【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜
手取り二十二万の俺が異世界転移したら【二度揚げの神】だった ~この国の飯は茹でるだけか。ならば銀貨三枚で、世界を変えてみせる~ ep1
数ある作品の中から、本作を見つけていただきありがとうございます。
最近、とんかつ定食……高くないですか?
昔は千円札一枚で「ふぅ、食った食った」と店を出られたはずなのに、今やメニューを見て「……おっ」と二の足を踏んでしまう。そんな世知辛い現代日本の切実な「飢え」を、異世界で盛大に爆発させてみました。
胃もたれ注意。
空腹時の読書は、もっと注意。
黄金色に輝く、揚げたての物語。
どうぞ、召し上がれ!
「嘘だろ、先生。あなた一人じゃ、もう『ロースかつ定食』の衣の端っこすら買えないのか」
馴染みのとんかつ専門店『揚乃屋』の軒先。俺は崩れ落ちそうになった。手元の千円札一枚、北里栄三郎先生が、あまりの無力さに泣いている。数年前ならお釣りでコーヒーが飲めたはずの千円が、今や『二、八〇〇円』という品書きの前で完全に敗北していた。
手取り二十二万。三十四歳の佐藤揚太郎。
初めて自分で稼いだ給料日、俺は迷わずとんかつ定食を食べた。それまでの人生で一番高い昼飯。たった千円だったが、あの一枚が今まで食べた何よりもうまかった。腹が満たされると同時に、何か大事なものが胸の中に収まった。自分の金で、自分が食いたいものを食う。それだけのことが、あんなに人間を満たすとは思っていなかった。
それ以来、週に一度のとんかつ定食が俺の生命線になった。どれだけクズみたいな営業を回らされても、どれだけ上司に詰められても、週末にあの衣の音を聞けば、また月曜日が来ても死なずに済んだ。
とんかつは俺にとって、飯じゃない。生きていく理由だった。
その生きていく理由が、今、二、八〇〇円という品書きの前で完全に敗北している。
逃げるように店を離れ、スーパーの棚の前へ。半額シールの貼られたロース肉を手に取った瞬間だった。隣の棚に『半額パン粉』が一袋残っていた。今夜は自分で揚げる。店で食えないなら、家で揚げればいい。それが俺の矜持だった。パン粉を握りしめた瞬間、袋が太陽のごとき黄金の光を放ち、俺の意識はパン粉色の濁流に飲み込まれていく。
『揚げろ! 揚げて、世界を救うのだぁぁ!』
◇
気がつくと、見知らぬ石畳の路地に立っていた。
「あ゛ー……どこだここ……」
我ながら間抜けな第一声。
ただ、笑えなかった。
石畳の質感が、知っている石畳じゃない。空気が違う。湿度が違う。夕暮れの色が、日本のそれより少しだけ濃くて、オレンジというより琥珀に近い。どこかの厨房から漂ってくる匂いは、茹でた肉と塩だけだ。揚げ油の匂いが、どこにもしない。
手の中のパン粉の袋だけが、さっきまでの俺と繋がっている唯一のもの。
「転移者ね」
冷たい声がした。
振り返ると、二人いた。一人は深い栗色の髪を耳上で切り揃えた、涼やかな目元の女だ。魔術師の証である細い紋章が、首筋から鎖骨にかけて薄く刻まれている。指先に薄く魔力を纏わせたまま、こちらを観察していた。もう一人は厳つい体格の騎士。剣の柄に手をかけている。
女が三秒、俺を見た。値踏みというより、検分だ。
「武器なし。魔力なし。戦意なし」
ひとりごとのように言って、小さく息をついた。
「騎士団長、王宮に連行してください。転移者の処理手順に従って」
「あの」
踵を返しかけた女が、わずかに止まった。
「なんですか」
「この辺、美味しいもの、ありますか」
沈黙。
女は振り返らなかった。ただ、一拍置いてから言った。
「……連行してください」
◇
王宮の一室で身元確認を終えた後、石造りの椅子に座って窓の外を眺めた。街の夕暮れが石畳をオレンジに染めている。どこからか、茹でた肉と塩の匂いがずっと漂ってくる。
「この国の料理は、茹でる、煮る、蒸すだけですか」
書類に目を落としていた女、エルザが、ペンを止めた。
「何が言いたいんですか」
「さっきから匂いがずっと同じなんです。素材を直接火で焼いたり、油で揚げたりする匂いがしない。この国には、そういう調理法がないのかなって」
「この国の料理は大陸最高水準です」
「美味しいんだと思います。ただ」
窓の外を見たまま言った。
「もったいないな、と」
ペンが、書類の上に置かれる音。
「案内しましょう」
エルザの声は、さっきより低かった。
「この国で一番格式のある料理店に。あなたが言うもったいないとやらが、いかに的外れな感想かを、理解してもらうために」
「おごりですか」
「転移者の保護費用として王宮が負担します」
「やった」
その返事が癪に障ったのか、エルザは無言で立ち上がった。
◇
店の名は『翠冠亭』。予約三ヶ月待ち。給仕の所作から食器の輝きまで、この国の食文化の頂点がここにある。
コース料理が運ばれるたびに、俺は真剣な顔で食べた。
一皿目、聖炎猪の薄切り塩蒸し。
「……うん」
二皿目、黄金魚の香草水煮。
「……うん」
向かいでエルザが、その「うん」の意味を測りかねている気配がした。
