第3話 最初のお友達
ミシミシッ。
音が近づいてくる。
もう、ドアのすぐ向こうだ。
私は部屋の隅、一番奥の壁に背中を押し付けていた。
毛布を盾にするように構えるけれど、何の役にも立たないことはわかっている。
震えで歯がカチカチと鳴るのを止められない。
『……ここか……』
扉の隙間から、何かが漏れ聞こえる。
枯れた井戸の底から響くような、低く、しゃがれた声。
次の瞬間。
ギィィィ……。
鍵のない扉が、ゆっくりと内側へ開いた。
「ひっ……!」
悲鳴が喉で凍りつく。
月明かりが、入ってきた「それ」を照らし出した。
それは、人の形をしていた。
けれど、人ではなかった。
身長は私より頭一つ分小さいくらい。
全身が赤茶色の土塊でできている。
表面はひび割れ、所々に苔のような緑がこびりついていた。
顔とおぼしき部分には、ぽっかりと空いた二つの穴(目)と、横に裂けた亀裂(口)があるだけ。
泥人形。
子供が川原で泥を捏ねて作ったような、不格好な土の塊。
それが、のっそりと部屋の中へ足を踏み入れた。
歩くたびに、身体からパラパラと土がこぼれ落ちる。
『……いい匂い……だ……』
土人形が鼻を鳴らすような音を立てた。
目の穴が、真っ直ぐに私の方を向く。
終わった。
食べられる。
いい匂いって、私のこと?
私はギュッと目を閉じた。
痛みは一瞬であってほしい。
『……肉……』
声が聞こえる。
頭の中に直接響くような、不思議な感覚。
これは私の「能力」だ。
普通の人間には唸り声にしか聞こえないはずの獣の言葉が、私には意味のある言葉として届く。
『……その……干した肉……うまそうだ……』
え?
私は恐る恐る目を開けた。
土人形は私に飛びかかってくる様子はない。
ただ、じっと一点を見つめている。
その視線の先にあるのは、私ではない。
私の脇に転がっている、食べかけの干し肉の包みだ。
『……腹……減った……』
土人形が、よろりと膝をついた。
その動きには、獰猛さよりも、どこか哀愁が漂っていた。
お腹を押さえるように、土の手を腹部に当てている。
「……お腹が、空いているの?」
思わず、口をついて出た。
自分でも信じられないくらい震えた声だった。
土人形がビクリと反応する。
『……聞こえる……のか?』
「え……ええ。なんとなく」
『……そうか……聞こえるのか……』
土人形は、驚いたように何度も頷いた。
そしてまた、干し肉の方へ視線を戻す。
『……ずっと……土の中だった……腹が減って……目が覚めた……』
その声には、切実な響きがあった。
殺意や悪意といった冷たいものではなく、ただひたすらに、生きるための渇望。
それは、さっきまでの私と同じだ。
空腹。
孤独。
誰にも気づかれないまま、朽ちていく恐怖。
恐怖が、少しだけ薄れた気がした。
私は震える手で、干し肉の包みを拾い上げた。
塩辛くて硬い、私の全財産。
明日の分すら残っていない、貴重な食料。
でも。
「……これ、食べる?」
包みを差し出す。
土人形の目の穴が、カッと見開かれたように見えた。
『……いいのか?』
「いいわよ。私一人じゃ、どうせあと数日で尽きる量だもの」
自暴自棄に近いかもしれない。
どうせ魔物に殺されるなら、最期くらい何か良いことをして死にたい。
そんな投げやりな気持ちもあった。
土人形は、ズズッと這うように近づいてきた。
私は息を止めて、身を固くする。
土人形の手が伸びる。
ゴツゴツとした冷たい指先が、私の指に触れた。
ひやりとした土の感触。
彼は干し肉を掴むと、それを大事そうに口の亀裂へと運んだ。
バキッ、ボリッ。
硬い干し肉を、石を砕くような音を立てて咀嚼する。
あっという間に一本を平らげ、二本目、三本目と口に放り込んでいく。
早い。
すごい勢いだ。
ほんの数秒で、包みの中身は空になった。
『……うまい……』
土人形が深く息を吐いた。
口の周りについた欠片を、土の舌で器用に舐め取る。
『……生き返った……。大地の味がする……』
「大地じゃなくて、ただの塩漬け肉よ」
私が突っ込むと、土人形は低く笑ったような音を立てた。
『……久々のメシだ……染みる……』
彼は満足げに私を見上げた。
さっきまでの不気味さが、不思議と消えていた。
ただの「お腹を空かせたおじさん」のように見えてくるから不思議だ。
私は緊張の糸が切れて、その場にへたり込んだ。
助かったの?
