第9話「鍛冶屋の沈黙」
萌月十七日。朝から雲のない空が広がっていた。窓を開けると、春の日差しが事務所の床に四角い光を落とす。風はまだ冷たいが、日向にいれば上着はいらない季節になってきた。
黒パンに干しチーズを載せて齧る。先週の巡礼団の件で十五クローネが入ったおかげで、チーズがまともなものになった。安物は齧ると歯にくっつくが、今日のは素直に砕ける。ついでに茶葉も一等級上のものを買ってしまった。煙草も補充した。報酬が入ると、こういうところから金が消える。マルタには「あんたが金貯まらないのはそういうとこだよ」と言われている。否定できない。こういう幸福が長続きしないのは、経験上わかっている。
案の定——扉が叩かれた。一拍置いて開く。レーネだ。最近はちゃんと叩いてから入る。蝶番はまだ生きている。
「先生、おはようっす。……あの、ちょっとまずい話なんすけど」
レーネの顔が硬い。普段の生意気な表情ではなく、眉を寄せて唇を結んでいる。悪い知らせの顔だ。
「何だ」
「ドルクさんの工房に、泥棒が入ったみたいっす」
パンを置いた。チーズの味がわからなくなった。
中層区の路地を急ぐ。レーネが横で話す。今朝、工房の前を通りかかった時に扉が開いていたのが気になって覗いたら、ドルクが奥の作業台の前に立ったまま動かなかった。声をかけたら「何でもない」と言われたが、明らかに何でもなくはなかった、と。
「あたしが見た限り、工房は荒らされてないんすよ。でもドルクさんの様子がおかしくて」
「壁の棚は見たか」
「棚? ……あ、奥の方に空っぽの棚がありました。あれって前からでしたっけ」
「前からじゃない」
ドルクの工房は、中層区の路地の奥にある。看板は出していない。鍛冶屋だと知っている人間だけが訪ねてくる場所だ。いつもなら炉に火が入っていて、鉄を打つ音が路地に響いている。今日は——静かだった。
扉は開いていた。中に入ると、工房はいつも通りだった。金床、炉、壁に掛かった鉄槌の列。床の隅に溜まった鉄粉。荒らされた形跡はない。
ドルクは作業台の前に立っていた。巨漢の背中が、いつもより小さく見えた。振り返らない。
「ドルク」
「……ああ」
奥の壁棚に目を向けた。
普段のドルクの工房には、鍛冶の道具が種類ごとに整然と並んでいる。鉄槌、火箸、焼き入れ用の水桶。そして、壁棚の上段——そこには別の道具が並んでいたはずだ。週に一度の晩酌の時に見ている。小ぶりで、精密な工具類。金属の表面が磨かれていて、普通の鍛冶道具とは明らかに質が違うもの。
棚は空だった。
「いつだ」
「昨夜だろう。夕方に閉めた時はあった」
「鍵は」
「壊されてはおらん。裏の窓が外されていた。蝶番を外して窓枠ごと持ち上げたんだろう」
裏に回ると、確かに窓が外されていた。蝶番のピンが抜かれている。慣れた手口だ。音を立てずに侵入する方法を知っている人間の仕事だ。
工房に戻った。ドルクは相変わらず作業台の前に立っている。大きな手で、空になった棚の縁を触っていた。
「何が盗まれた」
「刻印を彫る鏨が三本。導力を測る計器が一つ。あと、焼き入れの温度を見る硝子管」
全て、魔導具の加工と調整に使う道具だ。通常の鍛冶仕事には使わない。ドルクが軍鍛冶だった頃に使っていた精密工具。市場には出回らない。
「軍にいた頃の道具だ。支給品じゃない。親方から譲り受けた。金で買えるものじゃない」
ドルクにしては長い台詞だった。声に怒りはなかった。代わりに、もっと深いところが揺れていた。
レーネが俺の袖を引いた。小声で囁く。
「先生、依頼として受けるんすか」
「ああ。ドルク、探す。見つけたら取り返す」
ドルクが振り返った。無表情だが、目だけが少し動いた。
「金は払えん」
「ツケにしておく。酒代で相殺だ」
ドルクが黙った。しばらくして、小さく頷いた。
「……すまん」
「気にするな。どうせ暇だ」
嘘だ。暇ではないが、ここで暇だと言わなければならない。友人の道具を探すのに報酬を要求するほど、俺はまだ落ちぶれていない。
工房を出て、路地を歩いた。レーネが横に並ぶ。
「先生、あの道具って——」
「魔導具を作ったり直したりする時に使う専用の工具だ。普通の鍛冶道具じゃない。ドルクが軍の鍛冶だった頃のものだ」
「それ、盗む人って限られるんじゃないっすか。価値がわかる人じゃないと」
「そうだ。だから厄介なんだ」
事務所に戻って茶を淹れた。冷めたパンの残りを齧りながら考える。荒らされていない工房。特定の道具だけが消えている。犯人は何が欲しいかを知っていた。魔導具関連の精密工具に価値を見出す人間——それは、この街にそう多くはない。
昼を過ぎた頃、扉が叩かれた。今度はレーネではない。叩き方が違う。控えめで、間隔が正確だ。