だがエルザ自身も、気づいていないわけではなかった。この店に来るたびに、いつも同じ感覚がある。料理は完璧だ。素材も、火入れも、盛り付けも。何一つ文句のつけようがない。なのに食べ終わった後、どこかに小さな空白が残る。満腹なのに、何かが満たされていない。その感覚。それが何なのか、エルザにはずっとわからなかった。
「どうですか」
「美味しいです」
「そうでしょう」
「ただ」
ナイフを置いて、少し考えてから言った。
「全部、素材の良さで勝負してるんですよね。料理人の技術も確かにすごい。でもこの肉」
聖炎猪の薄切りを、もう一度見た。
「衣をつけて油で揚げたら、絶対にうまい」
エルザの眉が、ぴくりと動いた。
「この国最高の料理人が丹精込めた一皿を前に、揚げたら、と言いましたか」
「言いました。こんなに質のいい肉、揚げたら絶対うまいです」
沈黙が、テーブルの上に落ちた。
エルザは何も言わなかった。ただ、胸の奥の空白が、この男の言葉に反応して、かすかに疼いた。
「……明日、王宮の厨房を使わせてあげます」
売り言葉だった。だが本当にそれだけだったのか、エルザ自身にもわからなかった。
「本当に?」
「エルザ・フォン・ヴァイゼンベルクは嘘をつきません」
俺は少し笑った。
「じゃあ、明日が楽しみです」
◇
翌朝、王宮の厨房に貴族が五人いた。
エルザが昨夜のうちに触れを回したらしい。騎士団長が「閣下が珍しく自慢げだったので」と小声で教えてくれた。
厨房の料理人たちは壁際に退いて、こちらを見ている。興味と、どこか説明のつかない緊張が混ざった顔。
俺はまず、異世界転移の際に一緒に来ていた荷物を確認した。半額パン粉。それだけだ。あとは向こうから来る。
スキル【聖域の揚げ壺】を発動する。
重厚な銅鍋が、空気の中から現れた。表面に刻まれた紋様が、淡く金色に輝いている。料理人の一人が小さく悲鳴を上げて後ずさった。
次に三種の神器を取り出す。
一つ目、天使の露草。
包丁を入れた瞬間、みずみずしい香りが厨房に広がった。薄く、細く、糸のように揃えて切る。それだけだ。なのに卓上に盛った瞬間、最前列に座っていた伯爵夫人が思わず身を乗り出した。
「……なんですの、この香り。野菜から、こんな匂いが出るものなの」
誰も答えない。答えられる者がいない。この国では野菜は茹でるもの。生のまま切って皿に盛るという発想が、そもそもなかった。
二つ目、魔封岩塩。
ひとつまみ、肉に振る。青白い光の粒が、肉の表面でさっと溶けた。
エルザの目が細くなった。魔術師としての本能が何かを感知したのか、唇を真一文字に結んだまま、その手元から目を離せなくなっていた。
まず油だ。
銅鍋に、静かに注ぐ。
その瞬間、厨房の空気が変わった。変わった、というより、止まった。料理人たちの足が、示し合わせたように動かなくなる。近づけないのではない。近づいてはいけない。生まれた時からそこにある、名前のない禁忌。
理由は、誰も知らない。
エルザだけが、一歩前に出た。
筋を切ってリラックスさせた肉に、粉をはたく。卵液をくぐらせ、【無限生パン粉】で包み込む。
「パン粉は繊維じゃない。愛の毛布なんだよ」
温度は百六十度。
肉を、静かに沈める。
(ジュワァァァ……ゴボゴボゴボ……)
低い。重い。潜り込むような音。油と肉が、初めて言葉を交わす瞬間だ。焦らない。急かさない。ただ、耳を澄ます。
やがて音が落ち着いてくる。
(ポポポポ……ボコボコ……)
泡が細かくなる。水分が抜けていく証拠だ。肉がゆっくりと、自分の輪郭を決めていく。
貴族席が、しん、と静まり返った。
あの饒舌だった伯爵が、口を半開きにしたまま固まっている。その隣では夫人が目を閉じて、ただ鼻から息を吸っていた。奥の席の細面の侯爵だけが、腕を組んだまま背を向けていた。認めたくないのか、怖いのか、それとも両方か。ただその背中が、香りに負けてじわじわと、こちらに向き直っていくのが見えた。
誰も喋らない。
この厨房に、今まで存在したことのない何かが、満ちていた。
一度引き上げる。
静寂。
余熱が仕事をする時間だ。肉汁が落ち着き、衣が呼吸を整え、細胞の隅々まで熱が行き渡る。この沈黙がとんかつの肝だ。
日本にいた頃、千円のかつ定食を食べるためだけに三時間残業した夜がある。あの味が正解だった。あの値段で、あの幸せが手に入った。文句があるか。それの、何が悪いんだ。。
先生、と心の中で呼びかけた。北里栄三郎先生。俺が最後まで食えなかった、二、八〇〇円のロースかつ定食。あんたの顔が泣いていたのは、俺が情けなかったからじゃない。あんたを連れてこられなかったのが、悔しかっただけだ。
いつか、必ず。銀貨三枚で、あの味を超えてみせる。
そして三つ目の神器、魔界黄金辛子。
これが決め手だ。迷わない。辛子を溶いた瞬間、鼻の奥を刺す青い香りが走る。この刺激が、とんかつを料理から体験に変える。
手をかざす。転移の瞬間に刻まれたスキルが呼び起こす、果実と香辛料の気配が手のひらに集まった。どこからともなく『福音のソース』の壺が現れる。ソースはすでに完成している。俺が作ったわけじゃない。ただ、俺にしか呼び出せない。転移した日から、この壺はずっと俺を待っていた。
温度を百八十度まで引き上げる。
行くぞ。
(ジュワァァァ……バチバチバチ……!)
