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第一話|記録から外れる

これは、ある職場で起きた「誰にも問題にされなかった出来事」の記録である。



 朝の駅前は、決まった匂いがする。


 揚げ油。湿ったコンクリート。自動ドアの冷気。


 人の流れは毎日同じ角度で折れ、同じ速度で職場へ吸い込まれていく。


 自分も、その流れの一部だった。

 少なくとも、今日の朝までは。


     *


 玄関マットを踏む。

 靴底の砂がわずかに鳴る。


 受付の蛍光灯は、もう完全に目を覚ましている。

 ロッカーへ向かう前に、出勤簿を開く。


 これは癖だ。


 名札を付けるより先に、紙を見る。

 見開きの左に名字、右に印鑑欄。


 五十音順。


 何年も変わっていない配置。


 自分の名字の位置だけが、白かった。

 一瞬、目が滑ったのだと思った。


 もう一度、指でなぞる。


 上の行には同僚の名前。

 下の行にも、別の同僚の名前。


 空白は、そこだけだ。

 ページをめくる。


 昨日の分。

 先週の分。

 先月の分。


 どこにも、自分の名前がない。


 紙は新しいわけではない。

 インクのにじみも、折り目も、すべて昨日の続きだ。

 ただ、そこだけが「印刷されなかった」みたいに抜けている。


 背中に、薄い寒気が走る。


 だが、朝は待たない。


 自動ドアが開き、同僚が入ってくる。


 「おはようございます」という声が重なる。


 自分は、ペンを取った。

 空白に、自分の名字を書いた。


 書き始めてから、ほんの一瞬だけ手が止まった。

 最後の一画をどう払うか、思い出すのに時間がかかった。


 そんなことは今まで一度もなかった。

 それでも書けた。


 その横に、印鑑を押した。

 赤は、はっきり残った。


 それで終わりだと思った。


     *


 朝礼は短い。


 連絡事項。注意事項。欠勤者の共有。


 誰が来ていないかより、何人足りないかが重要だ。

 主任が言った。


 「今日は一名、遅れてます。後で合流するでしょう」


 誰のことかは言わない。

 皆も聞かない。

 遅れる人間は珍しくない。


 重要なのは、現場をどう回すかだ。


 自分は、その輪の中に立っていた。

 名札も付けている。

 制服も着ている。


 なのに「一名遅れている」という言葉が、自分の足元にだけ薄く沈んだ。


 主任は目線を動かす。

 人数を数える目線ではない。

 配置を思い浮かべる目線だ。


 そして、その目線は自分の位置を通り過ぎる。

 朝礼が終わり、皆が散る。


 自分も動く。


 誰も不自然な反応はしない。

 誰も自分を避けない。


 ただ、視線が少しだけ早く流れる。

 その速さは、混雑のせいにできる速さだ。


     *


 午前の業務は、問題なく進んだ。


 声をかければ返事がある。

 手順を踏めば作業は終わる。


 自分の体は、何一つ失敗しない。


 だが、記録だけが噛み合わない。

 チェック表の担当欄に名前を書く。


 次に見たとき、文字が薄い。

 消えてはいない。


 ただ、主張していない。


 ペンでなぞる。

 太くする。

 安心する。


 数分後、また薄くなる。

 紙は乾いている。


 誰も触っていない。

 空調の風も当たっていない。


 薄くなる理由だけが、どこにも発生していない。


 自分は理由を探さなかった。


 探すと、現場が止まる。


 現場を止めることは、ここでは正しくない。

 正しさは、仕事を回すことにしか置かれていない。


     *


 昼前、配置表を見た。


 壁に貼られた紙。

 担当と名前が並ぶ。


 自分の持ち場には、「未定」と書かれていた。


 そこに、午前中ずっと自分は立っていた。


 主任に声をかける。

 「今日、自分ここでいいですよね」


 主任は、悪気なく首を傾げた。

 「……ああ。誰か入ってたね。動けてるならそのままで」


 誰か。

 その言い方が、妙に便利だ。


 名前を呼ばない代わりに、現場は止まらない。

 便利さの方が、現実より優先される。


     *


 事務室で確認を取ることにした。


 紙と画面が並ぶ場所。

 現実が、文字に変換される場所。


 事務員は画面を操作しながら言った。


 「登録はありますね。写真も……あります」


 ほっとする。


 その息の抜け方が、自分のものではないみたいに遅れた。


 だが、次の言葉が続いた。


 「でも、今日の出勤処理が入ってない」

 「出勤簿には押しました」

 「紙の方ですか」


 ファイルが出される。

 出勤簿が開かれる。


 朝、確かに押したはずの印鑑が、ない。

 空白だ。


 赤はどこにも残っていない。

 押した感触だけが、指先に残っている。

 残っているのに、紙は平らだ。


 事務員は少し困った顔でペンを差し出す。


 「もう一度、お願いします」


 自分は書いた。


 名字。

 印鑑。


 今度は、強く押した。

 紙が少し沈む。


 押し痕が出るくらい沈む。

 沈んだなら残るはずだと、身体が思っている。


 事務員は頷いた。


 「反映させますね」


 その言葉で、ひとまず現実は戻った気がした。

 気がしただけだった。


     *


 午後。


 現場は忙しくなる。

 人が足りない。


 だが、作業は回る。

 誰かが多めに動き、誰かが少し早く動き、帳尻が合う。


 自分が動いた分も、その「誰か」に含まれているはずだった。


 配置表の更新版が貼られる。

 自分の場所は、「欠員」に変わっていた。


 欠員。

 人ではない言葉。


 主任が言う。


 「欠員一名。回すぞ」


 その言葉は現場を落ち着かせる。


 欠員なら、代替で済む。

 人なら、説明が必要になる。


 自分は、何も言えなかった。

 言えば、止まる。


 止める理由が、もうない。

 止める自分の資格が、どこにも記録されていない。


     *


 帰り際、ロッカーの前で立ち止まった。


 鍵を開ける。

 中はいつも通りだ。

 制服を脱ぎ、私服に着替える。


 ポケットの感触も、財布の重さも、変わらない。

 変わらないはずなのに、一日分の手応えだけが残らない。


 仕事をした記憶はある。


 だが、「今日いた」という感覚が薄い。


 笑った顔も、言った言葉も、誰の返事も、全部そこにあったのに、裏面がない。


 自分の行動だけが、表だけで終わっている。

 ロッカーを閉める。


 鍵を回す音が、少し大きく聞こえた。

 大きいのではなく、他の音が減っている。


 自分が拾える音だけが、露骨に残っている。


     *


 玄関を出ると、夕方の匂いがした。


 朝と同じなのに、少しだけ違う。

 油が冷え、風が重い。


 振り返る。


 職場は、何も変わっていない。

 看板も、照明も、配置も。


 ただ、一人分の重さが、最初から無かったみたいに静かだった。


 それでも、職場は回る。


 問題なく。


 問題なく回る、という事実だけが、胸の奥にゆっくり沈んでいった。

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