幕間「商会の女」
アシュガル商館の二階、東向きの執務室には、朝の光がよく入る。窓の外には商業区の大通りが見下ろせる。荷馬車の往来、商人たちの声、時折聞こえる鐘の音。萌月の十日目ともなれば、通りの人の数は冬の三倍にはなっている。
セリーナは机の上に広げた報告書に目を通していた。ユルゲンからの顛末書だ。
港区の倉庫から消えた荷が、二日で戻ってきた。仲介屋のヴェルナーに依頼して、だという。報酬は十クローネ。ユルゲンの荷の中身を考えれば安い買い物だろう。もっとも、無届けの魔導具を私的に持ち込もうとした時点で、ユルゲン自身の判断に問題がある。その件については別途、本国に報告を上げる必要がある。
報告書の末尾に、ヴェルナーの名前がある。
セリーナは椅子の背にもたれ、窓の外に目を向けた。
ヴェルナー。
あの人は、まだレーベンにいるのか。——いや、知っている。レーベンの中層区で仲介屋をしている。何でも屋に近い、小さな仕事を引き受けて日銭を稼ぐ暮らしだということも。かつて情報部で最も切れる頭を持っていた男が、今は古い借家でツケの心配をしている。
皮肉とは思わない。あの人はそういう人だ。組織の中にいるよりも、街の片隅で自分の速度で生きるほうが性に合っている。あの事件のあと、軍を辞めた判断は——合理的だったかどうかはさておき、あの人らしかった。
セリーナは報告書を閉じ、次の書類に手を伸ばした。
巡礼団の件だ。
三日前にレーベンに到着したセレナードの巡礼団。四十名ほどの僧侶と信徒の一行で、東方の聖地を巡る旅の途中、レーベンに立ち寄っている。アシュガル商会は巡礼団に食料と日用品を供給する契約を結んでいた。萌月の交易シーズンの始まりに合わせた、定期的な取引だ。
問題は、納品が完了したにもかかわらず、巡礼団側が代金の支払いを拒否していることだ。
金額は三十クローネ。商会にとって大きな額ではない。だが、セレナードの巡礼団との取引で不払いが生じたという事実は、商会の信用に影響する。放置はできない。かといって、衛兵や自治評議会に持ち込めば外交問題に発展する可能性がある。セレナードの宗教関係者を相手に強硬策を取れば、レーベンでの商会の立場が悪くなる。
中立の仲介人が必要だ。
セリーナは、机の上のペンを指先で回した。
仲介人。セレナードの文化を理解し、アシュガルの商慣習にも精通している人間。巡礼僧の面子を傷つけずに、支払いを実行させられる交渉力を持つ人間。
条件に合う人間は、このレーベンに一人しかいない。
感傷ではない。合理的な判断だ。——それに、あの人の今の実力を見ておきたいという気持ちが、まったくないとは言わない。将来、もっと大きな案件が来た時に、使える人間かどうか。商会の代表として、それを見極めるのは仕事の一部だ。
セリーナは椅子の背にもたれた。まず巡礼団の書類を整えて、条件を固めなければ。あの人に持ちかけるなら、曖昧な依頼では動かない。
薄く微笑む。
「久しぶりに、あの人に会いに行きましょうか」




