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【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜

手取り二十二万の俺が異世界転移したら【二度揚げの神】だった  ~この国の飯は茹でるだけか。ならば銀貨三枚で、世界を変えてみせる~ ep1

掲載日:2026/03/27

数ある作品の中から、本作を見つけていただきありがとうございます。


最近、とんかつ定食……高くないですか?

昔は千円札一枚で「ふぅ、食った食った」と店を出られたはずなのに、今やメニューを見て「……おっ」と二の足を踏んでしまう。そんな世知辛い現代日本の切実な「飢え」を、異世界で盛大に爆発させてみました。


胃もたれ注意。

空腹時の読書は、もっと注意。

黄金色に輝く、揚げたての物語。

どうぞ、召し上がれ!

「嘘だろ、先生。あなた一人じゃ、もう『ロースかつ定食』の衣の端っこすら買えないのか」

 馴染みのとんかつ専門店『揚乃屋』の軒先。俺は崩れ落ちそうになった。手元の千円札一枚、北里栄三郎先生が、あまりの無力さに泣いている。数年前ならお釣りでコーヒーが飲めたはずの千円が、今や『二、八〇〇円』という品書きの前で完全に敗北していた。


 手取り二十二万。三十四歳の佐藤揚太郎。

 初めて自分で稼いだ給料日、俺は迷わずとんかつ定食を食べた。それまでの人生で一番高い昼飯。たった千円だったが、あの一枚が今まで食べた何よりもうまかった。腹が満たされると同時に、何か大事なものが胸の中に収まった。自分の金で、自分が食いたいものを食う。それだけのことが、あんなに人間を満たすとは思っていなかった。


 それ以来、週に一度のとんかつ定食が俺の生命線になった。どれだけクズみたいな営業を回らされても、どれだけ上司に詰められても、週末にあの衣の音を聞けば、また月曜日が来ても死なずに済んだ。

 とんかつは俺にとって、飯じゃない。生きていく理由だった。

 その生きていく理由が、今、二、八〇〇円という品書きの前で完全に敗北している。


 逃げるように店を離れ、スーパーの棚の前へ。半額シールの貼られたロース肉を手に取った瞬間だった。隣の棚に『半額パン粉』が一袋残っていた。今夜は自分で揚げる。店で食えないなら、家で揚げればいい。それが俺の矜持だった。パン粉を握りしめた瞬間、袋が太陽のごとき黄金の光を放ち、俺の意識はパン粉色の濁流に飲み込まれていく。

『揚げろ! 揚げて、世界を救うのだぁぁ!』



 気がつくと、見知らぬ石畳の路地に立っていた。


「あ゛ー……どこだここ……」


 我ながら間抜けな第一声。

 ただ、笑えなかった。

 石畳の質感が、知っている石畳じゃない。空気が違う。湿度が違う。夕暮れの色が、日本のそれより少しだけ濃くて、オレンジというより琥珀に近い。どこかの厨房から漂ってくる匂いは、茹でた肉と塩だけだ。揚げ油の匂いが、どこにもしない。

 手の中のパン粉の袋だけが、さっきまでの俺と繋がっている唯一のもの。


「転移者ね」


 冷たい声がした。

 振り返ると、二人いた。一人は深い栗色の髪を耳上で切り揃えた、涼やかな目元の女だ。魔術師の証である細い紋章が、首筋から鎖骨にかけて薄く刻まれている。指先に薄く魔力を纏わせたまま、こちらを観察していた。もう一人は厳つい体格の騎士。剣の柄に手をかけている。

