カリスマ読者
ネットカフェやマンガ喫茶は混んでいることが多いので、仕事がない日には、直樹はよくブックカフェを利用する。一般的には書籍全般を扱うところが多いが、この『カフェ図書委員』は小説限定の店であった。
ここなら料金も格安だし、小説が好きな人間には悲しい現実だが、いつも空いている。おかげでゆっくりできる、と言いたいところだが、直樹の本を読むスピードは尋常ではなかった。
学生の頃、就活には何か資格を持っていた方が有利だろうと考え、親に金を出してもらい、本を速く読む技術を教える塾に通っていたのだ。もっとも、本が速く読めたところで就職にはまったく役に立たず、未だにフリーターである。また、速いと言ってもせいぜい一冊二十分程度だから、この技術で食べて行けるほどでもない。
それでも、速く読むクセがついてしまっているので、どうせ暇つぶしだからゆっくり読もうと思っているのに、気が付くと猛スピードで読んでいる。書籍販売が営業主体の店ならとっくに追い出されていただろうが、『カフェ図書委員』は一時間いくら、その間は何冊読んでもOKという、カラオケボックス方式の料金体系であった。
直樹が最初に申告した時間が終わる頃になり、席まで店員がやって来た。
「お客さま、まもなくお時間となります。延長されますか?」
顔色の悪い中年男性の店員に声をかけられ、直樹は引き込まれていた小説の世界から、無理やり現実に意識を戻した。
「え、ああ、もう出ます」
その時、ふと、店員が胸に差しているネームプレートが目に入った。
「へえ、小湊川って、小湊川源次郎と同じ苗字ってあるんだな」
「何ですって?」
見ると店員はワナワナ震えている。名前にコンプレックスか何かあって、怒らせてしまったようだ。
「あ、失礼しました。ぼくの知ってる小説家に同じ名前の人がいるので、つい」
だが、店員の震えは止まらなかった。
「こ、小湊川源次郎の、な、何を読んだんですか?」
「すみません。別に悪気はなかったんです」
店員は何故かイライラしたように首を振り、やや乱暴に質問を繰り返した。
「そうじゃない。何を読んだんだ?」
「えっ。確か『あんたにおれの何がわかる』というハードボイルド小説で」
「で、で、どうだった。読んでみて」
「はあ、わりと面白かったですよ。最後に、友人の制止を振り切って主人公が出て行くところなんか、ちょっと泣けました」
「ああっ!」
店員は今にも倒れそうになっている。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと、待っててくれ。あ、いや、待っていてください」
店員はヨロヨロと店の奥に歩いて行き、「店長、店長、大変です!」と叫んだ。
直樹は今のうちに逃げた方がいいような気がして席を立とうとしたが、店員が初老の女性を連れて戻って来てしまった。
女性は小声で店員に「そんなことあるはずないわ」と言っている。半ば強引に店員に連れて来られたようだ。直樹の前に立つと、少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「店長の桜田門と申します。すみませんねえ、小湊川が失礼なことを言ったみたいで」
「いえいえ、そんなことありません。あ、でも、また怒られちゃうかもしれませんが、桜田門というお名前を聞くと、つい、ミシェル桜田門を思い出してしまいました」
今度は店長の番だった。腰が抜けたようにヘナヘナとその場に座り込み、「ミシェル、ミシェル」とうわごとのように繰り返している。
「すみません。変なことを言ってしまって。ミシェル桜田門というのは『わたしには何でもお見とおしよ』という小説を書いた人で」
すると、店長と店員は顔を見合わせ「本物よ」「本物です」とささやきあっている。
勘の鈍い直樹も、さすがにピンときた。
「あのー、もしかしてお二人は」
すでにポロポロと涙をこぼし始めていた店員が大きくうなずいた。
「そうです。わたしこそ小湊川源次郎。そして、店長は桜田門幸恵こと、ミシェル桜田門です」
店長も泣きだしていた。
「ああ、生きていて良かった。こうして本物の読者さまに出会えるなんて。思い起こせば十年前、主婦作家として華々しくデビューしたものの、処女作の『わたしには何でもお見とおしよ』以後、まったく本が売れなくなり、それでもいつか再起するチャンスを待とうと、このカフェをやっていて本当に良かった」
店員も泣きながら頷いた。
「わたしもです、店長、いや、ミシェル。『あんたにおれの何がわかる』がついに絶版になった時には、もうわたしの作家人生は終わったと思ったものです。ああ、そうだ、ミシェル。仲間たちも呼びましょう。きっと、この読者さまなら、彼らの作品も読んでいてくださるはずです」
「そうね。でも、読者さまだってお忙しいわよ。あっ、そうだ。いいことを思いついたわ」直樹の方を向き「今後あなたがこの店に来られたときは、いつでも無料にします。好きなだけいてくださってかまいませんわ」
「はあ」
直樹は二人が気の毒で本当のことが言えなかった。
二人の本を読んだのは、学生の時通っていた本を速く読ませる塾だった。塾生たちが白紙の状態で読めるよう、きっと誰も読んだことがないであろう、まったく売れていない小説をテキストに使っていたのだった。