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第四話|基準になる

 その職場には、最初から決まりがあった。


 誰が決めたのかは、分からない。

 いつからあったのかも、誰も知らない。

 ただ、そうするとうまく回る、という形だけが残っている。


     *


 新人は、最初の朝にそれを教えられる。


 「そこ、立たないで」


 指示は短い。

 理由は添えられない。


 新人は一歩ずれる。

 言われた通りにする。

 すると、人の流れが滑らかになる。


 台車が詰まらない。

 声が重ならない。

 無駄な立ち止まりが消える。


 新人は首を傾げるが、聞かない。

 聞く必要がないことは、身体が先に理解している。


     *


 配置表に、その場所の名前はない。


 番号もない。

 担当もない。


 ただ、空いている。


 空いているという状態が、すでに完成している。

 埋める前提がない空白は、欠員ではない。


 欠員なら補充する。

 ここは、補充しない。


     *


 昼前、外部の応援要員が入る。


 現場を見渡し、動線を確認し、言う。


 「……ここ、なんで空いてるんです?」


 現場の人間は、少し考えてから答える。


 「空いてた方が早いんで」


 それ以上の説明は出ない。

 それで十分だからだ。


 応援要員は一度だけその場所に近づき、

 無意識に一歩下がる。


 理由は分からない。

 だが、下がった方が正しい気がする。


 正しい気がする、という感覚は、判断ではない。

 もう結果だ。


     *


 マニュアルが更新される。


 新しいページが差し込まれる。

 書式は他と同じ。


 「動線を塞がないこと」

 「立ち止まらないこと」


 その下に、図がある。


 通路。

 人の矢印。

 避けられた一点。


 説明文はない。

 図だけで、全員が同じ動きを取る。


 同じ動きが取れるなら、理解は不要だ。


     *


 監査が入る。


 防犯カメラの映像が再生される。


 人は映る。

 物も映る。

 掲示物も映る。


 問題はない。


 ただ、ある一点で、

 人の流れが必ず同じ形に割れる。


 監査担当者は言う。


 「ここ、癖がありますね」


 癖。


 それは、修正対象ではない。

 再現性がある限り、仕様に近い。


 仕様なら、残す。


     *


 夕方。


 人が帰り始める。


 最後の一人が通路を通るとき、

 自然に、その場所を避ける。


 誰も教えていない。

 だが、全員が同じ避け方をする。


 避けられる位置は、もはや物と同じだ。

 物よりも扱いやすい。


 動かない。

 主張しない。

 説明を要求しない。


     *


 清掃が入る。


 モップが床を滑る。

 例の位置で、わずかに角度が変わる。


 清掃員は気にしない。


 引っかからないように動かしただけだ。

 それで済む。


 床の癖として処理される。

 処理されると、記録は要らない。


     *


 掲示板に、短い紙が貼られる。


 「ここに立たないこと」


 理由は書かれない。

 期限もない。


 剥がされない紙は、注意ではない。

 景色だ。


     *


 翌朝。


 新人が一人、早く来る。


 誰もいない玄関で、

 マットの前に立ち止まる。


 なぜか、進めない。


 進まない方がいい気がする。

 そう思った瞬間、身体が横にずれる。


 自動ドアが開く。

 風が入る。

 流れは、最初から正しい形を取る。


 新人は、何も考えずに歩き出す。


     *


 その場所は、今日も使われない。


 だが、なくならない。


 避けられることで、

 流れを決め、

 正しさを固定している。


 名前はない。

 役割もない。


 それでも、必要だ。


 必要なものは、説明されない。

 説明されないものは、疑われない。


     *


 今日も、職場は回る。


 欠員はない。

 過不足もない。


 ただ、基準がある。


 そこに立たないこと。

 それだけで、すべてがうまくいく。


 それが、誰か一人分の存在だったことを、

 知る理由は、もうどこにもなかった。

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