第11話 商人の置き土産と遠雷の予感
小瓶の中で揺れていたエメラルドグリーンの光が、瞼の裏に残像として焼き付いている。
朝の冷気が漂う屋敷の前庭で、私は荷造りを終えた馬車を見上げていた。
昨日までの化粧水開発の興奮は、今は静かな充足感へと変わっている。
馬車の荷台には、私たちが育てた『スカーレット・アップル』や『黄金胡桃』、そして試作した化粧水のサンプルが厳重に梱包されて積み込まれていた。
「お世話になりました、フィオナ様。……実に実入りの良い滞在でした」
ベルナルド様が、いつも通り優雅に帽子を脱いで一礼した。
その顔には旅立ちの寂しさなど微塵もなく、これから始まる商戦への期待に満ちた笑みが張り付いている。
「こちらこそ。……こんな辺境まで、ありがとうございました」
私は頭を下げた。
風が吹き、髪に結んだ青いリボンが揺れる。
このリボンの感触が、今は私に自信を与えてくれる気がした。
「これは、追加の発注書と契約金の一部です」
彼が差し出したのは、分厚い羊皮紙の束と、ずっしりと重い革袋だった。
受け取った瞬間、腕が沈み込む。
「……重い」
思わず声が漏れた。
物理的な重量だけではない。
これは、私たちの未来そのものの重さだ。
この資金があれば、資材を買い足せる。
騎士たちの装備を新調できる。
そして何より、誰も飢えさせずに済む。
「当然です。あなたが生み出した価値の対価ですから」
ベルナルド様は眼鏡の位置を直し、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「安売りしてはいけませんよ。……ご自分も、商品も」
「はい。……肝に銘じます」
私は革袋を胸に抱きしめ、強く頷いた。
もう、無知な令嬢ではない。
自分の価値を知り、それを守る術を学び始めた領主代行なのだ。
「おい、ベル。……さっさと行け」
横で腕を組んでいたレオンハルト様が、不機嫌そうに口を挟んだ。
彼は今朝からずっと眉間に皺を寄せている。
幼馴染との別れが寂しいのか、それとも単にベルナルド様の軽口にうんざりしているのか。
「おや、つれないですねぇレオン。……ああ、そうでした」
ベルナルド様はポンと手を打ち、ニヤリと笑った。
「私のせいで、フィオナ様との甘い時間が減ったとお怒りなんですね?」
「……斬るぞ」
レオンハルト様の手が剣の柄にかかる。
ベルナルド様は大げさに肩をすくめ、馬車のステップに足をかけた。
「冗談ですよ。……まあ、精々大事になさい。彼女はもう、ただの追放令嬢じゃない。『銀の天秤』商会の最重要取引相手ですからね」
その言葉には、友人としての忠告と、商人としての警告が入り混じっていた。
もし私に何かあれば、商会が黙っていないぞという牽制。
レオンハルト様はフンと鼻を鳴らし、剣から手を離した。
「言われんでもわかっている」
「なら結構。……では、フィオナ様」
ベルナルド様は御者台に座り、手綱を握った。
そして、ふと思い出したように私を見下ろした。
その糸目が、スッと開く。
商人の目でも、友人の目でもない。
冷徹な情報屋の目が、そこにあった。
「一つだけ、耳に入れておきます」
声のトーンが落ちる。
周囲の空気が少しだけ張り詰めた。
「王都では、あなたの噂はまだ消えていません。……むしろ、尾ひれがついて悪化しています」
「え……?」
心臓がドクリと鳴った。
悪化している?
追放されたのに?
「『侯爵令嬢は魔物と通じて王国を呪おうとした』……そんな馬鹿げた与太話が、まことしやかに囁かれています。特に、あなたの元婚約者周辺ではね」
エドワード様。
あの冷ややかな瞳と言葉が、脳裏をよぎる。
「私が持ち帰るこの特産品が広まれば、いずれ『辺境で成功している』という事実も伝わるでしょう。そうなれば……」
彼は言葉を切り、意味深に視線を流した。
「面白くないと思う連中が、何かしら仕掛けてくるかもしれません。……ご注意を」
「……」
喉が渇く。
せっかく築き上げたこの平穏が、遠い場所からの悪意で揺らぐかもしれない。
その恐怖が、足元から冷気となって這い上がってくる。
「……有益な忠告、感謝する」
沈黙を破ったのは、レオンハルト様だった。
彼は一歩前に出て、私を背に隠すように立った。
その背中は、どんな城壁よりも頼もしく見えた。
「だが、無駄な心配だ。……ここには俺がいる」
短く、断定的な言葉。
それがただの強がりではないことを、私は知っている。
ベルナルド様は一瞬きょとんとして、それから満足げに笑った。
「……ヒューッ。相変わらず、美味しいところを持っていく男だ」
彼は帽子を被り直し、高らかに鞭を鳴らした。
「では! 吉報をお待ちください!」
馬がいななき、車輪が回り出す。
砂煙を上げて、馬車は街道を走り去っていった。
カラン、コロンという鐘の音が、次第に小さくなっていく。
私はその背中が見えなくなるまで、動けなかった。
手の中の革袋の重みが、先ほどとは違う意味を持って感じられた。
これは希望であり、同時に戦うための軍資金なのだ。
「……フィオナ」
レオンハルト様が振り返った。
その表情は、いつもの不器用な優しさに戻っていた。
「気にするな。王都の噂など、ここまでは届かん」
「……はい」
私は努めて明るく返事をした。
不安がないと言えば嘘になる。
でも、怯えて震えているだけの日々はもう終わりだ。
「私には、やることがありますから」
私は顔を上げ、屋敷を見上げた。
まだ直すべき壁がある。
育てるべき畑がある。
そして、守るべき仲間たちがいる。
「……そうだな。まずは朝食だ。腹が減っては戦――いや、仕事にならん」
レオンハルト様が少し言い淀んで、私に手を差し出した。
その大きな掌。
私は革袋をしっかりと抱え直し、彼の手を取った。
温かい。
この温度があれば、どんな悪意も溶かしてしまえる気がした。
「はい、行きましょう!」
私は一歩、力強く踏み出した。
ベルナルド様が残していった忠告は、遠くで鳴る雷鳴のようだった。
嵐が来るかもしれない。
けれど、今の私たちには頑丈な屋根と、温かい暖炉がある。
私はリボンに触れ、背筋を伸ばした。
何が来ても負けない。
ここが私の、私たちの城なのだから。




