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GHOST

作者: 宮沢弘

 何もかも焼き尽くそうとするかのような夏の太陽も、今は西の空に沈もうとしている。永く、暑かった一日に夕暮れが幕を引き始めている。たぶん、十年前ならば一流ホテルであったろうその中の一室で、俺の時間の幕を開けようとする夜の先駆を、埃のこびりついた窓から眺めている。目を下に向けると、夜に向かい、町の中は喧騒が甦りつつある。革の、埃と汗の染み込んだジャケットの袖に腕を通し、俺は部屋から喧騒の中へ……


 “ブルー・スカイ”

 この東京ではすでに見ることの出来ないその名を掲げた一軒のバー。この辺りに住んでいるジョック達の溜り場だ。薄汚れたビルに囲まれながら、手入れが行き届いた木の扉が不思議な光沢を放っている。マスターの言うことには、この扉は本物の『カシ』とかいう木なんだそうだ。その、重厚さを十年以上の歳月にわたって漂わせている扉を開けて中に踏み込めば、いつもの馴染みがこちらに目を向け、声を掛けてくる。

「よう、マトリクス。稼いだか?」

「これからさ」

 いつもの、そう毎日の儀式のように続いているこのやりとりを終えるころには、俺はカウンターの止まり木に腰を下ろし、マスターはバーボンを俺の前のに置いている。そして、後ろからは奴のダミ声が俺を貫く。

「よう、ブルー。もっと持ってきてくんねぇか」

 ブルー。この店のバーテンであり、マスターであり、俺達ジョックの伝説の主でもある。

「ブルー、今日は強い奴が欲しいんだが…… 飛べなくなったあんたに……」

「ん? そうか。今日は私が死んだ日だったね……」

 もう何年になるだろうか? ブルーが翼をもがれて、それまでにため込んだ金をはたいてこの店を買い取って以来、ジョック連中は今日になるとブルーを囲み、夜通し飲み明かすのが一年の一度の祭りになっていた。

「マトリクス、今日は若い衆(わかいし)も来るんだろう。おまえさんもそろそろ若い衆をまわりにおいた方がいいんじゃないのかね」

「あぁ、考えておくよ」


「マトリクス。今日はブルーの記念日だぜ、しけた顔しえねぇでこっちにこねぇか」

 後ろのボックス席から奴が声を掛けてくる。ここ何年も毎日のように聞いている声だが、どうにも慣れることができないダミ声だ。

「ブラザー、遠慮しとくよ」

 根はいい奴であることはわかっている。だが、あの田舎臭さは声と同じ様にとても慣れられるような代物ではない。

「彼も腕は確かだよ。彼の若い衆若(わかいし)を見てみなさい、マトリクス。それなりに大した連中ばかりだ。分かっているだろう?」

「俺は残念ながら奴みたいに人間が出来てないんでね。俺の言うとおりに動かないような若い衆はいらないんだ」

 ため息とも取れそうに息を吐き、ブルーはカウンターの奥へ下がった。

 そう、俺も若い衆を使うことを考えないでもない。連中を雇えば、金を払わなければならない代わりに、確かに今よりも稼ぎが増えるだろう。だが、そんなに稼いでどうする? こっちが稼げば稼ぐだけ、連中もガードを堅くするだけだ。もっとも、今でもどんどんガードは堅くなっているが。


 一人でゆっくりと飲んでいる間に、三々五々とジョック連中が集まり、大体毎年のメンバーの顔が揃った。この辺りのジョック連中でブルーの記念日を忘れるような奴は、ブルー本人くらいしかいない証拠だ。もちろん今では現役のジョックを引退し、真っ当な職についている連中もやってくる。もっとも、そんな連中の顔を知っているのはブルーと俺、そしてあの、ダミ声で田舎臭い、奴ぐらいのものだ。奴のボックス席では、新しい顔が扉をあけるたびに、若い衆(わかいし)にあれは誰それでどんなことをやったと説明するダミ声が響いていた。

