第1話 「名指し」
萌月の朝の空気は、まだ冬の名残を引きずっている。窓の向こうに見える街路樹の枝先に小さな芽がついているのは確認したが、肌に触れる風は正直言って冷たい。
灰色猫亭のカウンター席で、黒パンをちぎってスープに浸す。根菜と干し肉を煮込んだだけの素朴なやつだが、朝の冷えた身体には沁みる。湯気が顔にかかると、ようやく目が覚える心地がする。パンは昨日の残りらしく、そのまま齧ると顎が疲れる硬さだ。スープに浸して、柔らかくなったところを噛み締める。根菜の甘みが干し肉の塩気と混ざって、まあ悪くない。ペニー銅貨七枚の朝飯としては上出来だろう。
店内には俺の他に客はいない。朝も早いから当然だ。昼になれば港区の荷担ぎ連中や商業区の小間使いたちが飯を食いに来るが、この時間の灰色猫亭は静かなものだ。厨房から聞こえる鍋の音と、カウンターの奥でマルタが食器を拭く音だけが響いている。看板の由来になった灰色の老猫が、暖炉の前で丸くなっている。あいつはもう十年近くあの場所から動いていないんじゃないか。
スープを啜りながら、今日の予定を頭の中で確認する。確認するほどの予定はない。冬の間に溜まった小物の整理でもするか。事務所——と言えば聞こえはいいが、実態はほぼ物置だ——の棚にはセレナード語の辞書やら古い地図やら、いつ使うかわからないものが山積みになっている。
「あんた、また顔色悪いよ」
マルタが布巾で皿を拭きながら、こっちを見もせずに言った。大柄な身体に腕まくりという出で立ちは、元冒険者という肩書きに妙な説得力を持たせている。
「いつものことだ」
「いつものことで済ませるんじゃないよ。昨日もドルクの工房で飲んでたんだろ」
否定はしない。否定する材料がない。ドルクの工房に行って、作業場の隅で無言で安酒を飲む。週に一度の習慣だ。あいつは鉄を打ち、俺は杯を空ける。会話は「ああ」と「おう」程度で、それで十分だ。昨日はたまたま少し量が多かっただけで、別にどうということはない。
「萌月に入って依頼も増えるんだから、少しは身体に気を遣いな」
「依頼が増えるかどうかは、まだわからないだろう」
「わかるよ。毎年のことだもん。河が緩んで船が動き出せば、商人が来る。商人が来れば揉め事が起きる。揉め事が起きればあんたの出番だ」
反論できない。反論する気力もない。黒パンの最後のひとかけらをスープに沈めた。マルタの言う通り、萌月から風月にかけては仲介屋にとって稼ぎ時だ。交易シーズンが始まれば、荷の行き違い、通関の揉め事、言葉の壁による行き違い。そういった小さな厄介事が俺の飯の種になる。
とはいえ、今月の家賃十五クローネにはまだ届いていない。先日の依頼で手に入れた銀貨四枚。悪くはないが、足りない。
「ごちそうさん」
スープの器を押し返す。マルタが受け取りながら、にやりと笑った。
「ツケ、今月分もう六クローネだからね」
「……聞こえなかったことにしていいか」
「駄目に決まってるだろ」
やれやれ。六クローネのツケに、今月の家賃。足し算をすると頭が痛くなるので、やめておく。壁の外套を取ろうとした矢先、入口の扉が勢いよく開いた。
蝶番が嫌な音を立てる。あの音は木が軋んでいるのか、金具が悲鳴を上げているのか。どちらにせよ修繕が必要になるのは時間の問題だ。費用は俺に回ってこないことを祈る。
「先生、大変っすよ!」
レーネだ。栗色の髪を雑に束ねたまま、息を切らしている。頬が赤い。中層区の自宅からここまで全力で走ってきたのだろう。この小柄な助手は、静かに扉を開けるという概念を持ち合わせていない。助手にした覚えもないのだが、いつの間にか居ついてしまった。
「……おはよう」
