名前を呼ばれなくなった日。
「久しぶりにあの夢を見たわね……。ルーカス、元気かしら」
ルーカスが叫んでから、数年――
七歳だったヘルミーナも、気づけば十五歳になっていた。
一年後には、アルファルズ学園に通う年齢になる。
「あれから、急に会ってくれなくなっちゃったし」
毎週のように会って、当たり前のように遊んでいた時間は、気づけば、いつの間にかなくなっていた。
「たまに見かけても、声かける前にいなくなっちゃうのよね~」
街中でルーカスを見つけても、一瞬だけ視線が合ってから、すっと逸らされる。
それが、増えていた。
「私……何か、変なことしたのかしら……」
鏡台の前に座り、自分の顔を見ながら、ため息を吐く。
そして、両手の人差し指で頬をグイッと持ち上げた。
「しょげてる顔より、笑顔の方が全然いいわ!!」
目の前の自分を見て、頬をパチンと叩く。
「それに……今日は、久しぶりにお茶会で会えるって聞いてるし!」
胸の奥に、小さな期待が灯る。
「久しぶりに会うのだから、ビックリしてもらわないとね」
期待を胸に、クローゼットからドレスを何着か取り出し、自分の体に合わせていく。
「ん~、せっかくのお茶会だし、春だから~……このあたりがいいわよね」
淡い黄色や、ピンク、水色の、さまざまなドレス。
仕立て屋を営む母から教わり、型取りからすべて自分で作ったドレスを眺める。
「この刺繍は夏っぽいかしら。濃い青の蝶々も綺麗なんだけど……今日はやっぱり、こっちね」
手に取った淡い黄色のドレスが、着てもらえることを喜ぶように、ふわりと揺れた。
最後の仕上げにイヤリングをつけると、小さく息を吐く。
「うん! 完璧ね」
コンコン――
「ミーナ。そろそろ行く時間だぞ?」
「準備はできたぁ~?」
ヘルミーナが準備を終えるのを知っていたかのように、タイミングよく父と母が声をかけてきた。
二人の緊張感のない言葉に、ヘルミーナも「は~い」と緩く返し、扉を開く。
「お待たせいたしました。お父様、お母様」
二人はヘルミーナを見た瞬間、ハッと息を呑んだ。
光を受けると、青や紫を帯びて透ける白銀の髪が、風に揺れるたび淡く霞む。
薄氷色の瞳と、儚い一重のまなざしは、美しいはずなのに、ふと目を離すと、そこにいたことさえ忘れてしまいそうだった。
その場にいた誰もが、言葉を失う。
そして次の瞬間、母の声が響いた。
「まぁ~、まぁ~、まぁ~」
母のリネッサは、バシバシとヴァリオンの肩を叩きながら、目に涙を浮かべている。
「綺麗になったわね。これならルーカス君も、きっと振り向いてくれるはずよ」
ヘルミーナはリネッサの言葉を聞き、頬を紅く染めると、ふわりと微笑んだ。
「だといいな……」
その言葉には、期待と不安が、同じだけ混じっていた。
***
「さぁ~、着いたわよ」
馬車に乗って一時間――
「わぁ~、おおきい~!!」
馬車から出れば、お城並みに大きな屋敷が立っていた。
「ふふ……ミーナは、あまり外に出ることがなかったものね~」
キョロキョロと物珍しいものを見てソワソワしていれば、たくさんの人が集まってくる。
「スヴァルドレーン男爵。お久しぶりでございます」
「スヴァルドレーン男爵夫人は、今日もお美しいですね。そのドレス……新作ですか?」
(爵位が高いわけじゃないのに……二人とも人気ね)
二人の外向きの笑顔を見て、ヘルミーナは「面倒臭そうだなぁ」と思うと、足音を立てないように、その場から離れた。
「この中にいたら、大丈夫でしょ」
人があまりいないところで周りを見渡していると、少女たちが楽しそうに話しているのが見える。
(楽しそう~。私も話しかけたら、友達できるかなぁ~)
心の中でシミュレーションはするものの、なかなか自分から話しかけることができないヘルミーナ。
何度も声をかける練習をするが、足はその場に縫い止められたままだった。
「あの布……綺麗ね。どこのかしら」
「あの刺繍、すごい細かいわ。私もいつか、あんな刺繍ができるようになるかしら」
ヘルミーナは、少女たちが身にまとう真新しいドレスを眺めていたが、誰一人として、ヘルミーナに近づいてくる者はいない……。
(こういう時は、やっぱり自分から話しかけないといけないのね……)
ヘルミーナは、ぎゅっと胸の前で手を握って頷くと、誰かが自分を見ていることに気づいた。
「……ルーカス……」
その視線の先にいたのは、ルーカスだった。
しかし、ルーカスはスッと視線を逸らす。
それはまるで――
そこに、最初から誰もいなかったかのように。
(今、目が合った気がしたんだけど……気のせいかな……)
ヘルミーナはルーカスを凝視するが、彼は一向にこちらを見る気配はなかった。
そんな時、
ルーカスの周りに、友人たちが集まってきた。
(あっ、あの人たち……あの時の……)
「おい、また変なところ見てなかったか?」
「やだ、また?」
皆がそれぞれ話す言葉に、ルーカスは一言――
「見てない」と返した。
そして少し経ってから、ヘルミーナは疑問に思っていたことを考える。
(あれ……?)
胸の奥に、小さな違和感が残る。
けれど、その正体が何なのかは、まだわからなかった。
(……気のせい、よね)
そう思うことにして、ヘルミーナはカップに手を伸ばす。
紅茶は、少しだけ苦かった。
その違和感が、後にすべてを変えるとは、この時の彼女はまだ知らなかった。




