第8話「仲介屋の矜持」
萌月十四日。空は薄い雲に覆われていたが、風は穏やかだった。春の湿り気を含んだ空気が、開け放った窓から事務所に流れ込んでくる。
黒パンの最後の一切れに干しチーズを載せて齧った。買い出しをしないと明日の朝飯がない。だが、それは今日の仕事が片付いてからだ。
外套を手に取った時、扉が叩かれた。一拍置いてから開く。レーネだ。三日連続で叩いてから開けるという手順を守っている。蝶番もまだ生きている。
「先生、おはようっす。今日はいよいよっすね」
「ああ。だが、今日は巡礼宿の外で待っていろ」
「なんでっすか」
「相手の面子が関わる交渉は、聞き手が少ないほどいい。人は見られているほど退きにくくなる」
レーネは唇を尖らせたが、少し考えてから頷いた。理屈は理解したらしい。
「わかったっす。でも、何かあったら呼んでくださいよ」
「何もない。たぶんな」
商業区への道を並んで歩く。朝の屋台が開き始めていて、焼き栗の甘い匂いが漂ってくる。もう少し季節が進めば、焼き栗の屋台が苺の屋台に変わる。
商館に先に寄った。セリーナに一つだけ確認する用がある。短い話だった。
商館を出て、通りを渡り、巡礼宿の門をくぐる。三日目の香の匂い。甘く、重く、少し苦い。もう慣れた。
回廊でアンセルが待っていた。
「おはようございます。今日はお一人ですか」
「ファルク殿と、二人きりで話がしたい」
アンセルの表情が僅かに動いた。穏やかな微笑みの奥に、理解の色が浮かぶ。こちらが落としどころを見つけたことを、この男は察している。
「承知いたしました」
案内されたのは、中庭に面した小部屋だった。窓の外で噴水が細い水を落としている。卓を挟んでファルクが座っていた。白い髭。鋭い目。口元は固く引き結ばれている。
アンセルが静かに部屋を出た。扉が音もなく閉まる。
「失礼する」
「……どうぞ」
向かいに腰を下ろした。ファルクの視線には不信と警戒がある。だが、一人でこの部屋に来ていること自体が、話を聞く意思の表れだ。
「単刀直入に言う。品質に問題がないことは、あなた自身がわかっているはずだ」
ファルクの目が細くなった。沈黙。窓の外で鳥が一声鳴いた。
「……仮にそうだとして。発注の手続きに問題があることは事実だ」
「ああ。事実だ。副団長が会計の確認なく品目と数量を決め、三十クローネの発注を行った。会計係の職務が無視された。あなたの異議には正当な理由がある」
ファルクの眉が動いた。外部の仲介人が自分の正当性を認めるとは思っていなかったのだろう。鋭い目の中に、一瞬だけ戸惑いが走った。
「だが——このまま支払いを止め続ければ、商会との関係は壊れる。巡礼団がレーベンを通るのは今回だけではないはずだ。来年も、再来年も。団長が回復された時に、長年の取引先を失ったと報告するのは、あなたの本意ではないだろう」
ファルクの顔が強張った。反論はしなかった。
「落としどころを作りたい。全員が受け入れられる形で」
「……聞こう」
「発注の品目と数量を、会計係として改めて精査していただきたい。慣例に照らして妥当な範囲に再調整し、巡礼団の必要量を超えている分があれば返品扱いとする。支払いは、精査後の金額で行う」
「商会が応じるのか」
「品質の問題ではなく、数量の調整だ。商会の信用は傷つかない。返品された品は在庫に戻るだけだ。そして——あなたの精査が正当に機能したことになる。会計係として発注内容を適正化した。それが事実として残る」
ファルクは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。しばらくそのままだった。悪くない提案だと感じているはずだ。だが、それだけでは——この老僧を動かすには、まだ足りない。
「もう一つある」
ファルクの視線が戻った。
「商会が、グスタフ殿の快復のための薬を用意する。契約とは別の、見舞いとしてだ。費用は商会が持つ」
沈黙が落ちた。噴水の水音だけが、薄い壁越しに聞こえている。
ファルクの表情が変わった。鋭さが消え、代わりに別のものが浮かんだ。驚き。そして——隠しきれない安堵。
団長の治療費が旅費を圧迫していることを、この老僧は一度も口にしなかった。口にする必要がなかった。二十年以上帳簿を預かってきた男だ。数字の苦しさを、誰よりも知っている。
