最終話 香水の便箋と王都からの亡霊
夜風に乗って運ばれてきた白い鳥が、私の腕の中で静かに羽を休めていた。
手の中にある小さな金属の筒は、夜の冷気とは違う、どこか禍々しい冷たさを帯びているように感じられた。
私は震える指先で、筒の蓋をひねった。
キュッ、という小さな摩擦音が、静寂に包まれた部屋に大きく響く。
中から滑り落ちてきたのは、一本の巻かれた羊皮紙だった。
封蝋は割れていない。
刻印されているのは、王家の紋章――ではなく、一輪の白百合を模した、私だけが知っている個人的な印章だった。
「……あ」
息が漏れる。
この印章に見覚えがあった。
王立学園に通っていた頃、唯一私を「対等な友人」として扱ってくれた少女。
彼女が手紙をくれる時、いつも使っていた秘密のサインだ。
(リリアナ……?)
懐かしさと、同時に強烈な不安が胸を締め付ける。
なぜ彼女が、王家の伝令鳥を使ってまで私に手紙を?
私は覚悟を決めて、封蝋を指で砕いた。
パリッという乾いた音と共に、ふわりと甘い香りが漂った。
彼女が愛用していた、白百合の香水の匂いだ。
その香りが、私を一瞬で灰色の学園時代へと引き戻す。
羊皮紙を広げる。
流麗な筆記体で、短いメッセージが綴られていた。
『拝啓、愛する親友フィオナへ。
単刀直入に聞くわ。
あなた、生きているわよね?
王都では「フィオナ・アルベルトは辺境で魔物に食い殺された」という噂が公式の事実になりつつあるわ。
あのお馬鹿な元婚約者君が、涙ながらにそう吹聴しているの。
でも、私は信じない。
あなたがそんな簡単に死ぬような女じゃないって知っているから。
もしこの手紙が届いたら、何か返事をして。
生存が確認できれば、私が動くわ。
あなたの汚名を雪ぐ準備はできているの。
追伸:
最近、王宮の庭園の薔薇が妙に元気がないの。
あなたの「声」が恋しいって言っているみたいよ。
リリアナより』
文字を追う目が、熱くなる。
視界が滲んで、文字が揺れた。
死んだことにされている。
エドワード様が、私を「死者」として処理しようとしている。
厄介払いが済んで、せいせいしているのだろうか。
けれど、それ以上に胸を打ったのは、リリアナの言葉だった。
『私は信じない』。
世界中が私を否定しても、彼女だけは私を探そうとしてくれていた。
「……リリアナ」
手紙を胸に抱きしめる。
紙の端が肌に食い込む感触が、現実の痛みとして伝わってくる。
嬉しい。
でも、怖い。
返事を出せば、彼女を巻き込むことになる。
王都の陰謀の渦中に、大切な友人を引きずり込んでしまうかもしれない。
コンコン。
不意に、ドアがノックされた。
ビクッとして肩を跳ねさせる。
「フィオナ。起きているか?」
低く、抑えた声。
レオンハルト様だ。
私は慌てて涙を拭い、手紙を背中に隠した。
「は、はい! 起きてます!」
ドアが開く。
レオンハルト様は寝間着の上にシャツを羽織っただけの姿で立っていた。
剣は持っていないけれど、その目は鋭く部屋の中を巡回している。
「……窓が開いている。それに、鳥の気配がした」
彼の視線が、窓枠に止まっている白い鳩に注がれる。
そして、私の強張った肩と、隠しきれていない羊皮紙へと移った。
「……王家の伝令鳥か」
彼は静かに部屋に入り、ドアを閉めた。
私を責めるような色はなく、ただ事態を把握しようとする冷静な瞳だった。
「誰からだ?」
「……学園時代の、友人からです」
私は隠していた手紙を、おずおずと差し出した。
隠しても無駄だ。
彼は私の監視役であり、今は誰よりも信頼できるパートナーなのだから。
レオンハルト様は手紙を受け取ると、素早く目を通した。
眉間の皺が深くなる。
「……『死亡説』か。奴ららしいやり口だ」
彼は鼻で笑った。
軽蔑の色が濃い。
「死人に口なし。お前を社会的に抹殺して、婚約破棄の正当性を固めるつもりだろう」
「……はい」
「だが、この差出人……リリアナというのは」
彼は手紙の末尾を見て、ふと目を細めた。
「白百合の印章。……まさか、リリアナ王女殿下か?」
「えっ、ご存知なのですか?」
「知らんわけがない。現国王の第三王女。……変わり者で有名だが、頭の切れる方だ」
レオンハルト様は手紙を私に返した。
その指先が、私の手に触れる。
温かい。
その熱が、凍りついていた私の思考を溶かしていく。
「フィオナ。……これは、分岐点だ」
彼は真剣な顔で私を見据えた。
「無視すれば、お前は死んだことになる。王都のしがらみとは無縁に、ここで静かに暮らせるかもしれない」
「……」
「だが、返事を出せば……お前は再び、あの泥沼の社交界と関わることになる。今度は『辺境の生存者』として、注目を浴びながらな」
選択肢。
逃げるか、向き合うか。
私は窓の外を見た。
暗い森の向こうに、ドンやマリンたちが眠っている。
ポチが丸くなって寝息を立てている姿が浮かぶ。
そして、私の髪にはレオンハルト様がくれた青いリボンがある。
ここには、守りたいものがある。
私の居場所がある。
死んだことにして隠れ住むのは簡単だ。
でも、それではいつか、この幸せな生活が「嘘」の上に成り立っていることに耐えられなくなる気がした。
それに、私を信じて待ってくれている友人を、裏切りたくない。
「……返事を、書きます」
私は顔を上げ、はっきりと言った。
「私は生きています。ここで、みんなと幸せに暮らしています。……そのことを、ちゃんと伝えたいんです」
私の言葉に、レオンハルト様は口元を緩めた。
それは、私の決断を誇らしく思ってくれているような、優しい微笑みだった。
「……そう言うと思った」
彼は私の頭に手を置き、ポンと撫でた。
髪のリボンがカサリと音を立てる。
「書け。……俺がついている」
「はい」
「それに、隠し通すのも限界だった。……ベルの商売が始まれば、遅かれ早かれバレる」
彼は肩をすくめ、窓枠の鳥に視線をやった。
「返事は明日だ。……今夜はもう休め。目の下が黒いぞ」
「あ、はい……」
「怖い顔をするな。……何が来ようと、俺が斬る」
頼もしい言葉。
彼は不器用に私の頬を指でつつくと、背を向けて部屋を出て行った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ドアが閉まる。
部屋に静寂が戻る。
私は机に向かい、ペンを執った。
インクの匂いが鼻をくすぐる。
かつては義務感だけで書いていた手紙。
でも今は、自分の意志で、自分の言葉を紡ぐことができる。
『拝啓、リリアナへ。
私は生きています。
泥だらけで、でも、今までで一番自由に――』
ペン先が紙を走る音だけが、夜の部屋に響いた。
過去からの亡霊は、もう怖くない。
私には、帰るべき場所と、背中を守ってくれる人がいるのだから。
窓の外で、遠雷が鳴った気がした。
嵐が来るかもしれない。
でも、私はもう逃げない。
この手紙が、新しい戦いの始まりになるとしても。
私は書き終えた羊皮紙に、リボンと同じ青いインクで、力強く自分の名前を記した。




