が開いていればどちらかに隠れられそうです。他のゾンビに気がつかれる前に移動しましょう。歩けますか」
「大丈夫」
「では荷物を持ってください。外に出たらできるだけ目立たないようにあの階段まで走りましょう」
二人は後部に戻り脱出準備を始めた。音葉は救急車の中にある医療品や消毒などをリュックサックに詰めていた。ただでさえ一杯だったものがさらに膨れる。望は鞄を拾うだけだったので、音葉が荷造りをしている間、後部ドアにできた隙間から外を見てみた。爆発現場周辺は至る所で炎が上がっており、夥しい数のゾンビが倒れている。動いているものもいたが、背中が燃えていたり、下半身がなかったりと地獄のような光景だった。大型ゾンビの姿は見えないがあそこを突破するのは無理だ。一方、検問から近づいてくる群れは徐々に爆発現場に迫っていた。既に数体は救急車の近くまで来ていた。
音葉の準備が終わる。望が深呼吸をして集中しようとすると強烈なガソリン臭とゴムの溶けた匂いがした。さらに風に運ばれた黒煙が目に染みる。耳を澄ませればゾンビ立ちのうめき声と足音が混ざった蠢きが聞こえてきた。一刻も早くここから逃げるべきだ。
「まず私が飛び出します。すぐ後に続いてください。あと、これをお願いします」
音葉は望に刀の鞘とオレンジ色の取っ手がついた機械を渡してきた。
「リュックに物を入れすぎたので鞘が持てなくなりました。あと、AEDです」
「電気ショックに使うヤツ?」
「電源が入らなかったので壊れているみたいです。でも、ゾンビにぶつければ時間稼ぎにはなります」
確かに救急車の中で武器になりそうなものはAEDしかなかった。学校などでみかける簡易型ではなく、救急車用なので大きく重い。他の機器は小さすぎるか、軽すぎる。アタッシュケースのような形状は使いにくそうだが丸腰よりはマシだろう。
「それでは行きますよ。三、二、一」
ゼロとは言わず、音葉が運転席を開き外に飛び出した。望もすぐ後に続く。灰が積もった道路に両足を着き、音葉の背中を追った。階段までは十メートルほど。二人に気がついた自転車乗り風のゾンビが襲ってきたが音葉が白刃を一線させると首を失い崩れ落ちた。まず階段の下に到着した音葉が上を見上げる。
「あっ!」
音葉は素早く後ろに飛んだ。間髪入れずに階段から小太りなゾンビが飛び出してきた。ゾンビは数段上から飛んだらしく、先ほどまで音葉がいた地面に両手両足を広げて落ちた。音葉はそのゾンビの頭を突き刺し、抜いた刀を構え直す。そこに別のゾンビが階段から落ちてきた。美容師らしい男性ゾンビで腰にハサミの入ったポーチをつけている。落ちた時に脚を骨折したらしく、上手く立ち上がれず先ほどの小太りゾンビの上で手足をバタつかせていた。音葉はこれにも止めを刺し、階段の上を見た。踊り場にはまだパーマをかけた女性のゾンビやスーツ姿の男性ゾンビが五体ほど、物欲しそうな目を音葉にむけている。
「ここはダメです。別なところに」
「でもどこに!?」
近くに逃げ込めそうな建物はない。コンビニや牛丼屋はガラスが破られているし、その隣のマンションは自動ドアが固く閉じていた。可能性のありそうな郵便局もあったが既に路地から出てきたゾンビで覆い隠されている。迷っている内に、爆発を生き残ったゾンビまで炎の壁を抜けて現れ始めた。その数は二十体ほど。動きは鈍いが衣服が燃えているため近づかれただけでアウトだ。検問から来る群れも新しい獲物に気がついたようだ。何十、何百というゾンビ達の意識が一斉に二人に集中してくるのが感覚でわかった。もはや一刻の猶予もない。
「お兄さん、あそこに逃げましょう」
指差したのは地下鉄の入り口だった。シャッターが降りているのだがそこに車が突っ込み、下に人が一人くぐれるくらいの隙間ができている。