さっきとは、全然違う。激しい。鋭い。高温が衣を一気に叩き固める音だ。
やがて、音が変わる。
(ピチピチピチ……プツプツ……)
静かになっていく。水分が抜けきった証拠。この音が聞こえたら、答えが出た合図だ。
引き上げる。
黄金色の衣が、静かに湯気を上げている。
(一ーザグウゥゥゥウッッッ!!!!)
断面から、神の吐息のような湯気。薄ピンクの肉が肉汁を湛えて、誇らしげに鎮座した。
「まず岩塩だけで。一口目は塩だけで食べてください」
エルザがそれを口に運んだ瞬間、咀嚼が止まった。
二口目はなかった。フォークを置いて、ただ前を向く。その横顔を、騎士団長が恐る恐る覗き込んだ。
頬を、一筋の涙が伝っていた。
「……お母様の、作った料理と、同じ匂いがします」
誰も笑わなかった。
その理由を、エルザは知っている。
「揚太郎」
立ち上がった。声が震えている。それでも背筋だけは、折れていなかった。
「王宮直属の料理人になりなさい。腕と待遇、この国で最高のものを用意します」
首を振った。
「惜しいですが、お断りします。俺、高い店は肌に合わないんで」
「……意味がわかっていますか。王宮直属の料理人など、大陸中を探しても指で数えるほどしかいない」
エルザが目を丸くするのを横目に、窓の外を見た。仕事を終えて家路を急ぐ平民たちが歩く、薄明い市場。
「俺がなりたいのはとんかつの王です。ただ、王座は王座じゃない。油の跳ねる、カウンターの向こう側だ」
翌朝、市場の片隅に、小さな看板が掲げられた。
『とんかつ専門店・揚太郎』 ロースかつ定食:銀貨三枚
風が、看板を静かに揺らした。
先生、聞こえますか。俺は今、この世界で一番価値のある『銀貨三枚の革命』を、カラッと揚げ始めたところです。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「銀貨三枚」。
それは揚太郎にとって、ただの代金ではなく、かつての自分のような「頑張る誰か」が手の届く、聖域の価格でした。
もし、揚太郎の「二度揚げ」の音に少しでもお腹が空いた、あるいは「明日とんかつ食べに行こうかな」と思っていただけましたら、
ぜひ下の【☆☆☆☆☆】から評価【★★★★★】やブクマをいただけると、執筆のサックサク度が3倍になります!
今後とも、佐藤揚太郎と作者をよろしくお願いいたします!
次は、下町の小さなカウンターでお会いしましょう。
ありがとうございました!
また、短編読み切り小説、『愛のない白い結婚ですので業務報告は日報で提出してください』と言い放った王太子妃、六年分の残業代を請求して実家に帰る。〜前世が過労死秘書だった私、今さら愛を囁かれても定時は過ぎました〜
もよろしくお願いします。
https://ncode.syosetu.com/n1274lz/
さて、こちらの「お腹の空く短編」を楽しんでいただけた方に、ぜひ読んでいただきたい作品があります。
現在、別ジャンルではありますが、重厚なファンタジー長編『理の剥離者』(N5065LX)を連載中です。
こちらは「揚げ物」の音ではなく、世界の理が剥がれ落ちる音が響く、少しシリアスで熱い物語となっております。
もしよろしければ、下の作品リンク、または作品ID(N5065LX)
https://ncode.syosetu.com/n5065lx/
からチェックしてみてください!
皆様のブックマークや評価が、執筆の次なる「とんかつ代」……もとい、創作のエネルギーになります。




