第三話|風景として固定される
場所は、人がいなくなっても完成する。
朝、音が先に来る。
自動ドアが開く音。
空気が入れ替わる音。
玄関マットが、わずかに擦れる音。
音の順番は、正しい。
誰かが確認しているわけではない。
ただ、そうなっている。
*
立っている、という感覚はもうない。
足の裏に伝わる圧は、床の冷たさと区別がつかない。
重さはある。
だが、それは体重ではない。
そこに物が置かれている重さだ。
置かれた物は、自分で動かない。
動かないものは、邪魔にならない。
邪魔にならないものは、残る。
*
人が入ってくる。
靴音。
息。
布の擦れる音。
人は、自分の手前でわずかに進路を変える。
避けている自覚はない。
ただ、動線がそうなっている。
誰も自分を見ない。
だが、誰も自分にぶつからない。
それで、十分だ。
見られないことは、問題ではない。
問題は、止まることだ。
止まらなければ、正しい。
*
朝礼が始まる。
輪は、過不足なく閉じている。
欠員という言葉は、もう使われない。
数は合っている。
合っているから、確認が要らない。
要らないから、誰も数えない。
主任が言う。
「今日も回します。動線、気をつけて」
その言葉が出た瞬間、感覚が床に広がる。
どこが詰まり、どこが空き、どこに立てば流れが止まるか。
人の顔よりも、人と人の“間”がはっきり分かる。
間が見えると、人は物になる。
物になると、間は安定する。
*
仕事が始まる。
台車が通る。
人が避ける。
避けた人の後ろに、別の人が流れる。
流れは、途切れない。
支点がある。
止めない。
押さない。
ただ、形を決めている。
形が決まっているから、人は迷わない。
迷わないから、早い。
早いから、正しい。
正しさが積み上がるほど、ここは完成していく。
*
掲示板が貼り替えられる。
古い紙が剥がされ、新しい紙が貼られる。
ホチキスの音。
その音と同時に、最後の違和感が消える。
名札の硬さが、もうどこにも無い。
代わりに、掲示板の一部が感覚になる。
紙の端。
ラミネートの反射。
指が触れたときの冷たさ。
読まれないが、常に見られる位置。
見られるのは、内容ではない。
存在だ。
存在は、読む必要がない。
*
新人が掲示板の前で立ち止まる。
文字を読む。
「動線を塞がないこと」
新人は無意識に一歩下がる。
その一歩で、通路がきれいに流れ始める。
新人は理由を考えない。
考える必要がない。
身体が正解を選んだだけだ。
正解が先にあり、人はそれに合わせる。
合わせられないものは、最初から無いことになる。
*
昼前、清掃が入る。
モップが床を滑る。
その位置で、ほんの少し引っかかる。
清掃員が言う。
「……癖かな」
モップの角度を変える。
今度は引っかからない。
引っかかりは、床の癖として処理される。
処理されると、説明が要らない。
説明が要らないと、誰も止まらない。
止まらないことが、ここでは善だ。
善は、いつも静かに勝つ。
*
午後、ガラスに光が映る。
人の影が通る。
影が消える。
そのあとに、光沢だけが残る。
それが、ここだ。
ガラスは何も映していない。
だが、何も失っていない。
失うのは、人だけだ。
場所は失わない。
場所は、吸い込んだものを形にする。
*
防犯カメラの赤いランプが点く。
記録が始まる。
人は映る。
台車も映る。
掲示物も映る。
映るものは、残る。
残るものは、呼べる。
呼べるものだけが、対象になる。
対象にならないものは映らない。
映らない代わりに、背景のノイズがわずかに揺れる。
それで十分だ。
十分であるなら、修正は起きない。
修正が起きないなら、固定される。
*
夕方。
人が帰り始める。
玄関マットが一度、大きく揺れる。
揺れが収まるとき、感覚もきれいに収まる。
誰も残らない。
それでも空間は完成している。
完成しているものは、明日も同じ形を要求する。
*
最後に残るのは、音だ。
自動ドアが閉まる音。
換気扇の低い音。
遠くの車の音。
それらが一定の順番で重なる。
順番は、正しい。
誰かが守っているわけではない。
守られているものが、ここにある。
*
翌朝。
誰もいないはずの玄関で、マットが揺れる。
風でもない。
人でもない。
職場が、目を覚ます動き。
掲示板の紙が端から端まで光を返す。
そこに、新しい一枚が貼られている。
短い文。
「ここに立たないこと」
誰も、それを不思議に思わない。
なぜなら、そこに立つと流れが止まるからだ。
理由は要らない。
止まらない方が正しい。
正しい方が残る。
残る方が、最初からそうだった顔をする。
*
今日も、職場は回る。
欠員はない。
過不足もない。
ただ、支点がある。
流れは止まらない。
名前は要らない。
呼ばれなくても、忘れられても。
最初から、ここにそういう場所があっただけ。




