冤罪で婚約破棄された夜、記録係の書記官様に求婚されました ~私の言葉は、六年前から全部記録済みだそうです~
卒業祝いの夜会は、いつもより少しだけ明るく見えた。
王立学院の卒業生とその家族が集まる、王宮の大広間。天井から下がる燭台の光が磨かれた床に映りこみ、楽団の弦の音が、人々の笑い声の隙間を縫うように流れている。
私、コーデリア・ラングレーは、その片隅で一人、グラスを手にしていた。
(……殿下は、まだいらっしゃらない)
婚約者である第三王子エドガー殿下とは、今夜も入場を共にする約束だった。けれど約束の時刻を過ぎても迎えは来ず、私は伯爵家の馬車で一人ここへ来た。
もう、慣れてしまったことだ。
ふと視線を巡らせると、壁際に灰色の官服が見えた。
王宮書記官だ。眼鏡をかけた背の高い青年が、小さな書見台に帳面を広げ、羽根ペンを走らせている。王宮主催の催しには、必ず一人、ああして記録係がつく。
王族が公の場で口にした言葉は、一言一句、記録に残す。
この国の古い慣例だ。とはいえ、夜会の喧騒の中で記録係を気にかける者などいない。燭台や花瓶と同じように、彼らはそこにあって、誰の目にも映らない。
(いつも、あの方のような気がする)
王宮の行事に出るたび、壁際にいる書記官の顔は、たいてい同じだった。一度だけ会釈をしたら、とても丁寧に頭を下げ返されたことを覚えている。
そこまで考えたところで、大広間の扉が大きく開いた。
「第三王子、エドガー殿下のご入場です」
ざわめきが一瞬で静まり、人々の視線が扉へと集まる。
金の髪を撫でつけた殿下が、胸を張って入ってきた。
その腕に手を添えているのは、私ではない。
淡い桃色のドレスに身を包んだ、小柄な令嬢。ファーロウ男爵家のミュリエル嬢だった。
(……ああ、やっぱり)
胸の奥が、すうっと冷えていく。
この一年、殿下がミュリエル嬢と親しくしているという噂は何度も耳にしていた。学院の中庭で、王宮の回廊で、二人が並んで歩く姿を見たことも一度や二度ではない。
それでも、まさか婚約者を差し置いて、彼女と腕を組んで入場するなんて。
周囲の視線が、殿下たちから私へ、私から殿下たちへと忙しく行き来する。
殿下はまっすぐに大広間の中央まで進むと、私のほうへ顔を向けた。
「コーデリア・ラングレー。前へ出ろ」
よく通る声だった。楽団の演奏が、ためらうように途切れる。
私はグラスを近くの給仕に預け、ゆっくりと前へ進み出た。
「お呼びでしょうか、殿下」
「白々しい。自分が何をしたか、わかっているだろう」
殿下はミュリエル嬢の肩を抱き寄せ、私を見下ろした。
「この一年、お前はミュリエルを陰で虐げ続けた。その罪により、私、エドガーは、ここにお前との婚約を破棄する!」
大広間のあちこちで、息を呑む音がした。
(いじめ……? 私が?)
