ケルトール魔具店5
愁斗が呼び出した契約魔物は好き嫌いが分かれる生物なのでお気を付けください。
愁斗の呼びかけに応じてすぐ隣に僅かなフラッシュと共に現れたのは一メートルはありそうな一体の蜘蛛だった。
蜘蛛系の魔物は大きいものから小さいものまで様々いるためベルバッハは驚きはしなかったが、もちろん愁斗と契約した魔物が普通の魔物であるはずはない。
愁斗と契約して進化した魔物は既にこの世界には存在しない太古の魔物がほとんどである。この魔物もその一体で名を黒糸斬蜘蛛という。全身が若干黄色みがかった黒の体毛で覆われており、頭部に付いている巨大で黒い複眼は生理的嫌悪を催させ、見る者の恐怖を心の底から湧き上がらせる。愁斗は契約しているから可愛く感じるものの、もし契約していなかったら迷いなく攻撃していただろう。
この蜘蛛の作る糸は闇に溶け込めば目視不可能なほど黒く、触れれば四級魔物の赤熊すら容易く切断できるほどの糸を吐き出すことができる。巣を作るときはしなやかな白糸を用いるが、この蜘蛛は基本的には自ら餌を獲りに行くため普段は黒糸を使う。
危険なところはそれだけではなく、この蜘蛛の八本の脚を用いて走る速度は愁斗との鬼ごっこに付いていけるほどであり、追いついた敵を仕留めるときは相手の動きを完全に止めることのできる強力な神経毒を流し込む。力そのものが強いのは言うまでもないだろう。
愁斗は似た特性を持つ糸を生み出す蜘蛛と何体か契約しているが、その中でも今回の仕事にこの蜘蛛を呼んだのはやはり食事の必要があまりなく、見た目が黒く物静かに行動できるため夜道を出歩いても周りにばれる心配がほとんどないからである。もちろん知性は高く人間を襲うことなどない。
ちなみに契約した魔物が多すぎて会話のできる魔物以外には名付けができていない。この蜘蛛も名付けが終わっていなかった。
ベルバッハは驚きこそしなかったもの、愁斗やフェルネ以外から見たら醜悪ともとれるその外見に頬を引き攣らせる。
「この子の名前は………クロウス君で」
愁斗から名前を貰った黒糸斬蜘蛛は嬉しさのあまり愁斗に跳びついた。魔力による繋がりから嬉しいという感情が愁斗に流れ込んでくるのである。
愁斗もそんなクロウスを苦笑いしながら撫でてやった。この世界に来る前の愁斗ならば気絶していたところである。
「じゃあクロウス。そこにいる男が俺に隠れて何か企んでいたらすぐに俺に連絡すること。それと何かされそうになったら食べちゃっていいからね」
愁斗に仕事を貰ったクロウスは小さく一度頷き、ベルバッハに視線を向けた。そしてベルバッハとクロウスの目が合った瞬間、クロウスは一瞬で、そして無音でベルバッハに接近し間近で目を見つめた。
ベルバッハは愁斗の発言とクロウスの予想外の速さに全身を汗でビショビショに濡らしていた。
基本的に契約を求めてくる魔物というのは弱いものである。三級魔物であるワイバーンなどは全くの例外であり、そんな魔物と契約しているからこそケルべイン・ソルスは有名であったのだ。
だからこそベルバッハはクロウスのことを初見で舐めていた。三級魔物ぐらいならベルバッハが負けることはないためである。別に逆らおうと考えていたわけではないが、監視という割には甘いのではないかと。
しかしそんな考えもクロウスの力の片鱗を見ただけで吹き飛んだ。
これ程の速度で動きながらも音をたてず、何よりベルバッハほどの強者をして目視できるギリギリの速度だったからだ。
そんな焦りを覚えたベルバッハのことを至近距離でじーっと見つめるクロウス。傍から見れば蜘蛛に捕食されかかってる成人男性の図である。
「よ、よろしく。クロウス君」
ベルバッハは挨拶をしてみるが、当のクロウスはというと黙ってベルバッハを見つめたままだった。話すことができないのだから当然である。
段々と悪い想像がベルバッハの頭の中を駆け巡り始める。闇魔法で壊されるのと蜘蛛にゆっくり捕食されるの、いったいどちらの方がマシな死に方なのかと。
闇魔法で壊される方が凄惨な死に方だと愁斗は考えるが、殺される方としてはどちらも似たようなものだろう。
やがて何かを観察のような行為を終わらせたクロウスは愁斗がマジックポーチから取り出した肉を口に咥え、部屋の壁を登って行った。その移動すらビックリするほどの無音と高速であった。
入り口側の天井の隅に辿り着いたクロウスはその場で白糸を腹部から吐き出し、自分の巣を作り始めた。地球の蜘蛛も真っ青な早業である。ほんの十数秒で直径数メートルの蜘蛛の巣を作り出した。一メートルはありそうな蜘蛛が張り付いているにもかかわらず全く千切れない糸はいったいどれほどの強度を誇るのだろうか。
