第6話「手の剣胼胝(たこ)」
セレナード巡礼宿の門は、アシュガル商館の門と向かい合うように建っていた。だが、同じ大通りに面していながら、空気がまるで違う。商館の側は人の出入りが絶えず、荷車の音や商人たちの声が響いている。こちら側は静かだ。門の脇に植えられた糸杉が、微かな風に揺れている。
門をくぐると、石造りの回廊が中庭を囲む形で続いていた。回廊の天井は低く、壁には燭台が等間隔に並んでいる。昼間だから火は灯っていないが、蝋の垂れた跡が白く残っている。夜になれば、この回廊は揺れる灯火に照らされるのだろう。中庭の中央には小さな噴水があり、水が細く落ちる音だけが静寂の中に響いていた。
香の匂いが、回廊のどこかから漂ってくる。甘く、重く、少し苦い。セレナードの祈祷に使う薫香だ。アシュガルでは嗅ぐことのない匂い。だが、嫌いではない。この匂いを嗅ぐと、体の奥の何かが少しだけ静かになる気がする。
「先生、なんか空気が違うっすね」
レーネが声を落として言った。声を落としたのは正しい判断だ。この場所で大声を出すのは、教会の中で騒ぐのと同じことだ。
「足音も気をつけろ。ここは祈りの場所だ」
回廊を進むと、奥の一室から人が出てきた。
巡礼僧の装い。質素な灰色の衣に、腰に数珠を下げている。四十前後だろうか。穏やかな風貌。日に焼けた肌は旅慣れた人間のもので、頬は痩せているが不健康な痩せ方ではない。目は柔らかく、口元には自然な微笑みが浮かんでいる。
「ヴェルナーさんでいらっしゃいますね。商会のセリーナさんからお話は伺っております」
声も穏やかだった。低すぎず高すぎず、聞き取りやすい。人を安心させる声だ。意図してそうしているのか、天性のものか。
「ご足労いただき、ありがとうございます。私はアンセルと申します。この巡礼団で、雑事を取りまとめております」
「世話役ということか」
「ええ、そのようなものです」
アンセルが軽く頭を下げてから、右手を差し出した。セレナード式の挨拶ではなく、レーベン式の握手だ。相手に合わせている。こちらの文化を知っている。
手を握った。
その瞬間、指先に硬い感触があった。
掌の付け根から人差し指にかけて、皮膚が厚くなっている。角質化した、独特の硬さ。剣の柄を長年握り続けた人間にできる胼胝だ。鍛冶屋の手でも、荷担ぎの手でもない。剣を握る手だ。
顔には出さなかった。握手は自然に終えた。
「こちらは助手のレーネです」
「はじめまして。よろしくお願いいたします」
「ど、どうもっす」
レーネが小さく頭を下げた。慣れない丁寧な空気に居心地が悪そうだ。
アンセルが回廊の奥へと案内した。歩き方は静かで、足音がほとんどしない。石の床の上を歩いているのに、まるで苔の上を歩くようだ。巡礼僧として身につけた所作なのか。それとも、別の訓練で身につけたものか。
案内されたのは、中庭に面した小さな部屋だった。窓から中庭の噴水が見える。卓の上に、素焼きの茶器が三つ用意されていた。
「粗茶ですが、どうぞ」
アンセルが土瓶から茶を注いだ。薬草の匂いがした。セレナード式の薬草茶だ。ミントに似た清涼感のある香りの中に、甘い根の匂いが混じっている。軍にいた頃、セレナード側の人間と接触する時に何度か飲んだことがある。身体を温め、気を落ち着かせる効果があると聞いた。
一口飲んだ。苦みの奥に微かな甘さがある。三番煎じの安茶とは比べものにならないが、ヘルマンの東方茶とも違う。静かな味だ。
「ありがとう。本題に入っていいか」
「ええ、もちろん。お忙しいところを来ていただいておりますので」
「商会から聞いている話では、納品された品の品質について、巡礼団側が異議を唱えていると。その詳細を聞きたい」
アンセルの表情が、ほんの僅かに曇った。曇ったというよりは、穏やかな微笑みの裏に別の感情が一瞬だけ覗いたという方が正確だ。困惑、というよりは——苦さ。内部の恥を外の人間に見せることへの。
「正直に申し上げますと、少々複雑な事情がございます。品質の件を主に訴えておりますのは、当団の会計を司る、ファルクという者です」
「会計係の一存で、支払いを止められるのか」