頭が真っ白になる。
ミュリエル嬢とは、ほとんど言葉を交わしたことすらない。
「罪状を申し上げる」
殿下は、まるで用意してきた台本を読むように続けた。
「一つ。三月十二日、学院の大階段で、お前はミュリエルを突き落とした。ミュリエルは足をくじき、ひと月も杖をついて過ごしたのだ」
「二つ。五月二十日、学院の図書館で、お前はミュリエルの教科書を破り捨てた」
「三つ。夏の王妃殿下の茶会で、お前は人前でミュリエルを嘲り、恥をかかせた」
ミュリエル嬢が、殿下の胸にそっと顔を埋める。細い肩が震えていた。
「わ、私……ずっと、怖くて……誰にも言えなくて……」
「もういい、ミュリエル。私がついている」
殿下はやさしく彼女の髪を撫で、それから鋭い目を私に戻した。
「証人もいる。ベアトリス嬢、ヘレーネ嬢、前へ」
人垣の中から、二人の令嬢が進み出た。どちらもミュリエル嬢と親しくしている方たちだ。
「わたくし、図書館で見ました。コーデリア様が、ミュリエル様の教科書を……」
「茶会でも、わたくしはすぐ近くの席におりました。コーデリア様は、ミュリエル様の装いを『男爵家らしい』と笑って……」
二人は目を伏せながら、口々にそう言った。
(違う。そんなこと、していない)
言わなければ。違うと、はっきり言わなければ。
けれど、顔を上げた先にあったのは、冷たい視線ばかりだった。
殿下の取り巻きの令息たち。ひそひそと囁き合う夫人たち。哀れむような、面白がるような目。
この場にいる誰もが、もう答えを決めてしまっている。
王子殿下がそう言うのなら、そうなのだろう、と。
父と母は、領地の災害の対応で今夜は来られなかった。私の隣に立ってくれる人は、誰もいない。
「……何か言うことはあるか」
殿下が、勝ち誇ったように笑う。
私は唇を開きかけて、閉じた。
(何を言っても、きっと無駄なのだわ)
殿下は私の言葉を聞いたことがない。
六年前、婚約が決まったあの日からずっと。私が何を話しても、殿下はつまらなそうに窓の外を眺めるばかりだった。
だから今さら何を言ったところで、この人の耳には届かない。
「……いいえ」
小さく首を振って、私は目を伏せた。
「申し上げることは――」
「失礼いたします」
静かな声が、私の言葉を遮った。
大広間の空気が、ぴたりと止まった。
声のしたほうを振り返る。
壁際の書見台から、灰色の官服の青年が一歩、前へ出ていた。
帳面を片手に抱え、もう片方の手で眼鏡の位置を直す。その仕草には、少しの迷いもなかった。
「なんだ、お前は」
殿下が眉をひそめる。
「王宮書記局所属、書記官のイザーク・フォーゲルと申します。本夜会の記録係を務めております」
青年は殿下に向かって深く一礼し、顔を上げた。
「記録係として、殿下のご発言に訂正を申し上げます」
ざわり、と周囲が揺れた。
記録係が王族の発言に口を挟むなど、聞いたことがない。
「訂正だと? 記録係が?」
「はい。王族の方が公の場で述べられたお言葉は、一言一句記録に残す。それが慣例でございます。そして記録に誤りがあってはなりません。殿下が述べられた事実が、王宮の記録と食い違っている場合、それを申し上げるのも記録係の務めです」
淡々とした口調だった。怒っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、事実を並べているだけの声。
「殿下は先ほど、『三月十二日、学院の大階段で、コーデリア・ラングレーがミュリエル・ファーロウを突き落とした』とおっしゃいました」
イザーク様は帳面を開き、指先で一行をなぞった。
「三月十二日。その日、コーデリア様は、王妃殿下主催の慈善会議にご出席でした。会議は午前十時から午後四時まで、王宮の東翼で行われております。昼食も会議室でとられ、コーデリア様が東翼から出られたのは、閉会後、ご自宅へお帰りになるときだけです」
私は、はっと息を呑んだ。