高級感溢れるこの部屋に作られた蜘蛛の巣は本来なら汚れを連想させそうなものだが、その白糸は光を反射して僅かに輝き、この部屋の質を落とすようなものではなかった。それどころか芸術的ですらあるその蜘蛛の巣はその形のまま売れれば一財産稼げそうですらあった。
自分の作った蜘蛛の巣で定位置を決めたクロウスはその場でむしゃむしゃと肉を噛み千切り始める。
その堂々とした食事風景はもはやこの部屋の主人と言えるほどであった。
「じゃあ俺達はもうお暇するよ。フェルネは何か言い残すことはある?」
「私は特にない」
フェルネはそう言いながらも無表情でベルバッハを見ていた。
まるで何か言いたいことがあるように見えるのは気のせいだろうか。
「そ、そうか」
ベルバッハとしてようやく災厄が去ってくれると内心笑顔で送り出したいところであったが、もちろんそんな態度を見せるわけにもいかなかった。
愁斗とフェルネはベルバッハの態度を特に気にした様子もなく、その場で踵を返した。
しかしドアの前に差し掛かったところで愁斗は足を止める。
そしてボソッと呟いた。
「俺達を裏切ったら本当に許さないから」
ベルバッハは今までの物腰柔らかい口調から淡々とした口調に変わった愁斗の言葉に思わず全身の鳥肌を総立ちさせた。
それは愁斗が今日初めて行った僅かながらの威圧であった。フェルネでさえ愁斗が本気で行う威圧をまともに受ければ思わず身震いするのだ。ベルバッハが僅かでも受ければどうなるか。
「………君たちを裏切ることのできる人間なんているのか?」
そう答えたのはベルバッハの最後の威厳であった。
いつもなら周りを威圧する側であるベルバッハであるが、今日は情けない姿を見せっぱなしである。男として、そして元凄腕の殺し屋として最後の最後に自分の威厳を示そうとしたのだ。
愁斗はそんなベルバッハの威厳を真剣に受け止めて、フェルネと部屋を去っていく。
ベルバッハは廊下を歩いて遠ざかっていく二人の足音を聞きながら、力が抜けたように自分の椅子に崩れ落ちた。
「はぁはぁ……」
未だかつてないほど緊張した身体は自分の命令を無視し、立ち上がろうという意思を受け流す。
そして今更ながらに手足が震えだした。
そして思う。
なぜ私が最上級魔人に目をつけられなければならないのかと。
自分は今まで勝者であり続けたはずなのにと。
ベルバッハ自身、自分の実力をもってここまで成り上がったのだ。親から受け継ぐだけで何もできない馬鹿貴族ではない。
だからこそ男爵程度の階級に位置する人間に嵌められた気がして怒りが湧いてくる。
しかしそんな怒りも長くは続かなかった。
「……く、くくく……あはは…あははははは!」
ベルバッハはおかしくておかしくて仕方がなくなった。
今の自分の立ち位置が笑えてきたのだ。
「くくく……そうだ、私はいつでも勝つ側にいるのだ」
先ほどまでは憎かったバックレイウ男爵も考えようによっては感謝の言葉を述べたくなってくる。
なにせベルバッハは上級魔人ではなく最上級魔人側に着いたと言えるのだ。
そう考えればバックレイウ男爵に対する感情も逆転するというものである。それに命令ばっかりで頭にきていた上級魔人にももう怯えなくて済むのだ。
ひとしきり笑いきったベルバッハは視界の隅にいる蜘蛛に視線を向ける。
今も身じろぎすらせずにじっとベルバッハを見続けている。
このことに関しても考えようによっては味方のようなものである。自分の傍に自分でも敵いそうにない魔物がずっといるのだ。その視線さえ無視することができれば自分の護衛として考えられなくもない。自分がピンチのときに助けてくれるかわからないものの、自分が誠意を見せ続ければ無碍にできないだろうと。
ベルバッハは立ち上がり部屋を出た。
クロウスも無音で天井を歩き、ベルバッハの後に付いて行く。
そして隣にある扉を開き中に入った。ここはベルバッハ専用の調理場である。あまり使用することはないが気まぐれに自分の食事を作ったりするため、常に食料庫には一定の食料が入っている。
その食料庫からひときわ大きな肉の塊を取り出す。五級魔物の肉であり、この王都の付近で獲れる肉としては比較的高級なものである。
それをクロウス目掛けて放った。
クロウスは素早い動きでそれを捕らえてその場で肉を喰い始めた。
こうなってみればベルバッハから見ても可愛いものである。愁斗と契約しているからベルバッハに付くことはないものの、少しでも信用を得られればそれでいいのだから。
次にベルバッハ恐る恐る手を伸ばす。
撫でようとしているのだが機嫌を損ねれば腕を噛み千切られかねないため、慎重にならざるをえないのである。
触れるか触れないかまで手が接近したときクロウスは素早い動きでそれを避け、先ほどいた部屋に戻っていってしまった。
「…………」
信用を得るにはまだ当分かかりそうである。