食べられずに済んだ?
『……嬢ちゃん。名前は?』
「……フィオナよ」
『フィオナか。俺はドンだ』
ドン。
鈍い音のドンだろうか。
それとも、土の精霊を表す言葉だろうか。
見た目に似合わず、妙に偉そうな口調だ。
『……助かったぜ、フィオナ。あのままじゃ、また土に還るところだった』
ドンは立ち上がり、パンパンと身体についた埃を払った。
その仕草が人間臭くて、私はつい、小さく笑ってしまった。
「ふふっ。変なの。魔物なのに、お礼なんて言うのね」
『魔物じゃねぇ。俺はノームだ。誇り高き大地の守り手だぞ』
ノーム。
物語で読んだことがある。
土を司る精霊。
でも、挿絵で見たノームはもっと可愛らしい小人の姿だったはずだ。
こんな泥団子のお化けみたいな姿ではなかった。
きっと、この辺りの土が痩せているから、こんな姿なのかもしれない。
あるいは、彼が言う通り「魔物」に近い下級の種族なのかも。
どちらにしても、どうでもよかった。
私を襲わないなら、それでいい。
『……しかし、ここは酷いな』
ドンは部屋の中を見回し、呆れたように言った。
『……床は腐ってるし、壁はスカスカだ。よくこんな所に住もうと思ったな』
「好きで住んでるわけじゃないわ。……追放されたの」
「ツイホウ?」
「ええ。用済みになったから、捨てられたのよ。この廃屋みたいにね」
口に出すと、改めて惨めさが込み上げてくる。
私は膝に顔を埋めた。
干し肉もあげてしまった。
もう食べるものはない。
明日はどうしよう。
水だって、あと一口分しかないのに。
沈黙が落ちる。
ドンは何も言わずに、じっと私を見ていた気がした。
やがて、重い足音が響いた。
ドンが窓の方へと歩いていく。
『……食わせてもらった礼はする』
背中越しに、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「礼?」
『ああ。俺はノームだ。土のことなら、誰にも負けねぇ』
ドンは窓枠に手をかけ、器用に外へと飛び降りた。
ドサッ、という着地音がする。
私は慌てて窓に駆け寄った。
下を覗き込む。
月明かりの下、荒れ果てた庭の真ん中にドンが立っていた。
『……見てな。嬢ちゃんがくれた肉の分、働いてやる』
ドンが地面に両手をつく。
ズズズ……。
低い地響きが起きた。
地面が、まるで生き物のように波打ち始める。
「え……?」
私の目が信じられないものを捉えた。
カチカチに固まっていた赤茶色の地面が、内側から掘り起こされていく。
枯れた雑草が根こそぎ飲み込まれ、代わりに地中から黒々とした土が湧き上がってくる。
石ころが勝手に弾き出され、庭の隅へと転がっていく。
まるで、見えない巨大な鋤が、猛スピードで庭を耕しているようだった。
『……ふんっ!』
ドンの気合の入った声と共に、庭の半分近くが一瞬にしてひっくり返された。
荒野だった場所が、ふかふかの黒土の畑へと変わっていく。
「うそ……」
私は言葉を失った。
魔法?
ううん、魔法使いだって、こんなに広範囲を一瞬で整地なんてできない。
これが、ノームの力?
ドンが顔を上げ、私に向かって片手を上げた。
ニカッと笑ったように見えた。
『……どうだ。これなら種も撒けるだろ?』
風が吹いた。
さっきまでの乾いた砂の匂いではなく、湿った、豊かな土の匂いがした。
それは、死の土地だと思っていたこの場所に、初めて生まれた「生」の匂いだった。