(そうだわ。あの日は、孤児院の冬支度の予算を話し合って……)
「発言記録は、私自身が取っております。コーデリア様は、その日、十一回ご発言なさいました。最初のご発言は午前十時十四分、『孤児院の毛布は、数よりも厚みを優先していただけませんか』です」
大広間のあちこちから、小さなどよめきが上がった。
「……そんなもの、日付の覚え違いだ」
殿下の声が、わずかに上ずる。
「では、ミュリエル嬢がひと月杖をついていらしたという件について。王立学院は王宮の管轄ですので、学院の行事記録も書記局が保管しております。三月の学院記録には、ミュリエル嬢が三月十五日の春の舞踏練習に出席し、三曲踊られたことが記されております」
「っ……」
ミュリエル嬢の肩が、びくりと跳ねた。
「次に、五月二十日。図書館で教科書を破り捨てた件です」
イザーク様は、今度は証人の一人、ベアトリス嬢へと目を向けた。
「ベアトリス嬢は、それを図書館でご覧になったとおっしゃいました」
「え、ええ……確かに、この目で……」
「五月二十日、学院の図書館は、年に一度の書架整理のため終日閉館しておりました。扉には鍵がかけられ、司書の方以外は立ち入っておりません。閉館の告知も、整理の作業記録も残っております」
ベアトリス嬢の顔から、さっと血の気が引いた。
「そ、それは……日付を、少し間違えたのかもしれませんわ。五月の、別の日に……」
「さようでございますか。では先ほどのお言葉と、今のお言葉、両方を記録いたします」
イザーク様は羽根ペンを取り、さらさらと帳面に書きつけた。
その音が、静まり返った大広間にやけに大きく響く。
(記録、されている)
ベアトリス嬢が口元を押さえて後ずさる。もう一人の証人、ヘレーネ嬢は、顔を真っ青にして俯いていた。
「最後に、夏の茶会の件です」
イザーク様は帳面のページを数枚めくった。
「七月八日、王妃殿下の夏の茶会。私は記録係として出席しておりました。茶会の席次表はこちらに写しがございます」
帳面の一ページを、周囲に見えるように掲げる。
「コーデリア様は、王妃殿下と同じ第一卓。ミュリエル嬢は、庭園の端、第九卓でございます。お二人が同じ卓につかれたことは一度もなく、茶会の間、コーデリア様が第一卓をお離れになったこともございません」
「で、でも、わたくしは近くの席で、確かに……」
ヘレーネ嬢が震える声で言いかける。
「ヘレーネ嬢のお席は、第七卓でした。第一卓からは、植え込みを挟んで二十歩ほど離れております」
ヘレーネ嬢は、それきり口をつぐんだ。
「それから、もう一点」
イザーク様は、少しだけ声の調子を落とした。
「その茶会で、コーデリア様がミュリエル嬢について口にされたお言葉は、一度だけです。午後二時四十分、給仕の者に向かって」
帳面に目を落とし、彼は読み上げた。
「『ファーロウ嬢のお席、日が当たりすぎていないかしら。日除けを立ててさしあげて』」
しん、と大広間が静まり返った。
私自身、すっかり忘れていた言葉だった。
あの日は日差しが強くて、庭園の端の席が気になって、何気なく給仕に頼んだのだ。それが誰の席かも、深くは考えずに。
周囲の視線が、変わっていく。
私に向けられていた冷たい目が、ゆっくりと、殿下とミュリエル嬢のほうへ移っていくのがわかった。
「……いい加減にしろ!」
殿下の怒鳴り声が、大広間に響いた。
「記録係ごときが、王族に口答えをするつもりか! お前の帳面がなんだ。そんなもの、いくらでも書き換えられるだろう!」
顔を真っ赤にして、殿下はイザーク様に詰め寄る。
けれどイザーク様は、一歩も引かなかった。
「書記局の記録は、毎夜、二名の上級書記官が照合し、封をして保管いたします。書き換えは、できません」
「黙れ! 証拠など、どうとでも――」
「では」
イザーク様は、静かに帳面をめくった。
これまでよりずっと新しいページ。インクの色が、まだ濃い。
「本夜会の記録を、読み上げさせていただきます」
「……は?」
