時には筋肉痛も悪くない
ちょっとシビア(/- -)/
世の中は案外いい加減なものだ。どうやら時の流れというものさえ、絶対的ではないらしい。
《時には筋肉痛も悪くない》
アンビリーバブルだ。私は、“外”で震える両腕を天に伸ばした。
「ああ…生きてるって素晴らしい……!!」
目映い朝日が、私の体に燦々と降り注いだ。
その直後、玄関の鍵を閉め終えた弟の怒鳴り声が私の背後からブスブスと突き刺さる。
「何してんだバカ姉貴、急げよ!!」
「はいはい」
全く。運動は嫌いだというのに。
私は溜め息と共に、愛しい我が家の庭から外へと自転車で漕ぎ出した。
ある夏の日の早朝に、私と弟はマイチャリである場所を目指していた。二人とも、なんとも言えない、しかし何かを決心したような緊張した表情を浮かべて。
そんな私達をよそに、昨夜遅く降ったらしい雨粒が草木を美しく輝かせていた。
さて、話は少し前に戻るが、私達は薄暗いマイホームのリビングで美少女天使に窮屈な思いをさせた後、彼女からこんな話をされたのだった。
「驚かないで下さいね。まず最初に、私は天使です」
若干体が浮いてる人は神妙な面もちで言った。
「はぁ……そんなの見りゃわか、…いやそれはもうそのお背中の白いものと頭上の蛍光灯、いやリングでわかります。何よりオーラが神々しいですし。それにしても美しいですねぇ」
「すいません、何を言われても私は貴女を死後の楽園には連れていけません。そもそも楽園なんてありませんから」
私の“天使に媚び売って昇天しよう計画”は早くも頓挫した。っていうか多分読まれた軽く頭の中読まれたどうしよう超こえーよ。そしてこんなに神々しい人が楽園の存在をあっさり否定しちゃったよ、やるせない。ん? っていうかじゃあ何でこの人自分のスケールも鑑みずにここに来たの? 哀れな迷子の御霊を優しく楽園に導きにきたとかそういう流れじゃないの? え? 違うの? まさか私達悪霊と見なされて滅されちゃう系?
そんな私の戦慄を読み取り天使は輝く悩殺スマイルを見せた。
「大丈夫ですよ、あなた方を滅しにきたワケではありません」
「そりゃ有難い」
嬉しいよでも頭の中読まないで。私が心の中で囁くと天使は突然わかりましたと朗々と答えてくれた。多分嘘ではないだろう。希望的観測だが。
私は彼女が“お迎え”でなかったことへの残念さを隠しきれずに肩を落としてうなだれた。いや、其処まで成仏したかったワケじゃないけど、ポテトチップス(青のり)が手をすり抜けるような幽霊生活なら意味はない。
「とりあえず安心したよ……じゃあ何で貴女はここへってちょっと待って」
弟がいない。もしや彼女の神々しさを前にかき消されてしまったのか? と私は少し心配したが、部屋を見渡してすぐにソファーの陰から覗く坊主頭を確認した。隠れている……つもりのようだ。私はソファーに歩み寄り真上から球体に話し掛けた。
「おいこら何してるんだ。何で隠れてんだよ(隠れきれてないけど)」
「だって怪しいじゃん!!それに女子じゃん!!」
「怪しいのは認めるけど女の子のどこがダメなの。今目の前にもう一人女の子いるでしょうが。だから何で隠れてんだよ」
「姉貴はいいんだよ!! ……………お、俺、女子苦手……あの子可愛いし……」
「何!? 何照れちゃってんの!?あんた幽霊になっても女子を前に恥じらうの!?何色ぼけてんの!? そしてなにより顔面で人を差別するような子に貴方を育てた覚えはありません!!」
私がもっともなことを喚いていると背後から天使の切羽詰まった声がした。
「ケンカですか?ケンカはやめて下さいっ」
脇腹に鈍痛。無意味に思えた天使の翼の用途の一つがわかった。武器だ。私はギャフン、と叫び右翼からラリアット(ぽいもの)を受けた場所を押さえ床に倒れ込んだ。ご心配なく、ある程度の衝撃は脂肪の鎧が吸収してくれましたので。そしてやっぱり天使は私の頭の中を読まないでくれているようだ。ありがとうでも痛いぜ。
「大丈夫ですか?オイコラさん」
オイコラって誰。天使は驚愕し赤面する弟に話しかけている。私は床に沈んでいる。なるほど、さっき私が弟に“おいこら”って呼び掛けたから勘違いしちゃったんだね。
「オイコラってそいつの名前じゃないんだけど………ぐはっ」
そして世界が真っ暗になった。なんとも激しくショッキングな天使と人間の初めての交流だった。
私が意識を取り戻した後、天使は右翼の粗相を詫び、姉弟ゲンカは力づくで止めなくても良い旨を伝えると了解してくれた。そして私達にある話をし始めた。それは、
「あなた方に生き返るチャンスをあげましょう。主が下すある試練をクリアすれば、あなた方は生き返ることが出来ます」
という吃驚仰天な提案、かつ、
「ただしチャンスに挑んで失敗した場合、地獄に墜ちてもらいます」
というなシビアな内容だった。そして何故楽園はないのに地獄はあるのか。
天使はあなた方がこの試練に挑むかは自由です、挑まないなら今まで通り願わずして引きこもりです、と付け加えたが勿論私は2つ返事で了解した。シャイボーイの制止は押し込めた。女は度胸だ。悪魔でも地獄でも何でもこいや!! そして何より“すり抜けない”普通の女子高生に戻りたい!!
「で?その試練の内容ってのは?」
意気込む私に、天使は穏やかに微笑んだ。い、いと清げなり。だが、どことなくゾッとする。それは彼女の美しさが人間離れしているからだろうか。
「あなた方を過去に戻します。そして、刻限――その日の夕方までにあなた方を死に追いやった相手を」
“殺すことが出来れば、
試練達成です”
なんということだ。
そして、今に至る。
目が覚めたと思ったら平和な朝で、父が朝ご飯を作っていて、体が大分縮んでいたのには驚いたが、どうやら私は小学4年生の夏休みに戻っているらしいことを確認した。ちなみに弟は小学2年生。戻しすぎだ美少女。
今より少し若い父を、これから私達がどうなるのかを知らない父を見ていると心臓が潰れそうだった。何もかも夢に思えた。私達が数年後の、そうあの日に全てを失い強制的引きこもりになることや、突如現れた天使のことも―――
だが、夢ではないのだあの取引は。何故なら今の私達には影がない。それが未来を取り戻しに来た亡霊である証拠だ(悪霊ではない)。私とミニサイズの弟は父が仕事に行くのを見送り、どちらともなく家を出た。甘い考えや感傷は久しぶりに、といっても未来の話だが、牢獄となった家を出たときに振り払った。ふたりともやるべきことはわかっていたのだ。
ペダルを踏む足に力を入れる。ぬおお、ペダルが重い。日頃の運動不足が祟った。こりゃあ筋肉痛になるな。だがその痛みに、私は肉体があることを実感するのだろう。別に私はMじゃないんだが。
ふと前を行く小さな弟の背中を見た。
やると決めたからには、やる。
自分に言い聞かせるように、頭の中でその言葉を繰り返していた。