第7話 小さな竜の来訪
身体が浮いた。
そう思った次の瞬間、視界が高速で流れた。
「つかまっていろ!」
耳元で怒鳴り声がする。
レオンハルト様の腕が、私の腰を力強く抱え込んでいた。
ドゴオオオオッ!!
背後で凄まじい轟音が響く。
土煙が津波のように追いかけてくるのが気配でわかった。
レオンハルト様は崩れ落ちる床を蹴り、窓枠を踏み台にして宙を舞った。
人間業じゃない。
まるで背中に羽が生えているかのような跳躍。
「……ッ!」
着地。
硬い地面の衝撃が来るかと思い、私は身を縮こまらせた。
けれど、衝撃は驚くほど柔らかかった。
ふわり。
何かがクッションになった感触。
目を開けると、そこは屋敷の前庭だった。
そして私の足元には、白く輝く毛並みの巨大な狼――のような獣が伏せていた。
「……召喚獣?」
獣は私たちが降りたのを確認すると、ふっと陽炎のように消えてしまった。
「おい、怪我はないか」
レオンハルト様が私を地面に立たせ、肩を掴んで顔を覗き込んでくる。
その瞳は、昼間見た時よりもずっと必死な色を帯びていた。
額から血が流れている。
瓦礫の破片が当たったのかもしれない。
「わ、私は……大丈夫です。でも、レオンハルト様、血が……」
「かすり傷だ。それより呼吸はどうだ。埃を吸い込んだか?」
「いえ、平気……です」
彼は私の無事を確認すると、大きく息を吐き、パッと手を離した。
そして厳しい顔で、背後の屋敷を振り返った。
私も恐る恐る振り返る。
「あ……」
言葉を失った。
屋敷の右半分。
私が寝床にしていた部屋があった東棟が、完全に崩れ落ちていた。
残っているのは瓦礫の山と、無惨に剥き出しになった柱だけ。
もし、あと数秒逃げるのが遅れていたら。
私はあの瓦礫の下で、肉の塊になっていたはずだ。
「……すまなかった」
ぽつりと、低い声が聞こえた。
え?
レオンハルト様を見る。
彼は拳を握りしめ、悔しそうに瓦礫を睨んでいた。
「俺の部下たちが、補修作業で柱に負荷をかけすぎたようだ。……完全にこちらの不手際だ」
謝罪。
あの『氷の召喚士』が、私に頭を下げている。
「い、いえ! 元々ボロボロでしたから……! 私が無事だったのは、レオンハルト様のおかげです」
私は慌てて首を振った。
責めるつもりなんて微塵もない。
むしろ、命を救ってくれた恩人だ。
レオンハルト様は私を一瞥し、何か言いかけたが、結局口を結んだ。
そこへ、騒ぎを聞きつけた騎士たちが半裸で飛び出してきた。
「団長!? 敵襲ですか!?」
「いや、屋敷が崩れた! ……おい、フィオナ嬢は!?」
「ここにいる! 全員、救護班を呼べ! 瓦礫の撤去作業は夜明けを待ってから行う!」
レオンハルト様の指示が飛ぶ。
現場は一気に慌ただしくなった。
私は騎士の一人に毛布を渡され、安全なテントの隅に座らされた。
震えが止まらなかった。
寒さのせいじゃない。
死の恐怖が、遅れてやってきたのだ。
自分の部屋を見上げる。
もう、ない。
掃除した床も、大切にしていたトランクも、全部埋まってしまった。
「……私、どうなるんだろう」
膝を抱える。
ここしか居場所がないのに。
その場所さえ、私は守れなかった。
翌朝。
空が白み始めると同時に、騎士たちが瓦礫の撤去作業を開始した。
私も手伝おうとしたけれど、「怪我人は座っててくれ」と止められてしまった。
私は手持ち無沙汰に、崩れた壁の周辺を歩いていた。
私のトランクが見つかるかもしれない。
あの中には、母の形見のロケットが入っているのだ。
ガレキの山に近づく。
石と木材が複雑に折り重なっている。
その時だった。
『……いたい……』
小さな声が聞こえた。
私は足を止めた。
誰かいるの?
騎士さん?