「午後八時十二分。大広間東側、壁際にて。エドガー殿下とミュリエル・ファーロウ嬢のご会話です。殿下が公の場でなさったご発言ですので、慣例に従い、記録しております」
殿下の顔から、表情が抜け落ちた。
ミュリエル嬢が、ぱっと殿下の袖をつかむ。
(午後八時十二分……私が来る、少し前)
殿下とミュリエル嬢は、私より先に王宮に着いていたのだろう。正式な入場の前、まだ人の少ない大広間の壁際で、二人きりで話していたのだ。
すぐそばに、記録係がいることにも気づかずに。
イザーク様は、抑揚のない声で読み上げはじめた。
「ミュリエル嬢。『殿下、本当に今夜、言ってくださるのですね?』」
「エドガー殿下。『ああ、今夜で終わりだ。あの女の澄ました顔が崩れるのが楽しみだな』」
「ミュリエル嬢。『証言は、ベアトリスとヘレーネに頼んであります。お礼は、殿下が約束してくださった子爵家とのご縁談で』」
「やめろ……」
殿下が、かすれた声で呟く。
イザーク様は、止まらなかった。
「エドガー殿下。『日付など誰も覚えていない。王子の私が言えば、それが事実になる』」
「ミュリエル嬢。『でも、ここで話していて大丈夫ですの?』」
「エドガー殿下。『どうせ記録係しかいない。あれは壁の燭台と同じだ』」
読み上げが終わった。
大広間には、誰の声もなかった。
楽団員たちは楽器を抱えたまま固まり、給仕は盆を持ったまま立ち尽くしている。
ベアトリス嬢とヘレーネ嬢が、その場にへたりこんだ。
「ち、違いますわ……!」
ミュリエル嬢が、甲高い声を上げた。
「わたくし、そんなこと言っていません! その書記官が、勝手に作ったのよ! ねえ、殿下、そうでしょう!?」
すがりつかれた殿下は、何も答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
自分の口から出た言葉を、その言葉のとおりに読み上げられたのだ。言い訳の余地など、どこにもない。
「……燭台、か」
その声は、大広間の奥から聞こえた。
人垣が、さっと二つに割れる。
その間をゆっくりと歩いてきたのは、深い紫の礼装をまとった壮年の男性。
国王陛下だった。
居合わせた全員が、慌てて膝を折る。私も深く頭を下げた。
「乾杯の挨拶に来てみれば、ずいぶんと面白い余興をしているではないか、エドガー」
「ち、父上……これは、その……」
「書記局の記録は、王宮の記憶だ」
陛下は、殿下の言葉を遮って言った。
「王族の言葉は、王族の言葉であるがゆえに、消すことはできぬ。だからこそ我らは、口にする言葉に責任を持たねばならん。お前にも、幼い頃から教えてきたはずだがな」
殿下は唇を噛み、俯いた。
「エドガー。お前から王位継承権を剥奪する。沙汰があるまで、北の離宮で謹慎せよ。ラングレー伯爵家との婚約は、王家の有責として解消する」
「そんな……父上!」
「それから、ファーロウ男爵令嬢」
陛下の目が、ミュリエル嬢へ向けられた。
「虚偽の訴えで伯爵家の令嬢を貶め、王族の公の発言を偽りで満たした。証人の二人も同様だ。学院の卒業資格は取り消し、それぞれの家には追って沙汰を下す」
ミュリエル嬢は、何か言い返そうとして口を開き、そして力なく閉じた。
あれほど可憐に震えていた肩は、今はただ、小さく強張っているだけだった。
衛兵に促され、殿下とミュリエル嬢、そして二人の証人が大広間から連れ出されていく。
その背中を見送ってから、陛下は私に向き直った。
「ラングレー嬢。愚息が、すまなかった」
「い、いえ……もったいないお言葉です」
国王陛下に頭を下げられ、私は慌ててさらに深く腰を折る。
陛下は、それから壁際へ戻ろうとしていたイザーク様に声をかけた。
「フォーゲル。よく記録してくれた」
「務めでございます、陛下」
「務め、か。フォーゲル侯爵家の嫡男に、書記官の務めをここまで果たされては、王家も形無しだな」
陛下は、どこか愉快そうに笑った。
(……侯爵家の、嫡男?)
