『私を後回しにしたあなたを、今度は私が人生から外します。』
『私を後回しにしたあなたを、今度は私が人生から外します。』
結婚して十二年、真紀は夫の修司から何度も「今度」を渡されてきた。結婚記念日の食事は義母の買い物に付き添うため来週へ回され、真紀の誕生日旅行は義妹の娘の発表会があるから翌年へ延ばされた。熱を出して寝込んだ夜でさえ、修司は義妹から電球を交換してほしいと頼まれると、真紀の枕元へ水の入ったペットボトルを一本置いただけで出かけていった。
「母さんも梨奈も、俺がいないと困るんだ。お前はしっかりしているんだから、一人でも大丈夫だろ」
その言葉を聞くたび、真紀は冷めたお粥を一人で食べ、次の日には何事もなかったように仕事へ向かった。修司が経営する内装会社で、真紀は一級建築士として設計を担当しながら、資金繰り、取引先との交渉、職人の手配まで引き受けていた。会社を作ったときに資本金を出したのも、担保として亡父から相続したビルを提供したのも真紀だったが、修司は客の前でいつも、自分が裸一貫から会社を育てたと語っていた。
十二回目の結婚記念日、真紀は二人分のビーフシチューを温め直しながら、午後九時を過ぎても帰らない夫を待っていた。テーブルには修司の好きな赤ワインと、小さなケーキが置かれていたが、生クリームは少しずつ形を失っていた。午後九時半、ようやく鳴った電話は修司からではなく、父が入居している高齢者住宅からだった。
「お父様が浴室で倒れ、救急搬送されました。意識がありません」
真紀は火を止め、上着をつかむと修司へ電話をかけた。三度目で出た修司の背後から、子どもたちの笑い声と拍手が聞こえた。義妹の梨奈が離婚成立を祝うホームパーティーを開き、修司も参加していたのだ。
「お父さんが倒れたの。車で病院まで送って。お願い」
「今は無理だよ。梨奈がようやく元気になったところなんだ。途中で抜けたら水を差すだろ」
「意識がないのよ」
「救急車で運ばれたなら医者がいるじゃないか。真紀が五分や十分早く着いたって何も変わらないだろ。それに、お義父さんより今は梨奈のほうが大変なんだ」
電話の向こうで、義母が「真紀さんは大げさね」と笑った。修司も小さく笑い、明日の朝には病院へ顔を出すからと言って電話を切った。真紀は暗くなった画面を数秒見つめたあと、タクシーを呼び、テーブルのケーキを箱ごとごみ袋へ入れた。
父は緊急手術を受け、一命を取り留めた。しかし右半身に麻痺が残り、以前のように話すことは難しくなった。手術室の前で夜を明かした真紀のもとへ修司が来たのは、翌日の午前十一時だった。
「助かったんだからよかったじゃないか。梨奈だって昨日は久しぶりに笑ったんだ。俺の判断は間違っていなかったよ」
修司が差し出したコンビニのコーヒーを、真紀は受け取らなかった。父の病室へ戻ると、震える手でスマートフォンを操作し、会社の顧問弁護士へ連絡を入れた。その日から真紀は、もう修司に予定を尋ねず、食事を残さず、帰宅時間も気にしなくなった。
三か月後、修司は会社の応接室で上機嫌に新年度の方針を語っていた。義妹の梨奈を役員待遇で採用し、義母が選んだ高級車を社用車として購入するつもりらしい。真紀は役員と主要取引先がそろったのを確認すると、封筒を三通、修司の前へ並べた。
「何だ、これ」
「臨時株主総会の決議書、取締役解任通知、それから離婚届です」
修司は冗談だと思ったらしく、口元だけで笑った。だが決議書に並んだ印鑑を見て、頬を引きつらせた。会社の株式は、創業時に資本金を出した真紀が六十パーセントを保有している。修司が自由に使ってきた会社も、社長という肩書も、妻だから黙って支えてくれる真紀がいて初めて成り立っていた。
「俺を社長から外す? 会社は俺が大きくしたんだぞ」
「この半年で、あなたは会社のお金を使って梨奈さんの家賃、姪の習い事、義母さんとの旅行代まで支払っています。すべて帳簿に残っています。私が止めなければ、業務上横領として告訴される金額です」
「家族を助けただけだ!」
「会社のお金は、あなたの家族のお財布ではありません」
修司は取引先へ助けを求めるように顔を向けた。しかし誰も目を合わせなかった。修司が接待と称して酒を飲んでいる間、設計変更に対応し、納期を守り、現場の苦情を収めてきたのは真紀だった。主要取引先三社はすでに、新社長となる真紀との契約継続を決めていた。
「夫婦喧嘩を会社へ持ち込むな。帰ってから話し合えばいいだろ」
「これは夫婦喧嘩ではありません。経営能力のない代表を解任する、会社としての判断です」
「じゃあ俺はどうなるんだ。住宅ローンも梨奈の生活費も、母さんの車もあるんだぞ」
「梨奈さんもお義母さんも、あなたがいないと困るのでしょう。これからは存分に支えてあげてください」
真紀が席を立つと、修司は初めて余裕を失い、その腕をつかもうとした。弁護士が間へ入り、接触しないよう警告する。修司は青ざめた顔で離婚届を握りしめ、今までのことは謝る、これからは真紀を一番にすると繰り返した。
「結婚記念日も誕生日も、私が病気の夜も、父が倒れた夜も、あなたは私に待てと言いました。自分の家族を大切にする優しい男のつもりだったのでしょう。でも、あなたにとって私は、何度後回しにしても逃げない便利な人間だった」
「違う。真紀は強いから、甘えていただけだ」
「強い人間なら、何をされても傷つかないと思っていたのですか」
修司は答えられなかった。真紀は十二年間、言いたくても飲み込んできた言葉を、穏やかな声で告げた。
「私を後回しにしたあなたを、今度は私が人生から外します」
離婚成立後、修司は会社へ使い込んだ金を返すため、自宅と高級車を売却した。役員になれると思って仕事を辞めていた梨奈は、生活費を出せない修司を役立たずと罵り、義母も狭い賃貸住宅へ移ることになった。二人から毎日のように届く金の無心に、修司はようやく、誰かを支え続けることがどれほど重いかを知った。
真紀は会社の近くに父が車椅子で暮らせる部屋を借り、週に二度、一緒に夕食を取るようになった。ある晩、父は動かしにくい左手で、小さなケーキを真紀の前へ押した。箱には不格好な文字で「社長就任おめでとう」と書かれていた。
「ありがとう、お父さん。今度はちゃんと、私の人生を大事にするね」
窓の外では、完成したばかりの新しい社屋に明かりがともっていた。真紀は誰かが来るかもしれないと料理を余分に作ることも、鳴らない電話を待つこともなかった。自分のために淹れた紅茶は、最後の一口まで温かかった。