「地下?。ゾンビはいないのかな」
「外よりはマシだと思います。これを」
音葉はリュックサックのポケットから小さなLEDライトを出すと望に渡した。
「先に入ってください。私が外でゾンビを食い止めます」
「わかった。でも、もし中にゾンビがいたら?」
「その時は戦ってください。頭を狙って」
「……了解」
炎を抜け、あの大型ゾンビが姿を現した。頭髪は焼け落ち、顔も火傷で爛れている。爆発現場に巻き込まれたから全身にガラスや金属片が突き刺さっていた。そして近くにいる他のゾンビ童謡、体に火が移り燃え上がってる。炎に照らされ白い肌が妙に映えている。大型ゾンビは周囲のゾンビをなぎ倒しながらこちらを一直線に目指していた。
「音葉ちゃん!?」
「私はいいから先に!」
「ご、ごめん」
望は覚悟を決めて走り出した。進路上に二体のゾンビがいた。一体はロングスカート姿の中年女性、もう一体はランニングウェア姿の男性のゾンビだった。
スカートゾンビの動きは鈍い。望はその横を走って通り過ぎた。スカートゾンビは腕を伸ばそうとしたが、何も掴めなかっい。
さらに数歩進むと目の前にランニングウェアゾンビが現れた。生前はマラソン選手のような体型だったのだろうが、ゾンビ化した今、その手足は枯れ枝のようだった。足首を痛めているらしく、歩き方がおぼつかない。
「よし。あれなら俺だってやれる」
望はAEDを盾に日本刀の鞘を槍のように構え、距離を詰める。ランニングウェアゾンビが一歩近づこうとし、体が揺れた。望はその隙を見逃さず鞘でゾンビの胸を思いっきり突いた。もちろん刃物ではないのでたいしたダメージにはならなかったが、ゾンビは踏ん張ることもできず後に倒れる。
当然ゾンビは立ち上がろうとする。望はその頭部にAEDを思いっきり投げつけた。
「ごめんなさい」
オレンジ色の機械はゾンビの顔面を直撃し、鈍い音がした。オレンジ色の機械に灰色の液体がこびり付き地面に落ちた。ゾンビは白目を剥いたままピクリとも動かない。
「倒せたのか。よし」
目の前の脅威を全てかわした望は地下鉄の入口まで一気に駆け抜けた。そこはいつも通学で使っていた駅だ。シャッターが降りているがその先の階段は目を瞑っても降りられる。まず三十センチほどの小さな隙間にライトを入れ中を確認する。階段は無人で、物音もしない。もしゾンビがいるのなら爆発を聞いて外に出ようとするだろう。何もいないということは、安全である可能性が高い。望はまず自分の鞄と鞘を隙間から中に入れ、次に地面に這いつくばって匍匐前進をしながら地下鉄の中に入った。ライトで階段を照し、とりあえず安全であることを確認する。
「音葉ちゃんは!?」
望はシャッターの隙間から音葉の姿を探した。
音葉はまだ救急車の近におり、大型ゾンビに苦戦していた。服が燃えているので十分に踏み込めず、身重さがあるため直接頭を狙えない。何とか繰り出した攻撃も腕や首をかすっただけだっで致命傷にはなっていない。また一撃、ゾンビに避けられる。大型ゾンビはまるで知性が残っているかのように後ろに下がり日本刀の間合いから出た。音葉も数歩下がり体勢を整えようとした。だがその背中に車がミラーがぶつかり動きが止まる。それをチャンスとみたのか、大型ゾンビが雄叫びを上げながら姿勢を低くし突進してきた。すかさず、音葉は自由に左手で後の車のドアを勢いよく開きその後ろに隠れた。突撃してきたゾンビは目標をドアに切り替えそのまま激突した。ドアがはじけ飛び、望がいる辺りに落下、先ほど避けたロングスカートゾンビの真上に落ちてそれを潰した。
「音葉ちゃん!?」