いいえ、違う。
この声の響き方は、人間じゃない。
頭の中に直接届く、あの感覚。
ドンと同じだ。
『……たすけて……つばさ……いたい……』
幼い子供のような、泣きそうな声。
瓦礫の奥深くから聞こえてくる。
私は周囲を見回した。
騎士たちは反対側で作業をしている。
レオンハルト様は指揮を執っていて、こちらには背を向けている。
私は声のする方へ、瓦礫を慎重に乗り越えて進んだ。
「どこ? どこにいるの?」
小声で呼びかける。
『……ここ……くらい……おもい……』
足元の、大きな石板の下だ。
かつて二階の床だった部分だろうか。
私は軍手をはめた手で、必死に石をどかそうとした。
重い。
びくともしない。
「ドン……近くにいる?」
心の中で呼びかける。
すると、地面の土がもぞもぞと動いた。
『……よう。生きてたか』
土の中から、ドンの顔がひょっこり現れた。
眠そうに欠伸をしている。
「お願い、この石を動かしたいの。中に誰かいるみたいなの」
『……あん? 誰かって……お、こりゃあ珍しい匂いがするな』
ドンは石板の下を嗅ぐと、驚いたように目を丸くした(穴を広げた)。
『……嬢ちゃん、下がれ。ちょいと退かすぞ』
ドンが石板に手を添える。
ノームの力を使えば、重い石も泥のように動くらしい。
ズズズ、と石板が横に滑っていった。
そこにいたのは。
「……トカゲ?」
埃まみれの、犬くらいの大きさの生き物。
全身が赤い鱗に覆われている。
背中には、蝙蝠のような小さな翼が生えていた。
けれどその翼は不自然に折れ曲がり、血が滲んでいる。
『……うぅ……』
生き物は弱々しく鳴き、私を見上げた。
トカゲにしては目が大きく、知性を感じさせる金色の瞳。
これは、ただのトカゲじゃない。
物語で読んだことがある。
鱗、翼、そして鋭い爪。
ドラゴンだ。
「嘘……どうしてこんなところに」
ドラゴンの幼体。
本来なら、もっと山奥の巣にいるはずの存在。
『……こわい……』
ドラゴンが身を縮こまらせた。
私のことを恐れているようだ。
私はしゃがみ込み、できるだけ優しい声を出した。
「怖くないわよ。痛いのね? 助けてあげる」
手を伸ばす。
ドラゴンは「シャーッ」と威嚇音を上げたが、火を吐く元気もないらしい。
私の手が頭に触れると、ビクッとして、それから大人しくなった。
『……あったかい……』
私の声が、私の体温が、彼に伝わったみたいだ。
どうしよう。
騎士たちに見つかったら、間違いなく討伐されてしまう。
ドラゴンは危険な魔物だ。
たとえ子供でも、見逃してくれるはずがない。
「ドン、手伝って。この子を私のテントまで運びたいの」
『……おいおい、正気か? そいつは竜だぞ。親が出てきたら国ごと焼かれるぞ』
「親はいないみたい。怪我をして迷い込んだのよ。放っておけないわ」
『……嬢ちゃんは、お人好しが過ぎるな』
ドンは呆れたように肩をすくめたが、拒否はしなかった。
私は自分のエプロンを外し、ドラゴンに被せた。
ボロ布の束に見えるように偽装する。
「じっとしててね。いい子だから」
ドラゴンを抱き上げる。
思ったより重い。
温かい血の感触が、服に染みてくる。
私は周囲を警戒しながら、こっそりと自分のテントへと戻った。
騎士たちは作業に夢中で、誰も私を見ていない。
レオンハルト様も、図面を広げて部下と話し込んでいる。
セーフだ。
テントの中に滑り込み、ドラゴンを毛布の上に寝かせる。
エプロンを取ると、傷口が痛々しかった。
翼の骨が折れているかもしれない。
『……いたい……』
涙目のドラゴンが、私の指に頬を擦り付けてくる。
甘えている。
なんて可愛いんだろう。
「大丈夫。すぐに治してあげるからね」
私はトランク――奇跡的にテントに運び込まれていた――から、救急箱を取り出した。
消毒薬と包帯。
人間用だけど、効くはずだ。
「染みるけど、我慢してね」
傷口を洗う。
ドラゴンが「キューッ」と小さく鳴いた。
「よしよし、偉いわね」
手際よく包帯を巻いていく。
昔、怪我をした小鳥の手当をしていた経験が役に立った。
処置を終えると、ドラゴンは安心したのか、私の膝に頭を乗せて目を閉じた。
規則正しい寝息が聞こえてくる。
その寝顔を見ていると、胸の奥が温かくなるのを感じた。
私は一人じゃない。
ドンがいて、この子がいる。
言葉が通じる、大切な仲間たち。
「……名前、つけなきゃね」
ポチ、という名前がふと頭に浮かんだ。
犬みたいに懐いているから。
でも、さすがにドラゴンにポチは可哀想かしら。
いや、いいわよね。
強そうで、可愛くて。
「あなたの名前はポチよ。……早く良くなってね」
ポチの頭を撫でる。
硬い鱗の感触が、今は心地よかった。
「フィオナ様、おられますか?」
突然、テントの外から声がした。
騎士の声だ。
ヒヤリと背筋が凍る。
私は慌ててポチの上に毛布を被せ、自分の身体で隠した。
「は、はい! 何でしょうか!」
声が裏返ってしまった。
「団長がお呼びです。今後のことについて話がある、と」
「……わかりました。すぐ行きます」
今後のこと。
屋敷が壊れた今、ここでの生活をどうするかという話だろう。
あるいは、私を別の場所へ移送するという通告かもしれない。
ポチを見つめる。
毛布の下で、小さく膨らんでいる。
バレたら、殺される。
絶対に守り抜かなきゃ。
私は深呼吸をして、震える足で立ち上がった。
ポチに「静かにしていてね」と念を送り、テントを出た。
外には、朝日に照らされたレオンハルト様が立っていた。
その表情は、昨日よりもさらに険しく、そして何かを決意したように固かった。
「……フィオナ。話がある」
その威圧感に、私はただ小さく頷くことしかできなかった。




