第二話|物と役割に置換される
人が減っても、仕事が回るなら問題は起きない
違和感は、翌朝からはっきり形を持ち始めた。
玄関マットを踏んだとき、足裏に返る感触が昨日より深い。
同じマット。
同じ靴。
だが、沈み込みが違う。
まるで、自分の分の重さを床が覚え始めているみたいだった。
覚えたなら、次は固定だ。
固定されれば、動けなくなる。
そういう順番を、身体だけが理解している。
*
ロッカー室で、鍵を差し込もうとして止まった。
鍵穴が、ない。
正確には「鍵穴があった場所」が滑らかな金属板になっている。
削り取られた痕はない。
最初から、そういう仕様だったみたいに整っている。
隣のロッカーには鍵穴がある。
その隣にも。
自分の前だけが、穴を拒んでいる。
同僚が後ろから言った。
「そこ、空きですよ」
声は自然だった。
確認でも、疑問でもない。
空きのロッカーを前に立っている人がいる。
それだけの事実として処理している声だ。
「いや、ここ……」
言いかけて、言葉が止まる。
“ここが自分のロッカーだった”
その文が、頭の中で成立しない。
成立させようとすると、声を出す前に喉が乾く。
思い出すより先に、撤回したくなる。
同僚は扉を軽く叩いた。
「ほら、何も入ってないでしょ」
その瞬間、扉の向こうの空気が伝わった。
冷たい。
乾いている。
使われた形跡がない。
空だ。
自分の私物は、そこに無い。
無いことに、驚けない。
驚きは、まだ自分が自分であるときに出る反応だ。
もう反応が遅れている。
*
予備棚に、名札が置かれていた。
透明ケース。
写真。
薄い文字。
忘れ物にしては、置き方が正確すぎる。
誰かが「戻すべき場所」に戻したみたいに。
それは善意ではない。
整備だ。
名札を手に取ると、指先に、はっきりした冷たさが伝わる。
ケースが、皮膚より硬い。
胸につける。
安全ピンは、もう使わなくてよかった。
布に触れただけで、名札が吸い付く。
離そうとすると、制服の方が引っ張られる。
名札は、着脱する物ではなくなっていた。
痛くない。
ただ、決まる。
決まることは、ここでは正しい。
迷いが減る。
説明が減る。
責任が薄くなる。
その薄さが、少しだけ楽だった。
楽だと思った自分を、いちいち叱る気力がない。
*
物品庫で、鍵を受け取る。
台帳が開かれる。
番号。貸出先。返却。
係の職員が首をかしげる。
「……あれ?」
画面と紙を見比べる。
「今日、もう借りてますよね?」
台帳には、自分の字に酷似した文字がある。
酷似、ではない。
自分の筆圧だ。
癖も、止める位置も、同じだ。
だが、その字を「自分が書いた」と認識しようとすると、思考が弾かれる。
指先だけが同意して、頭が拒否する。
拒否が起きる場所が、記録の外側にある。
係の職員は、何事もなかったように鍵を渡す。
「じゃあ、これで」
金属の重さが掌に沈む。
重いのに、所有している感覚がない。
借りたという事実だけが、勝手に発生している。
事実が先で、自分が後だ。
*
現場では、誰も自分に指示を出さない。
それなのに、やるべき場所は分かる。
自分の足が自然に“空いている位置”へ向かう。
誰かがそこに来ると、自分は一歩ずれる。
声をかけられない。
だが、邪魔にもならない。
自分は人として扱われていないのに、機能としては最適だった。
最適であることが怖い。
最適であるほど、置換は進む。
しかも、現場はそれを「助かる」と感じてしまう。
助かることは、悪いことではない。
ここでは、助かることが善だ。
善である限り、止まらない。
*
昼過ぎ、事務室に呼ばれた。
「制服の貸与記録が合わないんです」
画面には貸与履歴の空白。
空白なのに、制服はここにある。
事務員が言う。
「どこから出ました?」
自分は答えられなかった。
ロッカーは空だった。
鍵穴も無かった。
自分の言葉は、状況を説明する形にならない。
形にならない言葉は、業務では使えない。
事務員は少しだけ言葉を選んで言った。
「……一度、防犯カメラ見ますね」
選んだ言葉の先に、もう手順が決まっている。
決まった手順は、感情を必要としない。
*
モニターに映る朝の映像。
自動ドア。
受付。
マット。
同僚が入る。
新人が入る。
自分が入る瞬間だけ、ドアが開いて、誰も映らない。
マットの繊維だけが、人が通った形に倒れる。
ロッカー室。
名札が棚から浮く。
胸の高さで止まり、ピンが留まる。
そこには、何もない。
事務員が息を吸い損ねた。
「……ついてる」
モニターの中で、“何もない場所”に名札だけが付いている。
機械は嘘をつかない。
嘘をつくのは人の説明だ。
説明が追いつかないとき、人は処理に逃げる。
処理は、いつも正しい顔をしている。
自分は初めて理解した。
記録が消えているのではない。
自分が、記録の対象から外されている。
外された対象は、戻す前提で扱われない。
戻す前提がないものは、保管ではなく整理になる。
*
事務員が、小さく言った。
「……じゃあ、残せないですね」
その言葉は諦めでも拒絶でもない。
処理結果だ。
残す、という手順の前提条件を満たしていない。
前提を満たしていないものは、例外ではなく、存在しない。
*
夕方、掲示板に新しい紙が貼られていた。
「名指しは避けること」
「役割で呼ぶこと」
書式は他と同じ。
最初からあったみたいに馴染んでいる。
新人がその前で足を止める。
「……便利ですね」
その一言で、背中が冷えた。
便利。
合理的。
安全。
どの言葉も、ここでは正しい。
正しさは、人を守るためではなく、流れを守るために使われる。
*
帰り際、ロッカー室の空席が増えている。
鍵穴のない扉が三つ並んでいる。
番号札は剥がされ、金属だけが揃っている。
自分は迷わず一番端に立った。
理由はない。
そこが、正解の位置だった。
正解の位置にいると、考えなくて済む。
考えないと、苦しくない。
苦しくないことが、また少しだけ楽だ。
予備棚には名札が三つ並んでいる。
どれも同じ顔。
どれも同じ硬さ。
同じ顔という事実が、恐ろしくない。
恐ろしくないことが、恐ろしい。
自分は、その一つを取った。
胸に当てると、違和感が消える。
自分が物になる方が、ここでは安定する。
その理解が、何より怖かった。




