第5話 怖い騎士様
「……これは、何だ?」
低い声が鼓膜を震わせる。
男の指先は、間違いなく私の畑――ドンと一緒に作ったばかりの畝を指していた。
心臓が早鐘を打つ。
やっぱり、怒られるんだわ。
ここは追放地。
勝手に土地を耕すことさえ許されないのかもしれない。
あるいは、黒々とした土が「魔術的で気味が悪い」と思われたのか。
「も、申し訳ありません……ッ!」
私は反射的に頭を下げていた。
貴族としての誇りなんて、恐怖の前では何の役にも立たない。
「すぐに……すぐに元に戻しますから! どうかお許しを……!」
「元に戻す?」
男の声が一段低くなった気がした。
私はビクリと肩を震わせる。
顔を上げられない。
視界の端に、男の革のブーツが見える。
泥一つついていない、手入れされた軍靴。
それが一歩、私に近づいた。
「待て。なぜ戻す必要がある」
「え……?」
恐る恐る顔を上げる。
男は眉間に深い皺を寄せ、腕を組んで畑を見下ろしていた。
その眼光は鋭く、獲物を品定めする肉食獣のようだ。
「この短期間でこれだけの土壌改良を行った。……どうやった?」
「そ、それは……」
言えない。
ドンの仕業だなんて言ったら、ドンが討伐されてしまう。
魔物と結託した罪で、私もその場で処刑されるかもしれない。
「ひ、肥料を……持っていた肥料を撒いただけです」
苦し紛れの嘘。
男の目がすっと細められる。
「肥料だと?」
「は、はい……屋敷にあった残りを……」
男は無言でしゃがみ込み、土を手で救い上げた。
指先で捏ね、匂いを嗅ぐ。
その動作の一つ一つに無駄がなく、洗練されているのが余計に怖かった。
「……ふん」
男は立ち上がり、パンと手を払った。
「肥料だけでここまで魔素が安定するとはな。……まあいい」
追及は終わったらしい。
私は安堵の息を漏らしそうになるのを必死で堪えた。
男は私に向き直ると、姿勢を正した。
その威圧感に、思わず後ずさる。
「自己紹介が遅れた。俺はレオンハルト・ヴァイス。王国召喚士団の団長を務めている」
レオンハルト……ヴァイス。
その名前に聞き覚えがあった。
王都の社交界で、恐怖の代名詞として囁かれていた名前。
『氷の召喚士』。
強力な召喚獣を何体も使役し、単独で要塞を落としたという英雄。
しかしその性格は冷酷非情で、笑った顔を見た者はいないと言われている。
召喚獣たちですら、彼を恐れて従っているのだとか。
そんな人が、なぜこんな辺境に?
「王命により、本日付でこのベルン領の警備責任者および、フィオナ・アルベルトの監視役として着任した」
監視役。
その言葉が重くのしかかる。
やはり、私はただ追放されただけではなかったのだ。
死ぬまで見張られ、自由を奪われる。
この男は、そのための看守。
「……承知いたしました」
私は震える声で答えるのが精一杯だった。
レオンハルト様は私の返事を聞くと、顎で屋敷をしゃくった。
「中を確認する」
「は、はい……どうぞ」
拒否権なんてあるはずがない。
私は彼を先導し、ボロボロの玄関へと向かった。
後ろから、ガチャガチャと鎧の音がついてくる。
まるで連行される罪人の気分だ。
玄関ホールに入る。
レオンハルト様が立ち止まった。
彼の視線が、崩れた天井、腐った床、そして埃まみれの壁を舐めるように動く。
眉間の皺がさらに深くなった。
不快そうだ。
「……ひどいな」
ぽつりと漏らされた言葉。
私の心臓が縮み上がる。
すみません。
掃除が行き届いていなくてすみません。
でも、私一人ではこれが限界だったのです。
心の中で必死に謝る。
レオンハルト様はズカズカと奥へ進んでいく。
食堂、キッチン、そして二階へ。
私は小走りでついていく。
彼が何かを見つけるたびに、処罰の理由が増えていくような気がした。
二階の、私が寝床にしている部屋の前で彼が止まった。
ドアが開いている。
中が見える。
床の一角だけが不自然に拭き清められ、そこに薄汚れた毛布とトランクが置かれているだけの空間。
食べかけの硬いパンが、布の上に転がっていた。
レオンハルト様はしばらく無言でそれを見つめていた。
背中から感情が読み取れない。
怒っているの?