「おはようじゃないっすよ! 港区で荷物が行方不明になったんすけど——」
「待て。扉を閉めろ。冷える」
レーネが舌打ちしつつ扉を閉める。冷たい風の流入が止まって、店内にスープと薪の匂いが戻ってきた。マルタが何も言わずに白湯の入った椀をカウンターに置いた。こういう気の利かせ方は、さすがに長年酒場をやっている人間だと思う。レーネはそれを一息に半分飲んで、ようやく人間らしい呼吸に戻った。
「で?」
「港区の倉庫で、アシュガルの商人の荷が消えたらしいっす。昨日の夕方に入港した船の積み荷で、今朝確認したら一部がない、と」
「それは冒険者ギルドの仕事だろう。盗難なら衛兵、調査なら——」
「それが、その商人がギルドじゃなくて先生を名指しで頼みたいって言ってるんすよ」
外套に伸ばしかけた手が止まった。
名指し。ギルドを通さず、直接俺を。
レーベンで仲介屋をやっている人間は俺だけではない。だが、アシュガルの商人がわざわざギルドを避けて個人を名指しにする。そんなやり方をする理由があるとすれば、二つだ。以前に仕事をしたことがあるか、誰かに紹介されたか。前者なら覚えがないし、後者なら誰が紹介したかが問題になる。どちらにしても、普通のやり方ではない。
「報酬は」
「十クローネ。前払いで半額っす」
十クローネ。家賃の三分の二。マルタのツケ六クローネを返しても四クローネ残る。荷物の行方不明案件にしては気前がいい。小規模の依頼なら二、三クローネが相場だ。気前が良すぎる、と言ってもいい。
面倒の匂いがする。
だが、面倒の匂いがしない依頼で十クローネが転がり込むことなど、この街では起きない。
「わかった。行く」
外套を引っかけて、裏地のほつれを指で確認する。まだ持つ。たぶん。
「先生、あたしも行くっすよね?」
「好きにしろ。ただし港区までは歩きだ。駕籠を雇う金はない」
「歩きで十分っすよ。中層区から港区なんて大した距離じゃないっす」
レーネが残りの白湯を飲み干して、ぱっと立ち上がった。こういう時の反応だけは妙に早い。十九の脚は中層区から港区まで走っても息が切れる程度で済むが、三十八の脚はそうもいかない。歩きで行くのは金のためだけではない。
扉に手をかけた俺の背中に、マルタの声が飛んできた。
「ヴェルナー」
振り返ると、マルタは食器を拭く手を止めないまま、いつもの調子で言った。
「あの商人、ちょっと訳ありだよ」
「……何か知ってるのか」
「勘だよ、勘。あたしの勘はそこそこ当たるんだ。知ってるだろ」
知っている。マルタの勘は「そこそこ」どころではない。何年も冒険者として修羅場をくぐってきた人間の嗅覚は、酒場の女主人になった今でも錆びついてはいない。あの目で酒場に来る客を毎日見ているのだ。人を見る目は確かだ。
だが、十クローネだ。マルタの勘と俺の懐事情を天秤にかけた結果、懐事情が勝った。いつものことだ。
「行ってくる」
「はいはい。晩飯までには帰んなよ」
灰色猫亭を出ると、萌月の冷たい風が頬を撫でた。通りの石畳は朝露で湿っていて、水たまりに薄い朝日が反射している。遠くに河港の方角から荷馬車の車輪が石を噛む音が聞こえてくる。冬の間は凍りついていた河が動き出し、船が戻ってきた。交易シーズンの始まりだ。街に金が流れ込み、金が流れれば厄介事が起き、厄介事が起きれば俺のような半端者にも仕事が回ってくる。
名指し、か。面倒の匂いしかしない。
外套の襟を立てて、隣を小走りについてくるレーネに目をやった。
「先生、どんな商人なんすかね」
「さあな。会えばわかる」
港区へ向かって歩き出した。
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