第7話「面子の値段」
萌月十三日の朝。窓を開けると、昨日より暖かい風が入ってきた。春が少しずつ深まっている。通りの向こうから焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。今日は朝飯を食いそびれないようにしよう。
黒パンにチーズと漬け物を添えて朝飯にする。漬け物は東風の酸菜で、塩気と酸味が目を覚ます。パンを齧りながら、昨日のことを整理する。
巡礼団の問題は三つだ。会計係ファルクの面子。副団長ハインツが会計の承認なく発注した手続きの問題。そして、団長の治療費による旅費の逼迫。品質は口実に過ぎない。だが、口実にも使い道がある。
レーネが事務所に来たのは、朝の鐘が鳴って間もなくだった。今日は扉を蹴り開ける代わりに、一応叩いてから開けた。少しは学んでいるらしい。
「先生、おはようっす」
「朝飯は食ったか」
「食ったっす。灰色猫亭でマルタさんにパン貰ったっす」
「あいつは若い人間には甘いな」
「先生にも甘いと思うっすけど。ツケ溜めても追い出さないし」
否定できない。
「今日の仕事だが、巡礼宿にもう一度行く。だがその前に、お前に先に行ってもらいたい」
「聞き込みっすか」
「ああ。巡礼宿の使用人——掃除や炊事をしている人間に話を聞け。ファルクとハインツの関係、団長の容態、巡礼団の中の空気。巡礼僧たちに直接聞くな。使用人だ。使用人は見ている」
レーネが頷いて、すぐに出ていった。脚が速いのは相変わらずだ。蝶番が悲鳴を上げたのも相変わらず。
レーネを送り出してから、俺はまず商業区に向かった。巡礼宿ではなく、向かいのアシュガル商館だ。
商館の受付でセリーナの名前を出すと、二階の執務室に通された。窓際の机に書類を広げていたセリーナは、俺の顔を見て軽く眉を上げた。
「早いわね。もう解決したの?」
「まだだ。確認したいことがある」
セリーナが書類から手を離し、椅子の背にもたれた。どうぞ、という顔だ。
「商会にとって、この三十クローネの取引はどの程度重要だ」
「金額自体は大きくない。でも、巡礼団との定期取引は毎年の慣例で、信頼関係の基盤よ。ここで不払いを許せば、今後の取引に影響する」
「金額を多少調整する余地は」
セリーナの目が僅かに細くなった。こちらの意図を測っている。
「品質に問題があったと認めるつもりはないわ。それは商会の信用に関わる」
「品質の問題ではない形でなら」
「……具体的に何を考えているの」
「まだ組み立てている途中だ。ただ、商会が一歩も退かなければ、仲裁は成立しない。退き方を工夫する必要がある」
セリーナが数秒、俺を見つめた。それから、薄く笑った。
「あなたに任せるわ。ただし、品質を認めた形にはしないで。それが条件よ」
「わかった」
商館を出て、通りを渡り、巡礼宿へ向かった。門の前で少し立ち止まる。香の匂いが昨日と同じように漂ってくる。
門をくぐると、回廊でアンセルが待っていた。こちらが来ることを知っていたかのように。
「おはようございます、ヴェルナーさん。今日もお越しくださったのですね」
「少し話がしたい。あんたと二人で」
アンセルは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「ええ、もちろん。中庭でよろしいですか」
中庭の噴水のそばに、石の腰掛けが二つ向かい合うように置かれていた。アンセルが薬草茶を用意してきた。今日の茶は昨日よりも甘い香りがする。
「違う茶葉か」
「ええ。昨日のものは気を引き締める効果がありますが、今日のは少し穏やかなものを。蜜草を混ぜております」
気遣いなのか、何かの計算なのか。この男の場合、両方だろう。
「率直に聞く。ファルクとハインツの対立は、いつから始まった」
「団長が倒れてからです。それ以前は——意見の相違はあっても、団長が調整しておりました。グスタフ様は双方の信頼を得ていた方ですので」
「団長が回復する見込みは」
「薬師は、あと十日ほどで起き上がれるようになるだろうと。ただ、旅を続けられるかどうかは——まだわかりません」
十日。巡礼団が発つ予定は萌月二十日頃。ぎりぎりだ。
「アンセル。一つ聞いていいか」
「はい」
「あんたは、この問題をどう解決すべきだと思っている」
アンセルが茶碗を両手で包み、少し間を置いた。噴水の水音だけが響いている。
「……私の立場では、どちらの味方もできません。ファルク殿もハインツ殿も、それぞれの正義に基づいて行動しています。ただ——」
「ただ?」
「このまま対立が続けば、巡礼団の結束が崩れます。団長が回復した時に、戻る場所がなくなってしまう。それだけは避けたい」
言葉は穏やかだが、静かな切実さがあった。これが本音なのか、それとも本音に見せかけた計算なのか。どちらにせよ、「団の崩壊を防ぎたい」という方向性は嘘ではないだろう。アンセルが何者であれ、巡礼団が内部から瓦解することは彼にとっても不都合のはずだ。