『元令嬢のくせに、こんな豚小屋のような生活をして恥ずかしくないのか』と蔑んでいるの?
「……ここで寝ているのか?」
低い声。
「は、はい。他の部屋は床が抜けていて……ここが一番マシでしたので」
「…………」
長い沈黙。
空気が張り詰める。
私は両手を前で握りしめ、俯いていた。
やがて、レオンハルト様がくるりと振り返った。
その顔は、先ほどよりも険しかった。
怒気が滲んでいるようにさえ見える。
「わかった」
短く告げると、彼は私の横を通り過ぎ、階段を降りていった。
私も慌てて後を追う。
外に出ると、待機していた騎馬隊の騎士たちが一斉に敬礼した。
レオンハルト様が大声で指示を飛ばす。
「総員、全部隊に通達! 第一小隊は屋敷周辺の草刈りと瓦礫撤去を行え! 第二小隊は一階大広間の補修だ、資材班を急かして木材を運ばせろ!」
「はっ!」
「第三小隊は周辺の魔物掃討! 半径一キロ以内にネズミ一匹近づけるな!」
怒号のような指示が飛び交う。
騎士たちが慌ただしく動き始めた。
私は呆然とそれを見ていた。
何が起きているの?
草刈り? 補修?
レオンハルト様が私の方に戻ってきた。
私は背筋を伸ばす。
「フィオナ」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
「今日から俺たちもこの屋敷に駐屯する。二階の東側を使用させてもらうぞ」
「……え?」
「監視任務だ。対象と同じ屋根の下にいるのが合理的だ」
同じ屋根の下。
この『氷の召喚士』と?
「それと」
彼は懐から何かを取り出し、私に放り投げた。
反射的に受け取る。
ずっしりと重い、革袋だった。
中からジャラリと音がする。
「食料の配給手続きが間に合わん。当面はこれで必要なものを調達しろ。……部下を行かせる」
「あ、あの……これは……」
「必要経費だ」
それだけ言うと、彼はもう私に関心がないかのように、部下たちの元へ歩いていってしまった。
私は手の中の革袋を開けてみる。
中には、見たこともないほど銀貨が詰まっていた。
「……どういうこと?」
監視に来たんじゃないの?
なんで屋敷を直したり、お金をくれたりするの?
混乱する頭で、彼の背中を見つめる。
彼は部下の一人が斧の扱いをミスしたのを見て、「貸せ、こうやるんだ」と奪い取り、凄まじい手際で枯れ木を伐採し始めた。
……怖い。
やっぱり怖い。
何を考えているのか全くわからない。
「どうしよう、ドン……」
地面の下に隠れているはずの友達に、心の中で呼びかける。
この屋敷は、もう私だけの場所ではなくなってしまった。
大勢の、怖そうな騎士たち。
そして、最強の召喚士。
私のささやかなスローライフは、始まる前に終わってしまったのかもしれない。
「おい、そこの元令嬢!」
不意に、若い騎士の一人に声をかけられた。
ビクッとする。
「団長からの命令だ! 夕食の準備を手伝えだとさ!」
「は、はいっ!」
私は革袋をポケットに押し込み、慌てて駆け出した。
これからどうなるんだろう。
不安で胸が押し潰されそうになりながら、私は新たな嵐の中に飛び込んでいった。




