表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第二話|物と役割に置換される

人が減っても、仕事が回るなら問題は起きない

 


 違和感は、翌朝からはっきり形を持ち始めた。

 玄関マットを踏んだとき、足裏に返る感触が昨日より深い。

 同じマット。

 同じ靴。


 だが、沈み込みが違う。

 まるで、自分の分の重さを床が覚え始めているみたいだった。

 覚えたなら、次は固定だ。

 固定されれば、動けなくなる。

 そういう順番を、身体だけが理解している。


     *


 ロッカー室で、鍵を差し込もうとして止まった。

 鍵穴が、ない。

 正確には「鍵穴があった場所」が滑らかな金属板になっている。

 削り取られた痕はない。

 最初から、そういう仕様だったみたいに整っている。

 隣のロッカーには鍵穴がある。

 その隣にも。


 自分の前だけが、穴を拒んでいる。

 同僚が後ろから言った。

 「そこ、空きですよ」

 声は自然だった。

 確認でも、疑問でもない。

 空きのロッカーを前に立っている人がいる。

 それだけの事実として処理している声だ。

 「いや、ここ……」

 言いかけて、言葉が止まる。


 “ここが自分のロッカーだった”


 その文が、頭の中で成立しない。

 成立させようとすると、声を出す前に喉が乾く。

 思い出すより先に、撤回したくなる。

 同僚は扉を軽く叩いた。

 「ほら、何も入ってないでしょ」

 その瞬間、扉の向こうの空気が伝わった。


 冷たい。

 乾いている。

 使われた形跡がない。

 空だ。

 自分の私物は、そこに無い。

 無いことに、驚けない。

 驚きは、まだ自分が自分であるときに出る反応だ。

 もう反応が遅れている。


     *


 予備棚に、名札が置かれていた。

 透明ケース。

 写真。

 薄い文字。

 忘れ物にしては、置き方が正確すぎる。

 誰かが「戻すべき場所」に戻したみたいに。


 それは善意ではない。

 整備だ。

 名札を手に取ると、指先に、はっきりした冷たさが伝わる。

 ケースが、皮膚より硬い。

 胸につける。

 安全ピンは、もう使わなくてよかった。

 布に触れただけで、名札が吸い付く。

 離そうとすると、制服の方が引っ張られる。

 名札は、着脱する物ではなくなっていた。

 痛くない。


 ただ、決まる。

 決まることは、ここでは正しい。

 迷いが減る。

 説明が減る。

 責任が薄くなる。

 その薄さが、少しだけ楽だった。

 楽だと思った自分を、いちいち叱る気力がない。


     *


 物品庫で、鍵を受け取る。

 台帳が開かれる。

 番号。貸出先。返却。

 係の職員が首をかしげる。

 「……あれ?」

 画面と紙を見比べる。

 「今日、もう借りてますよね?」

 台帳には、自分の字に酷似した文字がある。

 酷似、ではない。

 自分の筆圧だ。

 癖も、止める位置も、同じだ。


 だが、その字を「自分が書いた」と認識しようとすると、思考が弾かれる。

 指先だけが同意して、頭が拒否する。

 拒否が起きる場所が、記録の外側にある。

 係の職員は、何事もなかったように鍵を渡す。

 「じゃあ、これで」

 金属の重さが掌に沈む。

 重いのに、所有している感覚がない。

 借りたという事実だけが、勝手に発生している。

 事実が先で、自分が後だ。


     *


 現場では、誰も自分に指示を出さない。

 それなのに、やるべき場所は分かる。

 自分の足が自然に“空いている位置”へ向かう。

 誰かがそこに来ると、自分は一歩ずれる。

 声をかけられない。


 だが、邪魔にもならない。

 自分は人として扱われていないのに、機能としては最適だった。

 最適であることが怖い。

 最適であるほど、置換は進む。


 しかも、現場はそれを「助かる」と感じてしまう。

 助かることは、悪いことではない。

 ここでは、助かることが善だ。

 善である限り、止まらない。


     *


 昼過ぎ、事務室に呼ばれた。

 「制服の貸与記録が合わないんです」

 画面には貸与履歴の空白。

 空白なのに、制服はここにある。

 事務員が言う。

 「どこから出ました?」

 自分は答えられなかった。

 ロッカーは空だった。

 鍵穴も無かった。


 自分の言葉は、状況を説明する形にならない。

 形にならない言葉は、業務では使えない。

 事務員は少しだけ言葉を選んで言った。

 「……一度、防犯カメラ見ますね」

 選んだ言葉の先に、もう手順が決まっている。

 決まった手順は、感情を必要としない。


     *


 モニターに映る朝の映像。

 自動ドア。

 受付。

 マット。

 同僚が入る。

 新人が入る。

 自分が入る瞬間だけ、ドアが開いて、誰も映らない。

 マットの繊維だけが、人が通った形に倒れる。

 ロッカー室。

 名札が棚から浮く。

 胸の高さで止まり、ピンが留まる。

 そこには、何もない。


 事務員が息を吸い損ねた。

 「……ついてる」

 モニターの中で、“何もない場所”に名札だけが付いている。

 機械は嘘をつかない。

 嘘をつくのは人の説明だ。

 説明が追いつかないとき、人は処理に逃げる。

 処理は、いつも正しい顔をしている。


 自分は初めて理解した。

 記録が消えているのではない。

 自分が、記録の対象から外されている。

 外された対象は、戻す前提で扱われない。

 戻す前提がないものは、保管ではなく整理になる。


     *


 事務員が、小さく言った。

 「……じゃあ、残せないですね」

 その言葉は諦めでも拒絶でもない。

 処理結果だ。


 残す、という手順の前提条件を満たしていない。

 前提を満たしていないものは、例外ではなく、存在しない。


     *


 夕方、掲示板に新しい紙が貼られていた。

 「名指しは避けること」

 「役割で呼ぶこと」

 書式は他と同じ。

 最初からあったみたいに馴染んでいる。

 新人がその前で足を止める。

 「……便利ですね」

 その一言で、背中が冷えた。


 便利。

 合理的。

 安全。


 どの言葉も、ここでは正しい。

 正しさは、人を守るためではなく、流れを守るために使われる。


     *


 帰り際、ロッカー室の空席が増えている。

 鍵穴のない扉が三つ並んでいる。

 番号札は剥がされ、金属だけが揃っている。

 自分は迷わず一番端に立った。

 理由はない。


 そこが、正解の位置だった。

 正解の位置にいると、考えなくて済む。

 考えないと、苦しくない。

 苦しくないことが、また少しだけ楽だ。


 予備棚には名札が三つ並んでいる。

 どれも同じ顔。

 どれも同じ硬さ。


 同じ顔という事実が、恐ろしくない。

 恐ろしくないことが、恐ろしい。


 自分は、その一つを取った。

 胸に当てると、違和感が消える。

 自分が物になる方が、ここでは安定する。

 その理解が、何より怖かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