「マトリクス、まだジョックをやってるそうだな」

 不意に掛けらえた声に、俺は振り向き、懐しい顔を見た。

「あぁ……? ディック、一年ぶりだな。あぁ、まだやってる」

 ディックは挨拶を聞きながら、俺の右に止まり、ブルーと声を交わした。確かディックは俺よりも何年か長く生きているはずだが、見た感じでは俺と同じくらいの年にしかみえない。彼の送る余裕の有る生活と、そうでない俺との違いのせいだろう。

「それよりディック、おまえさん方こそ仕事は続いているのか?」

「もちろん。金には困らん程度にな。おまえさんもジョックを辞めたけりゃぁいつでも俺のとこで雇ってやるんだがね」


 他愛もない話を続け、酔いも廻り、俺達のような古株が昔話を始めるころになると、あちこちの若い衆(わかいし)が集まって、毎年、いやここにくれば毎日でも聞くことができる話を始める。俺やブラザーが若い衆だったころから続いている話だ。そう、もう十年ほど前にもなるだろうか? 俺やブラザーもその話を聞いたときには正直言って驚き、信じかけたものだ。すぐに嘘か冗談だと分かる話だったが。いや、だからこそ逆に惹かれるのかもしれない。それは今でも変わらず、若い衆の格好の話題であり、俺達にとってはすでに自分の血肉と化している話だ。

 その頃の俺は、ブルーの若い衆をやっていた。もちろん俺の他にも二、三人ブルーの若い衆をやっていたが、今では俺の他にジョックを続けているものはいない。大体ブルーのような良くも悪くも一流のジョックの若い衆には、あちこちの会社から引く手あまたなのだ。どこもかしこも優秀なネット技術者やプログラマは喉から手が出るほどに欲しがっている訳だ。つまり、コンピュータやネットの使い方を、そう、学校なんかでは教えてくれない使い方を知っている人間は、そうざらにはいないってのが本当のところなんだろう。

 しかし、俺もブラザーも経験を積み、独り立ちしたが、未だにそのずっと昔から続いている話の、多分ネットがこれほどまでに巨大になったころからずっと続いているであろう話の主人公に出会ったことはない。


「マトリクス! おい、マトリクス」

 ダミ声に物思いから呼び起こされ、声のした方へ視線を移すと、いつの間にかブラザーは若い衆(わかいし)の話の中に入り込んでいた。多分、自慢話でも披露していたに違いない。

「マトリクス、この連中に説明してやれよ」

「何をだい? ブラザー」

「決まってるだろう、例の話さ。若い衆はいつでもあの話が好きなんだ」

 ダミ声を取り巻いている若い衆を一瞥し、俺はブルーに振り返った。

「ブルー、本当のところはどうなんだ? あの話は、俺やブラザーが若い衆になる前からあったことは確かだ。だけど、俺の知る限りあの話の真偽を確かめたものはいない。あんたなら、ブルー、何か俺達の知らないことを知ってるんじゃないか?」

「そうだな。ブルー、たまには話してやんなよ。昔のことをさ」

「ディック…… 私は……」

 そう、ブルーはいつでも昔のことを話したがらない。いつだったか、俺がブルーに何で昔のことを話したがらないのか尋ねたことがある。答えは簡単だった。歌を忘れたカナリアは二度と歌えないし、翼をなくした鳥は死を待つばかりなんだそうだ。

 だが、今日は違った。若い衆の、いや若い衆だけではない。この “ブルー・スカイ” にやってきた連中皆の期待に満ちたいくつもの目がブルーの古い記憶を、翼を駆りマトリクスという大空を駆け巡っていたころの記憶を呼び覚まし、ブルーの気を変えさせた。


「私が、まだマトリクスの中を飛び回っていたころ……」


 ブルーが初めて、俺達の知る限り初めて彼自身で彼の過去を話し始めた。昔を話さないブルーに馴染んで来た若い衆や、若い衆だった連中は静まり返り、俺やブラザー、そしてディックのようにブルーの昔を知っている者達にとっては、本当の意味で懐かしい話を聞けることで声を潜めた。