 女が三秒、俺を見た。値踏みというより、検分だ。


「武器なし。魔力なし。戦意なし」

 ひとりごとのように言って、小さく息をついた。


「騎士団長、王宮に連行してください。転移者の処理手順に従って」


「あの」


 踵を返しかけた女が、わずかに止まった。


「なんですか」


「この辺、美味しいもの、ありますか」


 沈黙。


 女は振り返らなかった。ただ、一拍置いてから言った。

「……連行してください」



 王宮の一室で身元確認を終えた後、石造りの椅子に座って窓の外を眺めた。街の夕暮れが石畳をオレンジに染めている。どこからか、茹でた肉と塩の匂いがずっと漂ってくる。


「この国の料理は、茹でる、煮る、蒸すだけですか」


 書類に目を落としていた女、エルザが、ペンを止めた。


「何が言いたいんですか」


「さっきから匂いがずっと同じなんです。素材を直接火で焼いたり、油で揚げたりする匂いがしない。この国には、そういう調理法がないのかなって」


「この国の料理は大陸最高水準です」


「美味しいんだと思います。ただ」


 窓の外を見たまま言った。

「もったいないな、と」


 ペンが、書類の上に置かれる音。

「案内しましょう」


 エルザの声は、さっきより低かった。

「この国で一番格式のある料理店に。あなたが言うもったいないとやらが、いかに的外れな感想かを、理解してもらうために」


「おごりですか」


「転移者の保護費用として王宮が負担します」


「やった」


 その返事が癪に障ったのか、エルザは無言で立ち上がった。



 店の名は『翠冠亭』。予約三ヶ月待ち。給仕の所作から食器の輝きまで、この国の食文化の頂点がここにある。

 コース料理が運ばれるたびに、俺は真剣な顔で食べた。


 一皿目、聖炎猪の薄切り塩蒸し。

「……うん」

 二皿目、黄金魚の香草水煮。

「……うん」


 向かいでエルザが、その「うん」の意味を測りかねている気配がした。

 だがエルザ自身も、気づいていないわけではなかった。この店に来るたびに、いつも同じ感覚がある。料理は完璧だ。素材も、火入れも、盛り付けも。何一つ文句のつけようがない。なのに食べ終わった後、どこかに小さな空白が残る。満腹なのに、何かが満たされていない。その感覚。それが何なのか、エルザにはずっとわからなかった。


「どうですか」


「美味しいです」


「そうでしょう」


「ただ」

 ナイフを置いて、少し考えてから言った。


「全部、素材の良さで勝負してるんですよね。料理人の技術も確かにすごい。でもこの肉」


 聖炎猪の薄切りを、もう一度見た。

「衣をつけて油で揚げたら、絶対にうまい」


 エルザの眉が、ぴくりと動いた。

「この国最高の料理人が丹精込めた一皿を前に、揚げたら、と言いましたか」


「言いました。こんなに質のいい肉、揚げたら絶対うまいです」


 沈黙が、テーブルの上に落ちた。

 エルザは何も言わなかった。ただ、胸の奥の空白が、この男の言葉に反応して、かすかに疼いた。


「……明日、王宮の厨房を使わせてあげます」

 売り言葉だった。だが本当にそれだけだったのか、エルザ自身にもわからなかった。


「本当に?」


「エルザ・フォン・ヴァイゼンベルクは嘘をつきません」


 俺は少し笑った。

「じゃあ、明日が楽しみです」



 翌朝、王宮の厨房に貴族が五人いた。

 エルザが昨夜のうちに触れを回したらしい。騎士団長が「閣下が珍しく自慢げだったので」と小声で教えてくれた。

 厨房の料理人たちは壁際に退いて、こちらを見ている。興味と、どこか説明のつかない緊張が混ざった顔。

 俺はまず、異世界転移の際に一緒に来ていた荷物を確認した。半額パン粉。それだけだ。あとは向こうから来る。

 スキル【聖域の揚げ壺】を発動する。

 重厚な銅鍋が、空気の中から現れた。表面に刻まれた紋様が、淡く金色に輝いている。料理人の一人が小さく悲鳴を上げて後ずさった。


 次に三種の神器を取り出す。

 一つ目、天使の露草(キャベツ)

 包丁を入れた瞬間、みずみずしい香りが厨房に広がった。薄く、細く、糸のように揃えて切る。それだけだ。なのに卓上に盛った瞬間、最前列に座っていた伯爵夫人が思わず身を乗り出した。


「……なんですの、この香り。野菜から、こんな匂いが出るものなの」


 誰も答えない。答えられる者がいない。この国では野菜は茹でるもの。生のまま切って皿に盛るという発想が、そもそもなかった。


 二つ目、魔封岩塩。

 ひとつまみ、肉に振る。青白い光の粒が、肉の表面でさっと溶けた。

 エルザの目が細くなった。魔術師としての本能が何かを感知したのか、唇を真一文字に結んだまま、その手元から目を離せなくなっていた。


 まず油だ。

 銅鍋に、静かに注ぐ。

 その瞬間、厨房の空気が変わった。変わった、というより、止まった。料理人たちの足が、示し合わせたように動かなくなる。近づけないのではない。近づいてはいけない。生まれた時からそこにある、名前のない禁忌。


 理由は、誰も知らない。

 エルザだけが、一歩前に出た。

 筋を切ってリラックスさせた肉に、粉をはたく。卵液をくぐらせ、【無限生パン粉】で包み込む。


「パン粉は繊維じゃない。愛の毛布なんだよ」


 温度は百六十度。

 肉を、静かに沈める。


(ジュワァァァ……ゴボゴボゴボ……)


 低い。重い。潜り込むような音。油と肉が、初めて言葉を交わす瞬間だ。焦らない。急かさない。ただ、耳を澄ます。

 やがて音が落ち着いてくる。


(ポポポポ……ボコボコ……)


 泡が細かくなる。水分が抜けていく証拠だ。肉がゆっくりと、自分の輪郭を決めていく。

 貴族席が、しん、と静まり返った。

 あの饒舌だった伯爵が、口を半開きにしたまま固まっている。その隣では夫人が目を閉じて、ただ鼻から息を吸っていた。奥の席の細面の侯爵だけが、腕を組んだまま背を向けていた。認めたくないのか、怖いのか、それとも両方か。ただその背中が、香りに負けてじわじわと、こちらに向き直っていくのが見えた。

 誰も喋らない。

 この厨房に、今まで存在したことのない何かが、満ちていた。

 一度引き上げる。


 静寂。

 余熱が仕事をする時間だ。肉汁が落ち着き、衣が呼吸を整え、細胞の隅々まで熱が行き渡る。この沈黙がとんかつの肝だ。

 日本にいた頃、千円のかつ定食を食べるためだけに三時間残業した夜がある。あの味が正解だった。あの値段で、あの幸せが手に入った。文句があるか。それの、何が悪いんだ。。