「本来であれば、団長の判断を仰ぐところですが——」アンセルが一拍置いた。「団長のグスタフ様は、旅の疲れで体調を崩しておりまして。十日ほど前から臥せっております」
団長が不在。会計係が支払いを拒否。単なる品質問題ではなさそうだ。
「会計係のファルクと、直接話がしたい」
「承知いたしました。ただ——もう一人、お会いいただいたほうがよい者がおります。副団長のハインツです。彼はファルクとは異なる見解を持っております」
「両方の話を聞くのが筋だろうな。順番はそちらに任せる」
アンセルが静かに頷いて、部屋を出ていった。足音はやはり聞こえなかった。
レーネが小声で言った。
「先生、あの人なんか——普通じゃないっす」
「どこが」
「うまく言えないんすけど……歩き方とか。静かすぎるっていうか」
勘のいい助手だ。だが、今はそれについて話す場所ではない。
「後で話す。今は聞き取りに集中しろ」
しばらくして、アンセルが一人の老僧を連れて戻ってきた。ファルク。痩せた体に深い皺が刻まれた顔。白い髭。目は鋭く、口元は固く結ばれている。不機嫌というより、不信だ。外部の人間に裁かれることへの。
「仲介屋のヴェルナーだ。両者の話を公正に聞くために来た」
ファルクは俺を見据えたまま、腰を下ろした。
「公正に、と仰るが。商会側に雇われた方が、公正な判断などできるのですかな」
「報酬は受けているが、商会の味方ではない。仲裁は公正でなければ意味がない。もし品質に問題があるなら、商会側に是正を求めるのも俺の仕事だ」
ファルクの目が少しだけ動いた。完全に信じてはいないが、話を聞く気にはなったらしい。
「では申し上げよう。納入された小麦粉は粒が粗い。乾燥果物は色が悪く、香りも落ちている。巡礼の旅路において、食の質は祈りの質に直結する。粗悪な品で済ませることは、巡礼そのものを軽んじることに等しい」
言葉に力がある。確信を持って言っている——少なくとも、そう見せている。
「加えて申し上げるなら、今回の発注の条件にも問題がある。商会との取引の枠組みは従来通りですが、具体的な品目と数量は副団長が独断で決めたもの。会計の確認も、団長の承認もない。三十クローネという額が適正かどうかも、精査されていない」
なるほど。品質だけではない。発注の手続きと金額の妥当性を問うている。これは単なる言いがかりではなく、筋の通った主張だ。
「現物を確認したい。見せてもらえるか」
「それはもちろん」
ファルクに案内されて、巡礼宿の裏手にある保管庫に入った。棚に並んだ木箱や袋から、納品された品を確認する。
小麦粉の袋を開けた。指で触れ、少量を掌に取って確かめる。レーネも隣で同じことをしている。
「先生」レーネが小声で言った。「これ、普通っすよ。うちの近所のパン屋が使ってるのと変わらないっす」
同感だ。粒の粗さは一般的な範囲で、品質としては中の上。安物ではないが、最高級でもない。契約の品としては妥当だろう。乾燥果物も確認した。色は多少くすんでいるが、乾燥保存の品としては許容範囲だ。香りも残っている。
「ファルク殿、この品質が契約と異なると」
「私はそう判断しております」
「契約書を見せてもらえるか」
ファルクの表情が僅かに固くなった。が、断る理由もないのだろう。契約書が持ち出された。アシュガル語とセレナード語の並記で、品目と数量が記されている。品質については「標準品」とだけ書かれている。
標準品。この小麦粉は標準品の範囲内だ。
ファルクを見送った後、入れ替わりで副団長のハインツが来た。三十代半ばだろうか。精悍な顔つきで、動作にきびきびとした実務家の気配がある。
「お手数をおかけします。正直に申し上げますと、品質に問題があるとは私は考えておりません」
「なぜ会計係は支払いを拒否している」
ハインツが少し言い淀んだ。内部の事情を外に出すことへのためらいだろう。
「……商会から食料を調達すること自体は、毎年の慣例です。巡礼団がレーベンを通る際、商会に物資を発注するのは以前からの取り決めで。ただ、具体的な品目や数量、価格は、到着後に団長が確認して承認するのが通例でした」
「今回は」
「団長が倒れたのは到着の翌日です。発注の取りまとめはこれからという時でした。四十名分の食料は待てません。私が判断して、品目と数量を決めて発注しました。ですが、ファルク殿は——具体的な条件について、事前の相談がなかったことを問題視されています」