「……なぜ、そこまでする」
「長年の取引先への誠意だ。商会にとっても、巡礼団との関係は一度の取引で終わるものではない」
嘘ではない。だが、全てでもない。今朝この話をセリーナに持ちかけた時、彼女が即座に頷いたのは、薬の費用以上の見返りがあると踏んだからだ。
「最後にもう一つ。これはお願いになる」
「……何だ」
「巡礼団の名で、商会との取引が誠実であったという推薦状を一筆いただきたい。他の巡礼団がレーベンを通る際の参考になる」
「推薦状か」
「紙一枚だ。費用はかからない。だが商会にとっては、将来の取引に繋がる大きな価値がある」
ファルクが目を閉じた。長い息を吐いた。
目を開けた時、そこにあったのは不信でも警戒でもなかった。
「……二十年以上、この巡礼団の金を預かってきた。団長が倒れた時——わしが、守らねばならんと思った。やり方が正しかったかは、わからん」
初めて聞く口調だった。
「結果として、金を守った。それで十分だ」
ファルクが俺を見た。しばらくして、小さく頷いた。
「数量の精査は、明日までに終わらせよう。推薦状も、書く」
「ありがとう」
部屋を出ると、回廊にアンセルが立っていた。手に本を持っていたが、読んではいなかっただろう。こちらの顔を見て、静かにそれを閉じた。
「まとまったようですね」
「ああ。詳細はファルク殿から聞いてくれ」
門まで並んで歩いた。アンセルの足音はやはり聞こえない。石の回廊を、影のように歩く。
門の前で、アンセルが足を止めた。
「ヴェルナーさん。面子の値段をつけるだけではなかった。全員に得をさせるのは、なかなかできることではありません」
「仕事だ。それ以上でも以下でもない」
「ええ」
アンセルが微笑んだ。いつもの穏やかな微笑みだったが、その奥に——今日だけは——本物の感情が覗いていた。
「またお会いすることもあるでしょう。その時は——巡礼僧としてではなく、お話できるかもしれませんね」
答えなかった。この男の正体は、いずれわかる。急ぐ必要はない。
「旅の無事を祈る」
「ありがとうございます。ヴェルナーさんも、どうかお元気で」
門をくぐった。午後の光が石畳を暖かく照らしている。レーネが門の脇の石段に座って、焼き栗を食べていた。
「先生、終わったんすか」
「ああ」
「どうだったんすか」
「全員が少しずつ得をした。たぶんな」
「先生がそう言うなら、うまくいったんすね」
通りを渡って、商館に入った。
二階の執務室。セリーナが書類から顔を上げた。
「片付いた。数量の再精査で返品を出す。品質は問題にしていない」
「推薦状は」
「書くそうだ」
セリーナの口元が微かに緩んだ。
「悪くないわ。あなた、まだ鈍ってないのね」
「余計なお世話だ」
「褒めているのよ」
残りの報酬——銀貨七枚半を受け取った。上着の内ポケットに収める。ずっしりとした重みだ。
「薬の手配は」
「もう済ませたわ。明日には届く」
「じゃあ、これで」
「ええ。——次は、もう少し面倒な仕事になるかもしれないけれど」
「やめてくれ」
灰色猫亭に着いたのは夕暮れ時だった。予想していた通り、細かい春の雨が降り始めていた。外套の肩が僅かに湿る。
扉を開けると、焼いた肉と玉葱の匂いが鼻を打った。
「あんた、また変な仕事してたんだろ」
マルタが厨房から声を飛ばす。
「真っ当な仲裁だ」
「あんたの仕事はいつも真っ当だって言い張るよね」
カウンターに座って、エールを頼んだ。ジョッキが少し乱暴に置かれる。だが泡の加減は完璧だ。
レーネが隣に座った。
「先生、今回は喧嘩も追いかけっこもなかったっすね」
「仲裁ってのはそういう仕事だ」
「あたしの聞き込み、役に立ったっすか」
「ああ。よくやった」
レーネが一瞬、目を丸くした。それから、笑った。
マルタが肉と玉葱の煮込みを出してきた。ツケに追加だ。だが今月は十五クローネがある。ツケの半分を返しても、まだ余裕がある。
エールを飲みながら、窓の外の雨を眺めた。春の雨は静かだ。
十五クローネ。家賃を払って、ツケを返して、少し残る。来月のことは来月考えればいい。
あの巡礼僧のことが、頭の隅に引っかかっている。「巡礼僧としてではなく」。アンセルはそう言った。いずれまた会うことがあるなら——もう少し面倒な話になるだろう。
だが今は、このエールが美味い。それだけでいい。