「……特にまだ若かった頃、まだマトリクスは静かでモノトーンの世界でした。ネットはもう全世界的な規模になり、私のようなジョックが増え始めていたところでした。私は、第二世代のジョックにあたるのです。皆さんが今でもお話になるその話は、私がまだ若い衆(わかいし)だったころからすでにありました。誰がいつ始めたのか? それはわかりませんが、多分私のボスがジョックを始めたころにその話も生まれたのではないでしょうか? ちょうど、ネットが次第に大きくなり、だんだん一人の人間に理解できないようになり、そして何よりも、今では皆さんに馴染みのダイレクト・インタフェース、つまりネット・デッキが現われたことによるのではないでしょうか?」


 話しを止め、ブルーは自分のためにバーボンをグラスに注いだ。


「ダイレクト・インタフェースの技術が確立される以前は、コンピュータの使用はキーボードと、ディスプレイのみで行なわれていたのです。今の皆さん、若い衆をなさっている皆さんにはその頃をご存知ない方もおられるのではないでしょうか?」


 若い衆(わかいし)のことからか一瞬ではあったが、それに応えるように動揺が沸き起こった。


「えぇ、皆さんにはちょっと信じがたいかもしれませんね。ダイレクト・インタフェースが実験室で動きはじめたころ、私はまだ五歳くらいでした。そしてそれが市場に出回り始めたときには十五歳くらいでしたでしょうか? つまり、私のボスは私が若い衆になる前は、そしてボス自身あなた方のようなジョックになる以前は、ダイレクト・インフェースの研究をしていたわけです。それが、今から大体二十年くらい前ということになります」


 グラスを空け、ふたたびバーボンを注ぎ、俺達に目を向けるブルー。しかし、その目は、とうにこの場を見ていないことは俺達の誰にとっても明らかであった。彼自身の過去を、彼自身の錆び付いたウェットウェアの中から引きずり出すために、ブルーの心はこの場を、俺達を見てはいない。


「さて、皆さんが未だに話しておられるあのお話ですが、結局のところ、あれは私のボス達が昔の研究室で作りだしたお話なのではないでようか? はじめは仲間内の笑い話だったものが、次第に広がり、ダイレクト・インタフェースの普及により、より加速されたというのが本当のところではないでしょうか?」


 バーボンを流し込むと、やっと彼の目はここにいる俺達を見始めたように感じた。


「マトリクス、ちょっと話しすぎたかね? それに若い衆には気の毒な話だったかもしれない……」


 この声で、今までかたくなに沈黙を保ちつづけていた何かが突然崩れ去り、若い衆(わかいし)の中につぶやき声が生まれた。一瞬前には死の淵に立っていたものがふたたび命を吹き返したかのように。若い衆の声は次第に高くなり、そして一人が問いかけた。


「ブルー、だけど…… それじゃぁいったい誰が彼の、いや彼らかもしれないけど、彼のやったっていう噂のビズをやってるって言うんだ…… 言うんです?」

「そうですね。確かに、彼がビズをやったという噂はときどき入ってきました。そして確かにそのビズはやられていました。それは昔も同じです。ですが、噂の主は誰なのか、その当人でなければわからないものでしょう。このお話の主人公の名前、と言っていいのかどうかわかりませんが、 “ゴースト” も私の “ブルー” やこちらの “マトリクス” そしてそちらの “ブラザー” のようなハンドルネームなのかも知れませんよ」

「だけどよブルー、もう二十年近くもジョックをやってるやつがいるとは思えねぇぜ」

 ブラザーのダミ声が響いた。

「確かに二十年も現役でジョックをやっているという人は私も知りません。本当に二十年も現役でジョックをやっていれば、私達には彼の本当の名前が伝わってきてもいいはずでしょう。しかし、このマトリクスの正式なハンドルネームが私のハンドルにちなんで、 “ブルー・マトリクス” であるように、 “ゴースト” も代替わりをしているのではないでしょうか? それが正式な代替わりかどうかはわかりませんが」