 先生、と心の中で呼びかけた。北里栄三郎先生。俺が最後まで食えなかった、二、八〇〇円のロースかつ定食。あんたの顔が泣いていたのは、俺が情けなかったからじゃない。あんたを連れてこられなかったのが、悔しかっただけだ。

 いつか、必ず。銀貨三枚で、あの味を超えてみせる。


 そして三つ目の神器、魔界黄金辛子(わからし)

 これが決め手だ。迷わない。辛子を溶いた瞬間、鼻の奥を刺す青い香りが走る。この刺激が、とんかつを料理から体験に変える。

 手をかざす。転移の瞬間に刻まれたスキルが呼び起こす、果実と香辛料の気配が手のひらに集まった。どこからともなく『福音のソース』の壺が現れる。ソースはすでに完成している。俺が作ったわけじゃない。ただ、俺にしか呼び出せない。転移した日から、この壺はずっと俺を待っていた。


 温度を百八十度まで引き上げる。

 行くぞ。


(ジュワァァァ……バチバチバチ……!)


 さっきとは、全然違う。激しい。鋭い。高温が衣を一気に叩き固める音だ。

 やがて、音が変わる。


(ピチピチピチ……プツプツ……)


 静かになっていく。水分が抜けきった証拠。この音が聞こえたら、答えが出た合図だ。

 引き上げる。

 黄金色の衣が、静かに湯気を上げている。


(一ーザグウゥゥゥウッッッ!!!!)


 断面から、神の吐息のような湯気。薄ピンクの肉が肉汁を湛えて、誇らしげに鎮座した。


「まず岩塩だけで。一口目は塩だけで食べてください」


 エルザがそれを口に運んだ瞬間、咀嚼が止まった。

 二口目はなかった。フォークを置いて、ただ前を向く。その横顔を、騎士団長が恐る恐る覗き込んだ。

 頬を、一筋の涙が伝っていた。

「……お母様の、作った料理と、同じ匂いがします」


 誰も笑わなかった。

 その理由を、エルザは知っている。


「揚太郎」

 立ち上がった。声が震えている。それでも背筋だけは、折れていなかった。


「王宮直属の料理人になりなさい。腕と待遇、この国で最高のものを用意します」


 首を振った。

「惜しいですが、お断りします。俺、高い店は肌に合わないんで」


「……意味がわかっていますか。王宮直属の料理人など、大陸中を探しても指で数えるほどしかいない」


 エルザが目を丸くするのを横目に、窓の外を見た。仕事を終えて家路を急ぐ平民たちが歩く、薄明い市場。


「俺がなりたいのはとんかつの王です。ただ、王座は王座じゃない。油の跳ねる、カウンターの向こう側だ」


 翌朝、市場の片隅に、小さな看板が掲げられた。

『とんかつ専門店・揚太郎』 ロースかつ定食:銀貨三枚


 風が、看板を静かに揺らした。

 先生、聞こえますか。俺は今、この世界で一番価値のある『銀貨三枚の革命』を、カラッと揚げ始めたところです。


(完)


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「銀貨三枚」。

それは揚太郎にとって、ただの代金ではなく、かつての自分のような「頑張る誰か」が手の届く、聖域の価格でした。


もし、揚太郎の「二度揚げ」の音に少しでもお腹が空いた、あるいは「明日とんかつ食べに行こうかな」と思っていただけましたら、

ぜひ下の【☆☆☆☆☆】から評価【★★★★★】やブクマをいただけると、執筆のサックサク度が3倍になります!

今後とも、佐藤揚太郎と作者をよろしくお願いいたします!

次は、下町の小さなカウンターでお会いしましょう。

ありがとうございました!


また、短編読み切り小説、『愛のない白い結婚ですので業務報告は日報で提出してください』と言い放った王太子妃、六年分の残業代を請求して実家に帰る。〜前世が過労死秘書だった私、今さら愛を囁かれても定時は過ぎました〜

もよろしくお願いします。


https://ncode.syosetu.com/n1274lz/


さて、こちらの「お腹の空く短編」を楽しんでいただけた方に、ぜひ読んでいただきたい作品があります。


現在、別ジャンルではありますが、重厚なファンタジー長編『理の剥離者』(N5065LX)を連載中です。

こちらは「揚げ物」の音ではなく、世界のことわりが剥がれ落ちる音が響く、少しシリアスで熱い物語となっております。


もしよろしければ、下の作品リンク、または作品ID(N5065LX)


https://ncode.syosetu.com/n5065lx/


からチェックしてみてください!

皆様のブックマークや評価が、執筆の次なる「とんかつ代」……もとい、創作のエネルギーになります。

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― 新着の感想 ―
美味しそうなお話でした。かつは至高のおかずです。私はヒレ派ですね、どうでもいいけど。ep8を先に読んでしまったので、改めてここに来ました。ゆっくりお腹を空かせて読んでいきます。
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