大広間に、新たなどよめきが広がった。
夜会が再開されても、私はとても大広間にいる気になれなかった。
好奇の視線から逃れるように、私は大広間に面したバルコニーへ出た。夜風が火照った頬に心地いい。
手すりにもたれて息をつくと、背後で静かな足音がした。
「お一人で、大丈夫ですか」
振り返ると、イザーク様が立っていた。帳面は、もう抱えていない。
「イザーク様。……あの、先ほどは本当に、ありがとうございました」
私は姿勢を正して、深く頭を下げた。
「あなたがいらっしゃらなかったら、私はきっと、何も言えないまま罪を着せられていました」
「私は、記録を読んだだけです」
「その記録が、私を救ってくださったのです」
顔を上げると、イザーク様は少し困ったように眼鏡に手をやった。
「それに……侯爵家のご嫡男でいらしたなんて。存じ上げず、失礼を」
「お気になさらず。知っている者はほとんどおりません。社交の場には一切出ず、書記局では家名ではなく記録で信用されたかったものですから」
彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それに、壁際にいれば、誰にも気づかれずに済みます」
(燭台と同じ、と言われても……)
あの言葉を、彼は帳面に書き留めながら、どんな気持ちで聞いていたのだろう。
そう思った瞬間、夜風が強く吹いた。
イザーク様の上着の懐から、何かがぱさりと落ちる。
「あ」
足元に落ちたのは、手のひらほどの小さな帳面だった。
公務の帳面とは違う、使い込まれた革の表紙。私は反射的に拾い上げた。
落ちた拍子に開いたページが、目に入る。
『第百二十七項 三月十二日 王宮東翼、慈善会議にて
「孤児院の毛布は、数よりも厚みを優先していただけませんか」
※この日も、ご自分の昼食はほとんど召し上がらなかった』
「……え?」
ページをめくる。
『第百二十八項 三月十二日 同日、閉会後の回廊にて
「毎回、同じ方が記録してくださるので安心します」
※侍女の方へのお言葉。私のことだった』
さらにめくる。
『第百五十二項 七月八日 夏の茶会
「ファーロウ嬢のお席、日が当たりすぎていないかしら」
※ご自身の卓も日差しが強いのに、気になさらない』
並んでいるのは、全部、私の言葉だった。
日付と場所と、私が口にした一言。そして、その横に添えられた小さな覚え書き。
ページの最後は、今日の日付になっていた。
『第二百十四項 本日 大広間
「……いいえ。申し上げることは――」
※続きを、言わせてはならないと思った』
「あの……イザーク様。これは」
顔を上げると、イザーク様はまったく悪びれた様子もなく、穏やかに微笑んでいた。
「私の、私的な記録です」
「私的な……」
「はい。公務の記録とは別に、六年前から。あなたが私にかけてくださったお言葉と、あなたが私の前で口にされたお言葉だけを、書き留めております」
(ろ、六年前から……?)
思わず、帳面を持つ手に力が入った。
「……少し、その……重い、ですわね?」
「自覚はございます」
即答だった。
「ですが、一言も聞き逃したくなかったのです」
イザーク様は、私の手の中の帳面に指を伸ばし、最初のページを開いてみせた。
古いインクで、少し震えた文字が記されている。
『第一項 六年前、春 王宮西翼、記録保管室前
「あなたが書いてくださるなら、今日私が言ったことも、消えずに済むのですね」』
「覚えていらっしゃいませんか」
私は、その一文を見つめた。
(六年前の、春)
殿下との婚約が、正式に結ばれた日だ。
十二歳だった私は、婚約の席で精一杯の言葉を考えて、殿下に伝えた。立派な伴侶になれるよう努めます、と。
けれど殿下は窓の外ばかり見ていて、大人たちも、子どもの挨拶など誰も聞いていなかった。
席を外して回廊の隅で泣きそうになっていたとき、書類を抱えた見習いの少年とぶつかったのだ。
散らばった紙を一緒に拾ったら、そこに私の名前が書いてあった。今日の婚約の席の、記録だった。
「……あのときの、見習いの方」
「はい」
イザーク様は、ゆっくりと頷いた。
「当時の私は、書記局で一番の下っ端でした。侯爵家の名を伏せていたので、誰にも相手にされず、記録など誰も読まないと、毎日のように言われていました」
彼は、帳面の最初の一行を指先でなぞる。
