本当の悪役は……!?
「行くぞ。」
「ダーリン様。」
リルベーラがサロンで準備を終え、会場へ向かうと、すでにダーリンが姿を現していた。
(はぁ……最悪の相手と、最悪のタイミングで顔を合わせることになるなんて。
すごく不機嫌だし……)
「承知いたしました。」
仕方なくダーリンの腕をつかむと、それを見ていた人々が、ひそひそと話し始める。
「ダーリン様、かわいそう~……」
「あれが噂の女? 確かに目つき悪いし、ローゼンクラフトさんとは大違いね。」
「ローゼンクラフトさんに嫉妬して、階段から突き落としたんでしょ~?」
「確かに婚約者がいる相手に手を出すのはどうかと思うけど……
そこまでしなくてもいいのにね~。」
その一つ一つの言葉が、肌に突き刺さるようだった。
けれど――
反論すればするほど、事態が悪化することを、リルベーラはもう知っている。
(言い返しても……余計に助長するだけよね。)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
それでも顔には何も出さず、ダーリンに気づかれないよう、小さく息を吐いた。
それが、今のリルベーラに残された唯一の武器だった。
そのまま、黙って場内へ足を踏み入れる。
「もう十分だろう。ここからは、お前ひとりで行け。」
場内に入った瞬間、ダーリンはリルベーラの手を乱暴に引き剥がし、そのまま肩を押した。
(……痛っ。女性の扱いを、もう少し学んだ方がいいわよ。)
ダーリンは何事もなかったかのように、周囲に背を向ける。
(本当に……これでトラヴァルドの王子なんて、聞いてあきれるわね。)
「黙って立っていればいいと思ってるんだろ?」
背中越しに、周囲には聞こえない低い声で囁かれる。
「どうせ、お前は家の言いなりだ。
俺に逆らうことも、ここで恥をかくことも――最初から許されていない。」
言葉は静かだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
リルベーラは、噛みしめそうになる唇を扇子で隠し、同時に鋭く睨む。
「ふん……そんな顔で見たって、何も言えないんじゃ意味がないな。」
鼻で笑うように言い捨てると、ダーリンはそのまま去っていった。
残されたリルベーラは、しばらくその場に立ち尽くす。
(言い返したら面倒だから、言い返さないだけなんだけど。)
本当は――
言い返して体力を削られるくらいなら、何も言わない方がましだと思っているだけだ。
(……それに、私、間違ったことしていないし……。)
その小さな確信を胸に押し込み、リルベーラは静かに顔を上げた。
その瞬間――
すっと、後ろから男の声がかけられた。
「あなたが、リルベーラさんですか?」
グレーがかった銀色の髪。
氷を少し濁らせたような、冷たい瞳。
初めて見る男性に、リルベーラは思わず首を傾げる。
「あぁ……すみません。名乗り遅れましたね。
ヘルミーナと言えば、わかるでしょうか?」
(ヘルミーナ……。)
この学園で、ヘルミーナの存在を知っている者は限られている。
その名を聞いた瞬間、リルベーラは思わず顔をしかめた。
「あぁ、そんな怖い顔をしないでください。
私はヘルミーナの兄。グレイン・スヴァルドレーンと申します。
いつもヘルミーナと仲良くしてくださり、ありがとうございます。」
「えっ!?
ヘルミーナのお兄様……ですか!?」
ヘルミーナの名を聞き、胸の奥で何かが引っかかる。
(……本当に、信じていいのかしら……?)
だが少なくとも――
目の前にいるグレインが、誰かを騙そうとしているようには見えなかった。
***
「グレイン。
わざとリルベーラに近づいて、親密そうな雰囲気を出してくれ。」
ヘルミーナは、いつもより低い声で中性的な響きを作り出す。
「え……!? 俺がやるのか……?」
ヘルンになりきったヘルミーナが、ぎろりと睨む。
(はぁ……元から俺を巻き込むつもりだったんだな。)
「あの……グレイン様、何かありました?」
リルベーラから見れば、グレインが独り言を言っているようにしか見えないのだろう。
不思議そうな顔で、こちらを見ている。
「いえ、なんでもありません。
それより、よろしければ二人で話でもしませんか?」
口元をわずかに引きつらせながら、リルベーラの手を取る。
「えっと……構いませんが、私でよろしいのですか?」
周囲を気にするように視線を走らせるリルベーラ。
噂話は聞こえづらくなったものの、完全に消えたわけではない。
「はい。むしろ、あなたがいい。
ヘルミーナの普段の話も聞きたいですしね。」
安心させるように微笑み、そのまま飲み物のある方へとエスコートした。
すると――
まるでタイミングを計っていたかのように、視界の端がざわつく。
(来たな。)
足音と気配で察し、グレインは自然な動作で一歩前に出た。
取り巻きを連れたセレーネが、歪んだ笑みを浮かべて近づいてくる。
「あら~、リルベーラさん。お久しぶりね~。
ダーリン様という婚約者がいながら、新しい男と浮気?