 店のなかの全員が、この話が信ずるに値するかどうかの値踏みをやっているかのように沈黙がふたたび辺りに漂った。

「つまりだ、俺達の話しているような、ゴーストはいないってことだ」

 俺はグラスに残っていた液体の一気に流し込み、ブルーの目を凝視しながら言った。

「確かに、いくら脳波が停止しちまったからって、意識がネットの中に流れ出しちまうようなことはありえん訳だ。ROM構造体に移植される訳でもなく、AIとして再構築されるでもなく、ただネットの中を漂っている意識なんてものが存在するなんてことは、明らかに有り得ん訳だ。もっとも、だからこそ、二十年かそこいらに亘って、俺達を楽しませてくれていることになるんだろうな」

「多分そうでしょうね。マトリクス、もう一杯飲みますか?」

 俺は辺りにいるジョックや、若い衆(わかいし)、それに元ジョック達の顔を見渡し、ブルーの申し出を受けた。

「考えてみりゃぁ、他愛もねぇ話だよなぁ。ブルー、俺にもくれや」

 ブラザーが、若い衆の中から抜けだし、カウンターでブルーにグラスを突き出した。

「そうですね、ブラザー。現実とはそんなものでしょう。私が、若いころに聞いた話ん一つには、こんなものがありましたよ」

 自分のグラスを満たし、空けた後、ブルーはまた話し始めた。

「彼にはまだ生身の体があったころ、彼はほとんど一日中ネットの中にいたんだそうです。何をするでもなく、ただネットの中にいるだけの日もかなりあったそうです。彼も一流ジョックであり、さまざまなICEを打ち壊してきたそうです。もちろん、ICEの逆襲を受け、フラットラインしたことは両手の指では数えられないほどにあったそうです。そしてある日、彼はどこかの財閥の、それも中枢部にアタックしたそうです。しかし、彼はそこのICEに、もちろんそのICEはAIだったそうですが、強烈な逆襲を受け、そのまま現実の彼は息絶えたそうです。そのため、彼はフラットラインしたジョックが仕事を続けられなくなる程に致命的な打撃を受ける前に、どこからともなく現われジョックを助けるというものです。が、もちろんそれはただの噂であったということは、皆さんご存知のことと思います」

 ふたたび遠い目をするブルーを、俺達は凝視めた。彼自身、ジョックであったころ何度かフラットラインしたことがあり、最後にはAIのICEにぶつかり、運悪く強烈なダメージを受けてしまい、今に至るのだ。そのICEは、人間の脳の処理能力を上回る速度で大量のデータをぶち込み、結果として精神に異常をもたらすというものであり、最悪の場合には人間を殺すことができるものだった。ブルーが死ななかったのは、確かに運がよかった。あの時、ブルーがフラットラインしたとき、俺達若い衆(わかいし)はブルーの周囲に詰め寄り、異常があったらすぐさまブルーをネットから引き戻す、つまりインタフェースを外せるような状況を作っていたからだ。確かに、それでブルーの命は救えた。あるいは、ブルーの意識は救えた。しかし、そのほんの一瞬で、そのICEは彼のジョックとして必要とする能力にたずさわる部分を打ちのめしたのだ。

 ブルーの最後の一言で静まり返った店内に、ダミ声が響く。

「運の悪い奴はいるもんさ。ほれ、飲み直しだ」

 若い衆は、ブラザーについてボックス席のほうへと退散した。

「ブルー…… 本当にゴーストはいないのかな」

「……そうですね、ゴーストはあくまでゴーストです。ただの噂かもしれませんし、私のときには遅れただけかもしれない。ゴーストはゴーストのまま、ジョックの内に、そしてネットの内に生きつづけるんですよ、マトリクス」

 琥珀色に染まったグラスの中で氷が揺れ、澄んだ音を立てていた。その言葉にうなずくかのように……



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