「ヴェルナーさんは、レーベンに長いのですか」
唐突な話題の転換だった。だが、唐突ではない。こちらの背景を探る問いだ。
「七年になる」
「アシュガルのご出身とお見受けしますが、セレナード語に不自由がないのは、やはりお仕事の関係で」
「商売をやっていれば、否応なしに覚える」
「なるほど。……レーベンは、面白い街ですね。二つの国の文化がこんなにも近くで共存している場所は、他にはなかなかありません。アシュガルの合理性と、セレナードの精神性。どちらも欠けてはならないものだと、私は思っています」
博識だ。巡礼僧として各地を回っているから、というだけでは説明がつかないほどに。この男は、二大国の文化的な差異を——そしてその政治的な含意を——深く理解している。雑事を取りまとめる世話役の口から出る言葉ではない。
「あんたも、よく知っているようだが」
「旅をすれば、自然と見えてくるものもございます」
穏やかな微笑み。その裏を読ませない微笑み。セリーナの微笑みとは質が違う。セリーナの微笑みは「計算を隠している」微笑みだ。アンセルの微笑みは「もっと深いものを覆っている」微笑みだ。
追及はしなかった。今はそれが必要な時ではない。
「ありがとう。参考になった」
「お役に立てたなら幸いです。……ヴェルナーさん」
「何だ」
「この問題を解決してくださるなら、私は——個人的にも、感謝いたします」
個人的にも。その一言に、この男の立場が透けて見えた。巡礼僧としてではない、別の何かとして、この問題の解決を望んでいる。
「仕事だ。それ以上でも以下でもない」
そう答えて、中庭を後にした。
回廊を戻る途中で、レーネと合流した。使用人への聞き込みを終えたらしく、目が情報でいっぱいになっている顔だ。
「先生、色々わかったっすよ」
「外で話そう」
巡礼宿を出て、大通りの屋台で焼きソーセージを二本買った。一本をレーネに渡して、通りの石段に腰を下ろす。昼の日差しが暖かい。焼きソーセージの油が指先を汚す。
「で、何がわかった」
「まず、ファルクの爺さんなんすけど、巡礼団の中ではかなりの古株で、団長の信頼がすごく厚いらしいっす。二十年以上一緒に旅をしてて、会計だけじゃなくて、実質的な相談役みたいな立場だったって」
「ハインツは」
「三年前に副団長になった人で、実務はすごくできるんすけど、古参の僧侶たちとは少し距離があるみたい。団長が元気な時はうまく回ってたけど、団長が倒れた途端、ファルクの爺さんが『自分が団を守らねば』って感じになって」
「団長の容態は」
「使用人の一人が薬師の手伝いをしてるんすけど、その人が言うには、回復はしてるけど、ゆっくりだって。レーベンを出る頃にはたぶん大丈夫だろうって話でした」
「金の話は聞けたか」
「それが——」レーネが声を落とした。「使用人たちの中で噂になってるらしくて。最近、巡礼僧たちが節約してるのが目に見えてわかるって。食事の量を減らしたり、消耗品の補充を控えたり。炊事場の人が、発注量が明らかに減ってるって言ってたっす」
やはり、金は逼迫している。ハインツが言ったことは事実だ。
「もう一つ。ファルクの爺さん、本当に品質が悪いと思ってるわけじゃないみたいっす」
「根拠は」
「炊事場の使用人が、ファルクが品質を確認してる時に少し離れたところにいたらしいんすけど、粉を触った後に首を傾げてたって。『悪くはないが……』って小さく呟いてたって」
なるほど。ファルク自身もわかっているのだ。品質に問題がないことは。だが、それでも引くに引けない。面子と、手続きの問題と、金の問題が絡んで、今さら「品質は問題ない」とは言えなくなっている。
焼きソーセージの最後の一口を噛み締めながら、頭の中で仲裁案を組み立てる。
条件。
一、品質の問題としない。商会の信用を傷つけない。
二、ファルクの面子を立てる。会計係として正当な判断をしたという形にする。
三、実際の支払い額を調整し、巡礼団の財政負担を軽減する。
四、ハインツの手続き上の落ち度を認めつつ、その判断自体は否定しない。
四つの条件を同時に満たす解がある。
発注の条件を「再精査」する。ファルクが会計係として改めて品目と数量を確認し、「慣例に照らして妥当な範囲に調整する」形を取る。結果として、一部の品目を「巡礼団の必要量を超えている」として返品扱いにする。品質には問題がないが、数量が実際の必要を上回っていたという名目だ。
これで骨格はできる。だが、それだけでは足りない。全員が一歩ずつ退くだけでは、全員が少しずつ損をしただけで終わる。仲裁は、全員に「得をした」と思わせてこそ成功だ。
もう一手。いや、二手。頭の中にはもう見えている。だが、それはまだ言わない。
「先生、何か思いついたっすか」
「ああ。面子に値段をつけてやる。それが仲介屋の仕事だ」
「かっこいいっすね。意味はよくわかんないっすけど」
わからなくていい。明日わかる。