開けると、ヘルマンの使いの小僧が立っていた。
「ヴェルナー様、ヘルマン様がお呼びでございます。本日中にお越しいただけますと」
「わかった。午後に行くと伝えてくれ」
小僧が駆けていった。ヘルマンが自分から呼び出すのは珍しい。普段は俺が情報を買いに行く側だ。
「レーネ、ヘルマンのところに行ってくる。お前はドルクの工房の周辺で聞き込みをしてくれ。昨夜、路地の辺りで不審な人間を見なかったか」
「了解っす」
上層区への坂道を上る。午後の日差しが石畳を照らしていて、上着の内側が汗ばむ。もう外套は重い季節だ。通りの花屋が早咲きの花を並べ始めていた。黄色い花弁が風に揺れている。
ヘルマンの両替商は上層区の大通りに面した石造りの建物だ。看板は小さく、知らない人間は素通りする。両替商というのは表の顔で、この街の金の流れのほとんどを把握している老人だ。
二階の執務室に通された。帳簿と書類が壁沿いに積まれていて、部屋の半分を占領している。ヘルマンは窓際の机に座り、小さな眼鏡の奥から俺を見た。
「やあ、ヴェルナーさん。お忙しいところを」
「ヘルマン、今日はそちらから呼んだな。珍しい」
「ええ。少々、困ったことが起きておりましてな」
ヘルマンが茶を出した。ここの茶は上等だ。薄い琥珀色の液体からアシュガル産の茶葉の香りが立つ。一口飲んで、先を促した。
「最近、裏で魔導具に関連する品が動いております。工学派の道具が、正規の市場を通さずに集められているという話が、ちらほらと」
「……それは、いつ頃からだ」
「はっきりとは。ですが、ここ一、二ヶ月ほどの話のようでございます」
一、二ヶ月。ユルゲンの件は萌月の初めだ。もっと前から動いていたことになる。
「ヴェルナーさん、この件を調べていただけませんか。報酬は二十クローネ」
二十クローネ。仲介依頼としては中規模の上の方だ。家賃一ヶ月分以上。ヘルマンが自分から依頼を持ちかけ、しかもこの額を提示する。安くはない。
「なぜ俺に」
「さて、どうでしょうな。この街で、魔導具の価値がわかり、裏の世界にも顔が利く人間は——そう多くはございませんので」
答えになっていない。ヘルマンの常だ。この老人は、聞かれたことに答えないことで、別のことを伝えようとする。
だが、今朝のドルクの件がある。魔導具関連の精密工具が盗まれた。ヘルマンが言う「裏で動いている品」と繋がる可能性は十分にある。
「一つ聞く。今朝、中層区の鍛冶師の工房から魔導具用の工具が盗まれた。その件との関連はあるか」
ヘルマンの表情が微かに動いた。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ細くなった。
「……鍛冶師。ドルクさんでございますか」
「知っているのか」
「名前は存じております。元軍鍛冶の方ですな。ほう……工具が盗まれましたか。なるほど」
ヘルマンは独り言のように呟いて、茶を一口飲んだ。それ以上は何も言わない。
「引き受ける。金は後でいい」
「それは助かります。——お互い、信用の上で成り立つ商売でございますからな」
信用。この老人が使う「信用」という言葉ほど、吟味が必要なものはない。
上層区を出て、中層区への坂道を下った。午後の陽が傾き始めていて、建物の影が石畳に長く伸びている。
途中でレーネと合流した。聞き込みの成果は芳しくない。昨夜の路地で不審な人間を見た者はいなかった。手慣れた仕事だ。目撃者を残さない侵入——素人ではない。
「先生、ヘルマンさんには何か言われたんすか」
「別の依頼を受けた。魔導具関連の品が裏で動いている件を調べろ、とのことだ」
「それって、ドルクさんの件と——」
「繋がる可能性がある。それと、もう一つ」
レーネが首を傾げた。
「萌月の初めに、ユルゲンの倉庫から魔導具が盗まれた件を覚えているか」
「あの時の探知用の道具っすよね。水夫を雇って盗ませた男がいた——」
「レーベン訛りの男だ。結局、そいつの正体はわからないままだった」
レーネの目が大きくなった。
「まさか——同じ奴っすか」
「わからない。だが、魔導具に関わる品ばかりが狙われている。手口も似ている。荒らさずに、目的の品だけを持ち去る」
事務所に戻り、窓際の椅子に座った。通りでは屋台の焼きソーセージが煙を上げている。いい匂いだ。だが、今は食欲より頭のほうが忙しい。
ドルクの精密工具。ユルゲンの探知用魔導具。どちらも工学派の魔術に関わる品だ。偶然の一致にしては、出来すぎている。
そしてヘルマン。あの老人は、ドルクの名前を聞いた時に驚いていなかった。知っていたのか、あるいは——予想していたのか。
いずれにしても、二十クローネ分の仕事だ。まずは、足で調べるしかない。




