第5話 伊能家
京都府と三重県の県境。鞍馬山からさらに奥へ分けいった場所に一軒の家がある。元々、この地域が修験道のメッカだったこともあり、道は険しく普通なら人が来るような場所ではないが、何かの拍子に、山歩きをしている者が迷いこみ、その建物を目にすることもある。けれども、巡らされた土塀と、門の造りが山寺を思わせるため、誰も一般の住居だとは思わない。
千年の昔から、伊能家はここに居を構えてきた。
この家の当主は、代々、この国の異能を束ね、監視する役割を担ってきた。
その名、「伊能」は、つまり、「異能」に通じる。
障子を開け放し、名工の手による日本庭園を眺めている白髪の男は、現当主伊能辰巳だ。
力を抜いて端座しているだけで、痩せて小柄なその体からほとばしる、強烈なエネルギーのようなものが感じられた。
辰巳は、着物の膝に揃えた手を固く握っており、それはいつもの彼らしくなかった。
その原因は、彼から畳一枚空け、額を着けんばかりに平伏している大柄な男性にあった。
いや、正確には、彼が辰巳に報告した、その内容にあった。
「ふむ、東の切田家か。
厄介なことよ」
辰巳が言う「東」とは、関東地方のことだが、この家では代々、そう呼びならわしてきた。
「白安尼様によると、それぞれが術を使ったそうだな」
当主の言葉に責める調子はなかったが、平伏している男は、そのガッチリした体をピクリと震わせた。
厳つい額には脂汗が浮かんでおり、それが今にも滴りおちそうだ。
「不覚でございました!」
巨体から、震える声が洩れる。
「ひろし、聖子、ひかるに関しては、まあいい。
ただし、苦無につける人員は増やせ!
それも早急にだ!」
「はっ!」
大男は、頭を少しだけ上げ、それをもう一度下げてから席を立った。
彼の気配が敷地内から消える。
暮れかけた庭の水面に、白い夏椿の花がひらりと落ちる。
辰巳の注意が一瞬それに向けられたとき、少女が彼に話しかけた。
「お父様」
「うむ、お前か」
艶のある黒髪を肩で切りそろえた少女は、抜けるように色が白く、やや端が上がったアーモンド形の目は、美しいガラス細工さながらだった。
白いシャツの胸にブルーのリボン、チェックのスカート、膝下までの白いソックス。彼女は切田苦無が通う学校の制服を着ていた。
瞬く間に少女が現われ、目の前に座っていることを、辰巳は少しも不思議に思っていないようだ。
「アレの監視は、今まで通り、私一人で十分です」
少女の声には、非難の色があった。
「お前が何と言おうが、人員は増やす」
形のいい、桜色の唇をキュっと噛んだ少女が小声で何か言うと、その姿はいつの間にか消えていた。
「そんなことは、言われんでも分かっておる!」
辰巳は憮然とした顔で、独り言をもらした。
少女の残した不吉な言葉が、伊能家当主の脳裏に刻みつけられていた。
『アレを刺激すると、どんな厄災が起こるか知れませんよ』
暮れるのが早い山間である。伊能家は、間もなく夜の闇に沈んだ。
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