幕間「密偵の筆」
萌月十五日。夜明け前の巡礼宿は、祈りの声で目を覚ます。
アンセルは自室の窓を開けた。冷たい朝の空気が流れ込み、卓上の蝋燭の炎が揺れる。商業区の通りはまだ暗い。遠くで荷馬車の車輪が石畳を転がる音がする。出発は日の出とともに。あと半刻ほどだ。
荷はすでにまとめてある。巡礼僧の持ち物は少ない。衣と書物と祈りの道具。それだけあれば旅はできる。——もっとも、書物の中に紛れた薄い手帳が、巡礼僧の持ち物としてはいささか不自然ではある。
卓に向かい、手帳を開いた。表紙には祈祷文の写しが記されている。中ほどのページに、昨夜のうちに書きかけた文が並んでいた。字は細かく、行間は詰まっている。読む者が読めば——そして読むべき暗号表を持っていれば——これが祈祷文でないことは明白だろう。
筆を取り、書き足す。
レーベンの仲介人について。
ヴェルナー。アシュガル連合王国軍・情報部の元将校。現在はレーベン中層区で仲介業を営む。年齢は三十八前後。巡礼団とアシュガル商会の取引紛争において仲裁を依頼され、五日で解決に至った。
アンセルは筆を止め、窓の外を見た。空の端が白み始めている。
報告書に書くべき事実と、書かない方がよい所感がある。
事実として記すならば、この人物は有能だ。両国の文化に精通し、交渉において相手の面子と実利を同時に扱える。ファルクを説得した手腕は、情報部の訓練を受けた人間のそれだった。アシュガル商会との関係は業務上のものと見られるが、商会代表セリーナとの間には軍時代からの繋がりがある。
筆を走らせる。事実は事実として記す。
だが——報告書には書かない部分がある。あの男の目だ。人を見る時の視線。こちらの手の剣胼胝に気づいていた。それを一言も口にしなかった。気づいたうえで、泳がせた。
あの男は駒にはならない。利用しようとすれば、利用し返される。接触するならば、対等な取引でなければ意味がない。——これは所感であり、報告書に記す類の話ではない。
もう一つ。
レーベン滞在中、裏の市場で魔導具関連の品が動いているという話を耳にした。巡礼宿の使用人が、外壁区で「変な品を集めている男がいる」と語っていた。工学派の道具だという。詳細は不明。だが、レーベンで工学派の魔導具が裏で動いているとすれば、それはセレナードにとっても無関心ではいられない事柄だ。
手帳の末尾に、この件を追記した。次の報告で、より詳しい情報を送る必要があるかもしれない。
筆を置き、手帳を閉じた。インクの乾きを待ちながら、荷の中から巡礼僧の外套を取り出す。質素な灰色の布。肩に掛けると、密偵の手帳を持つ男は、ただの穏やかな巡礼僧に戻る。
廊下に出ると、ファルクが荷を背負って立っていた。
「アンセル殿。出発の準備はよろしいかな」
「ええ。お待たせして申し訳ありません」
ファルクの表情は、数日前とは違っていた。仲裁が終わった後、この老僧は一度だけアンセルに「すまなかった」と言った。何に対する謝罪かは、言葉にはしなかった。する必要もなかった。
巡礼宿の門を出ると、萌月の朝の光がレーベンの石畳を照らしていた。風は冷たいが、日差しには春の力がある。
商業区の通りを歩きながら、アンセルはレーベンの街並みを目に収めた。アシュガルの商館。職人の店。市場に並ぶ朝の食材。両国の文化が混在する、この小さな中立都市。
また来ることになるだろう。
次は、巡礼僧としてではないかもしれないが。




