幕間2 木下京介の最後
あと少し、あと少しで家に帰れる。
木下京介は弱々しい足取りで大通りを進んでいた。道には大量のゾンビがいたが、路上に放置された車の陰に隠れながら移動することでなんとか見つからずに進む事ができた。一週間着っぱなしの木下のスーツはあちらこちらが破け、返り血や灰色の液体で汚れている。だが一番目立つのはワイシャツを赤く染める腹部の傷だ。ついさっき動きの速いゾンビとの戦いでガラスの破片を腹部に受けてしまい、その傷が塞がらない。一歩足を進める度に腹部に激痛が走り赤い血が地面に滴る。
「あのゾンビ野郎、飛び跳ねるなんて……畜生、あと少しなんだ。耐えてくれ、俺の体。家族が、待ってる」
あの日、富士山が噴火した時、木下は東京から百キロほど離れた栃木県宇都宮市に出張に行っていた。富士山の噴火があったものの、関東地方への影響は軽微との報道があったのでそのまま現場に残り仕事を続けていたが、翌日には大規模な通信障害が発生し自宅との連絡が取れなくなった。電車も運行を止めてしまったため、木下は同僚と半ば強引にレンタカーを借りて東京にある自宅を目指した。しかし、その途中で同僚達がゾンビ化。一人生き残った木下はなんとか逃げ延び、一週間近くかけようやく自宅近くまで戻って来ていた。
「くっ、俺の血でゾンビが……!」
木下の血の匂いを嗅ぎつけたのか、周囲のゾンビが集まって来た。数は十を超えている。距離が近いのは四体。前方に一体と後方から三体だ。木下は大型のサバイバルナイフを抜いた。大学時代に始め、社会人になってからも続けていた登山のお陰でナイフの扱いには自信があった。実際、宇都宮からここまで百を超えるゾンビをナイフで屠って来た。
「邪魔だ!」
木下は正面のゾンビに飛びかかり手にしたサバイバルナイフを頭部に突き刺した。ナイフの先端は濁った眼球ごとゾンビの脳みそを貫き、その両腕がだらんと垂れる。木下はナイフを抜こうとしたが頭蓋骨に引っかかったのか動かない。後ろからは別のゾンビが迫って来ている
「こんな、ところでっ!!」
木下は右手でナイフを握ったまま、左手で倒したゾンビの肩を掴み足で力一杯ゾンビを蹴った。ゾンビの体が吹き飛びその衝撃でナイフが抜ける。しかし、ナイフの先端が二センチほど欠けていた。
「ナイフも限界なのか」
後ろから迫っていたゾンビが噛みつこうと襲ってくる。木下は身を屈めて攻撃をかわすと足払いをかけゾンビを転ばせる。倒れたゾンビの後頭部を革靴の踵で踏み潰しながら、次のゾンビの口にナイフを突っ込む。白濁とした灰色の液体が飛びゾンビは立ったまま動きを止めた。今度は突き刺したナイフを抜こうとせず、そのまま手を離す。ゾンビはもう一体のゾンビを巻き込みながら後ろに倒れる。
「今のうちに」
木下は腹を抑えながら駆け出した。道を曲がり住宅街に入る。あと五分ほどで木下の妻、二人の娘が待つ家にたどり着ける。だが、無情にもそこで木下は限界を迎えてしまった。視界がぐらつき、気がつくと灰の積もったアスファルトの上にうつ伏せに倒れていた。
「……あと、少しなんだ……」
木下は這ってでも進もうと手を伸ばし地面を摘もうとする。しかしその手は灰の表面を少し削っただけだった。
「……あと少し」
もう腕を伸ばす力も残っていない。いつの間にか腹部の激痛が感じられなくなっていた。目がかすれ、意識がどんどん薄れていく。
「すまない、美香、愛里、梨美。父さんは……」
最後に愛する家族の名前を呼びながら、木下京介は息絶えた。自宅まで、わずか五〇〇メートルの距離だった。やがて、木下の遺体の上に火山灰が積もっていく。道路に落ちた血も、彼が最後にあがいた爪跡も、苦悶の表情も、等しく灰色に染め上がっていった。