「会計係に相談しなかったのか」
「……正直に申しますと、ファルク殿に相談すれば、価格と条件について長い議論になる。それを待つ余裕がなかった」
事情はわかった。慣例としての枠組みは双方が了解している。だが、今回の具体的な発注内容を、会計係の頭越しに決めた。手続きとしては問題がある。ファルクの怒りにも理がある。
「もう一つ聞く。巡礼団の財政状態はどうだ。三十クローネは問題なく払える額なのか」
ハインツの表情が強張った。痛いところを突かれた顔だ。
「……団長の治療に想定外の費用がかかっております。レーベンの薬師は腕がいいのですが、その分——。正直なところ、三十クローネの支出は、旅の残りの行程を考えると、楽ではありません」
そういうことか。ファルクが支払いを止めているのは、面子だけの問題ではない。実際に金が苦しいのだ。品質を口実にしているのは、外部に財政難を知られたくないから——巡礼団の体面もある。
「支払いはいつまでに必要だ」
「巡礼団がレーベンを発つのは、萌月の二十日前後を予定しております。それまでには——何とかしなければ」
あと八日。時間はある。だが、長引かせるべき話でもない。
ハインツが去った後、アンセルが茶を淹れ直してくれた。二杯目の薬草茶は、最初より少し苦みが強い。
「お手間をおかけして申し訳ございません」アンセルが静かに言った。「内輪の恥をお見せするようで、心苦しい限りです」
「仕事だ。気にするな」
「ヴェルナーさんは、両方の言葉を話されるのですね。セレナード語もお上手です」
「仕事で必要になっただけだ」
「それでも、言葉を学ぶということは、その国の心を知ろうとすることです。それは、なかなかできることではありません」
穏やかな言葉だった。だが、この男の穏やかさには底が見えない。言葉の端々に、こちらを観察している気配がある。情報を集めている。質問の形を取らずに、こちらの背景を探っている。
俺も同じことをしている。互いに、相手の輪郭を測ろうとしている。だが、この場でそれを指摘する意味はない。
「それでは、また明日改めて伺うかもしれない。今日のところは失礼する」
「ええ、いつでもお越しください。お待ちしております」
アンセルが門まで送ってくれた。門をくぐり、大通りに出ると、商業区の喧騒が一気に戻ってきた。午後の日差しが石畳を白く照らしている。巡礼宿の中の静けさが、まるで別の世界のようだ。
「先生」
レーネが俺の隣に並んで、声を低くした。
「あの小麦粉、普通だったっすよね。品質に問題なんかないっすよね」
「ああ。品質は口実だ」
「じゃあ、なんで金を払わないんすか」
「品質は口実だ。だが、会計係にも言い分がある。発注の条件を自分に相談なく決められた。手続きの問題を突いている。それに——」
「それに?」
「金が足りない。副団長は直接言わなかったが、顔に出ていた。団長の治療費で旅費が圧迫されている。三十クローネは、この巡礼団にとって軽い額じゃない」
「じゃあ、品質が悪いって言ってるのは——」
「金がないとは言えない。巡礼団の面子がある。だから品質を理由にして、値引きか支払い猶予を引き出そうとしている。面子と実利の両方が絡んでいる。面倒な話だ」
「先生、それ解決できるんすか」
「できなきゃ十五クローネは手に入らない」
歩きながら、頭の中で情報を並べ直す。品質は問題ない。だが問題は三つある。会計係の面子、契約手続きの正当性、そして旅費の逼迫。三つが絡み合っているから厄介だ。
単に面子を立ててやるだけでは足りない。金が実際に苦しいなら、落としどころには金額の調整も必要になる。かといって、商会側に値引きを求めれば品質に問題があったと認めることになり、セリーナの面子が潰れる。
全員の面子を立てながら、実利も通す。簡単ではないが、不可能でもない。
それよりも。
頭の隅に、別のことが引っかかっている。
あの握手。掌の胼胝。足音のしない歩き方。こちらの背景を探るような会話。
アンセル。穏やかで、博識で、礼儀正しい巡礼僧。
だが、あの手は——祈りで硬くなった手ではない。