望は慌てて音葉の姿を探した。だが落ちてきたドアの辺りにはいない。そのまま目を大型ゾンビのいる辺りに走らせる。音葉がいた。車の上だ。大型ゾンビもそれに気づき、顔を向ける。そこに音葉が全体重を乗せた一撃を放った。日本刀が大型ゾンビの目に突き刺さり、後頭部から抜ける。ゾンビの両腕がだらんと下がる。音葉が日本刀を抜きながら蹴りつけると大型ゾンビはそのまま後ろに倒れ、別の車に寄りかかり動かなくなった。
「すごい! さすがだ」
望は音葉の鮮やかな手並みに心底感心した。
ゾンビを倒した音葉は、周囲を確認していた。彼女の半径十メートル以内にいるゾンビは全て倒されている。それから望の姿を確認し、こちらに向かって駆けてきた。地下鉄の入り口に到着すると、まず荷物の詰まったリュックサックを下ろす。
「お兄さん、中はどうですか」
「こっちは大丈夫。ゾンビはいない」
「よかった。じゃあこれを」
まず日本刀を穴に通し、それからリュックサックを入れようとした。だが水や食料、医療品の詰まったリュックは大きすぎ、穴に入らない。中の物を出して小さくしようとリュックを開いた時、音葉の後にランニングウェアのゾンビが現れた。顔面が一部凹んでいたがまだ動いている。
「音葉ちゃん、後!!」
「まだいたの!」
音葉はリュックサックを拾い上げると、鍔迫り合いのように両腕でリュックサックでランニングウェアゾンビを押した。リュックサックはかなりの重さで、ゾンビは受け止めきれずそのまま倒れる。すかさず音葉はその頭部をブーツで蹴り上げた。脳の破壊はできなかったが、衝撃でゾンビの動きが止まる。ゾンビの視界から逃れた音葉は手ぶらのままシャッターの隙間に身を潜らせ、地下鉄内に入って来た。望は咄嗟に上着を脱ぎ、シャッターに開いた穴に詰めた。外からの光が一気に無くなる。だがまだ外から中を見ることはできる。
「それ、いいアイデアです」
音葉も上着を脱ぎ、穴に詰めた。シャッターの隙間は完全に埋まり、地下鉄の中は真っ暗闇になる。
「大丈夫?」
「静かに。ライトを消してじっとしていてください」
しばらくしてシャッターの外側にゾンビが集まった気配がした。足音、うめき声、シャッターを叩く音がした。ゾンビが腕をシャッターに振り下ろす度に波状の金属の板がうねりを上げ、その残響が地下に響いた。外のゾンビは何体かが燃えているのか、熱気や焦げ臭い匂いが下部の隙間から流れ込んでくる。パチパチと何かが燃える音までした。望と音葉は地下鉄の階段を何段か下がり、シャッターを見守った。
ほんの数分で熱と異臭がピークを迎える。ゾンビがシャッターを叩く耳障りな音は小さくなり、やがて消えた。最後にシャッターの向こうでどさっどさっと何かが立て続けに倒れる音がしてやがて完全にゾンビの気配が消えた。
「なにが起きたんだ? ゾンビが見逃してくれた?」
「それにしては早かったです。シャッターの向こうにいたゾンビがお互いに火をつけあって燃え尽きたのかもしれません」
「他のゾンビは? まだ何百体もいたけど」
「ゾンビの知能は低いんです。視界から消えてしばらくすると獲物のことは忘れます。私達を認識していたゾンビが生きていればそこから連絡が行ったんでしょうけど、全部焼け死んだみたいです。だから外にいた他のゾンビはもう私達のこと気にしていないはずです」
「じゃあ、これで安全なんだ」
「ひとまずは、です」
望は大きなため息をついてその場に座り込もうとした。
「お兄さん。ほっとするのはまだ早いです。下の安全も確認しましょう。ゾンビがいなければ線路を伝って隣の駅まで行きます」
音葉はカーゴパンツのポケットから小さなライトを出すと抜身の日本刀を手に持ったまま階段を下り始めた。Tシャツから伸びるその腕は年相応に細い。望はいつまでも守ってもらってばかりではいられないなと思いながらその後を追った。