本当に……見境のない女ですこと~。」
距離はおよそ二メートル。
その瞬間、グレインは迷いなくリルベーラの腕をつかみ、後ろへ下げた。
「お久しぶりですね、ローゼンクラフト先輩。
それで……ご用件はなんでしょうか?」
リルベーラは扇子で顔を半分隠し、静かに微笑む。
――何も言い返さない。
ただ、逃げない。
その態度が、火に油を注いだらしい。
セレーネは、さらに歪んだ笑みを浮かべ、赤い飲み物を手に取った。
「グレイン……来るぞ。」
背後から、ヘルンの低い声が届く。
と、同時に――
バシャッ!
セレーネは、わざと自分自身に飲み物をかけた。
「「「「きゃ~~~~~~!!」」」」
悲鳴が上がり、会場の視線が一斉に集まる。
赤い液体が、頭から滴り落ち、ピンク色のドレスを染めていく。
「あなた……やっていいことと悪いことがあるわよ!
これは、さすがにやりすぎよ!」
「そうよ! セレーネ様は何もしていないじゃない!」
取り巻きたちが、我先にとリルベーラを責め立てる。
――そして。
まるで用意されていたかのようなタイミングで、ダーリンが現れた。
「おい……リルベーラ。
またお前がやったのか?」
「……」
答えない。
いや、答えられなかった。
「やったのかって聞いているんだ!!」
乾いた音が、会場に響く。
バコッ――。
衝撃とともに、視界が大きく揺れる。
(……このままだと、床に倒れる。)
目を閉じた、その瞬間。
「大丈夫か。」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
床に当たる衝撃は、いつまでも来なかった。
「あ、あなたは……?」
ヘルンは一度ウィンクすると、リルベーラをグレインに預け、前へ出る。
「……ずっと、この時を待っていましたよ。お二人とも。」
その瞬間――
ヘルンの瞳の奥が、きらりと光った。
(……もしかして、ヘルミーナ……?)
ゆっくりとダーリンの前へ進み、腕をがしっと掴む。
「今のは、明らかな暴力ですよ?」
「ぼ、暴力だと!?
そんなわけないだろうが!
悪いのは、浮気をしていたこいつだ!!」
リルベーラを指さし、まくし立てるダーリン。
だが、ヘルンは眉一つ動かさない。
「――“浮気”、ですか。」
静かな声だった。
それだけで、場の空気がぴたりと張りつめる。
「証拠は?」
問い詰めるでもなく、責めるでもなく。
ただ、事実を確認するように。
「……は!?」
「今の暴力を正当化できるほどの証拠が、
この場にありますか?」
ダーリンは言葉に詰まる。
「い、いや……こいつが浮気をしたから……!」
「僕は、あくまで暴力について話しています。
浮気をしたからといって、暴力を振るっていい理由にはなりませんよね?」
掴んだ腕を、離さない。
力は込めていない。
だが――逃げられない。
「それとも、“噂”ですか?」
その瞬間、周囲の視線がダーリンからセレーネへと流れた。
「浮気が原因で暴力を振るったというなら、
あなたも人のことは言えませんよね。
目の前にいるセレーネさんと、堂々と浮気をしているのですから。」
セレーネは、思わず息を呑む。
「それと、セレーネさん。
本当にリルベーラさんに飲み物をかけられたのですか?」
ヘルンはコップを手に取り、軽く振った。
「この距離で、飲み物をかけるのは無理がありますよね。」
そう言って、飲み物を放つ。
――だが。
飲み物は、セレーネには届かなかった。
「……こういうことです。
仮にも私は男ですが、それでも届かない。
女性であるリルベーラさんなら、なおさらでしょう。」
床に視線を落とす。
「グラスが割れた跡もありませんし……可能性は低いですね。」
顔を上げ、セレーネを見下ろす。
「……で。
お二人とも、他に言いたいことはありますか?」
誰も答えなかった。
否――
答えられる者が、そこにはもういなかった。
沈黙こそが、すでに結論だった。
(やばい……時間が……!?)
次の瞬間、
先ほどまでそこにいたヘルンの姿は消えていた。
残されたのは、リルベーラとグレイン、
そしてダーリンとセレーネだけ。
「へぇ……面白いね、あの子。」
その一部始終を、静かに見ていた男が一人。
――その存在に、ヘルミーナはまだ気づいていなかった。