「そんなとき、あなたは私の書いた記録を拾い上げて、そうおっしゃったのです。誰も聞いていなかったあなたの言葉を、私だけが書き留めていた。そして、あなたはそれを喜んでくださった」
「……」
「あの日から、私はあなたの言葉を一つも取りこぼさないと決めました」
イザーク様は、まっすぐに私を見た。
「本来なら、記録係の私的な想いなど、口にすべきではありません。ですが今夜、婚約は解消されました。……ですから、記録係としてではなく、イザーク・フォーゲルとして申し上げます」
彼は、その場に片膝をついた。
「コーデリア・ラングレー嬢。どうか、私と結婚していただけませんか」
夜風が、止まった気がした。
「あなたの言葉を、これからも一番近くで聞かせてください。あなたが言ったことは、どんな小さな一言でも、私が全部覚えています。もう二度と、誰にも聞き流させはしません」
(……やっぱり、少し重いわ)
でも、不思議と嫌ではなかった。
六年間、誰にも届かないと思っていた私の言葉を、たった一人、全部拾い集めてくれていた人がいたのだ。
壁際で、ずっと。
思い返せば、王宮の行事で心細くなったとき、ふと壁際に目をやると、いつも同じ灰色の官服があった。目が合ったことは、ほとんどない。けれど彼は、私が話しているときだけ、ペンを動かしながら静かに顔を上げていた気がする。
燭台と同じだなんて、とんでもない。
あの場所から、彼はずっと、私の声を拾い続けてくれていたのだ。
私は帳面を胸に抱えて、小さく息を吸った。
「……はい」
イザーク様の目が、わずかに見開かれる。
それから彼は、これまで見たどんな表情よりも柔らかく、微笑んだ。
「ありがとうございます。それで、コーデリア嬢」
「はい?」
「今のお返事も、記録してよろしいですか」
思わず、ふふっと笑ってしまった。
「公式の帳面ではなく、そちらの帳面になら」
「もちろんです。最初から、そのつもりでした」
そう言って、イザーク様は私の手から帳面を受け取り、大事そうに懐へしまった。
その夜、王宮書記局の私室で、イザーク・フォーゲルは小さな帳面を開いた。
机の上の燭台が、静かに揺れている。
燭台と同じだ、と言われた。
事実、その通りだったと思う。六年間、自分は壁際の燭台のように、ただそこにいて、彼女を照らすこともできずに見ていただけだった。
王子の隣で、言葉を飲みこむ彼女を見ていた。
慈善会議で、誰よりも子どもたちのことを考えて話す彼女を見ていた。
誰にも聞かれない「ありがとう」を、給仕や侍女や、見習いの書記官にまで、きちんと口にする彼女を見ていた。
そのすべてを、書き留めてきた。
彼女の言葉が、消えずに済むように。
帳面をめくれば、六年分の彼女がそこにいる。
十二歳の春、涙をこらえながら記録を拾い上げてくれた少女。十四歳の冬、慈善会議で初めて自分の意見を口にし、声を震わせていた少女。十六歳の夏、王子に贈り物を突き返されても、侍女に「ごめんなさいね、せっかく包んでもらったのに」と謝っていた少女。
どの一行も、彼にとっては公式の記録よりずっと重い。
王子の婚約者である彼女に、想いを告げるつもりはなかった。ただ、彼女の言葉が誰にも聞かれないまま消えていくのが、どうしても我慢ならなかっただけだ。
だから書いた。誰に読ませるつもりもなく、ただ、ここに残しておくために。
今夜、彼女が「申し上げることは」と言いかけて目を伏せたとき、ペンを置いて前へ出たのは、記録係としての判断ではなかった。
あの続きを、彼女に言わせたくなかった。
六年前、誰にも聞いてもらえなかった少女に、二度と自分の言葉を飲みこませたくなかったのだ。
(……我ながら、重いな)
苦笑して、イザークはインク壺にペン先を浸した。
新しいページに、丁寧に文字を記していく。
『第二百十五項 本日 大広間バルコニーにて
「……はい」
※少し笑っておられた。六年間で、いちばん良いお声』
書き終えて、少し考えてから、その下にもう一行を加えた。
『以後、この帳面は二人分の記録とする』
インクが乾くのを待って、イザークはそっと帳面を閉じた。
明日から、壁際に立つ必要はもうない。
彼女の隣で、彼女の言葉を聞けるのだから。
(完)
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