第9話 不機嫌な背中と青い髪留め
鼻先をかすめる鉄と革の匂いが、昨夜の記憶を鮮明に引きずり出していた。
朝の光が差し込むテントの中で、私は畳んだばかりのレオンハルト様のマントを膝に乗せていた。
ずっしりと重い、厚手の生地。
昨晩、湯冷めしないようにと彼が貸してくれたものだ。
顔を埋めると、まだ微かに彼の匂いが残っている気がして、心臓がトクリと跳ねる。
「……返しに行かなきゃ」
私はマントを抱きしめ、小さく呟いた。
昨夜の彼の態度は、少しおかしかった。
怒っているようで、焦っているようで。
『無用心だ』と言われた時の低い声を思い出すと、胃のあたりがキュッと縮こまる。
やっぱり、呆れられてしまったのかもしれない。
はしゃぎすぎて濡れ髪のまま出歩くなんて、元令嬢としてあるまじき失態だ。
監視役として、私の危機管理のなさに腹を立てているに違いない。
「……謝ろう」
私はマントを丁寧に抱え直し、テントを出た。
外はすでに活気に満ちていた。
騎士たちが朝の点呼を終え、それぞれの作業場所へ散っていく。
ドンとポチが畑で追いかけっこをしている平和な光景。
その中で、ひときわ目立つ銀色の頭を見つけた。
「レオンハルト様!」
私は声を上げて駆け寄った。
彼は騎士の一人に指示を出していたが、私の声を聞いた瞬間、ビクッと肩を震わせた。
そして、振り返りもせずに早歩きで去ろうとする。
「あ、待ってください!」
「……今は忙しい」
背中越しに投げられた言葉は、氷のように冷たかった。
足が止まる。
拒絶された。
いつもなら、どんなに忙しくても一度は立ち止まってくれるのに。
「……っ」
マントを握る指に力が入りすぎて、関節が白くなる。
やっぱり、怒ってる。
私みたいな手のかかる監視対象、もう愛想が尽きたのかもしれない。
私は唇を噛み、彼の背中を見送ることしかできなかった。
午前中の作業は、上の空だった。
野菜の収穫をしていても、屋敷の掃除をしていても、レオンハルト様の冷たい背中が頭から離れない。
『フィオナ、元気ないわね。お肌のツヤが落ちてるわよ』
肩に乗ったマリンが、心配そうに私の頬をつつく。
「大丈夫よ。……ちょっと寝不足なだけ」
『ふーん。……まあいいわ。それより見て、私のバスルーム! 騎士たちがタイルを貼り始めたの!』
マリンは完成間近の小屋を見てはしゃいでいる。
その明るさが、今の私には少しだけ眩しかった。
昼過ぎ。
休憩のために木陰に座っていると、ベルナルド様がやってきた。
彼は優雅に紅茶(もちろん高級茶葉だ)を飲みながら、隣に腰を下ろした。
「おや、溜息ですか? 金貨の山を手に入れた翌日にしては、景気の悪い顔ですね」
「……ベルナルド様」
私は膝を抱えたまま、力なく笑った。
「お金があっても、解決できないことってあるんですね」
「ほう。例えば?」
「……人の気持ち、とか」
ベルナルド様は眼鏡の位置を直し、口元をニヤリと歪めた。
「レオンのことですか?」
図星を突かれて、私は肩を跳ねさせた。
「な、なんでわかるんですか」
「見ていればわかりますよ。あいつ、朝から挙動不審ですからね。柱に頭をぶつけたり、剣の手入れをしながら上の空だったり」
「えっ? レオンハルト様が?」
完璧超人の彼が、そんなミスをするなんて想像できない。
「あいつは不器用なんですよ。……特に、大事なものを扱うときはね」
ベルナルド様は意味深に言い、私の膝の上にあるマントを指差した。
「返しに行かないんですか?」
「朝、避けられてしまって……。きっと、私のことが鬱陶しいんだと思います」
「くくっ、鬱陶しい、ですか」
ベルナルド様は堪えきれないように吹き出した。
何がおかしいのかわからなくて、私はむっとする。
「違いますか?」
「大違いですね。……まあ、行ってきなさい。あいつなら今、裏の井戸の近くにいますよ」
彼はポンと私の背中を押した。
「商人の勘ですがね。……今行かないと、チャンスを逃しますよ」
その言葉に、私は弾かれたように立ち上がった。
チャンス。
何のチャンスかはわからないけれど、このまま誤解されたまま終わるのは嫌だ。
「……行ってきます!」
私はマントを抱え、屋敷の裏へと走った。
井戸の近く。
昨日、ドンとマリンが土管を通したあの場所に、レオンハルト様はいた。
一人で、井戸の枠に腰掛けている。
手には何か小さなものを持ち、じっと見つめていた。
「……レオンハルト様」
恐る恐る声をかける。
彼は驚いたように顔を上げ、持っていたものを慌ててポケットに隠した。
その動作が、どこか子供っぽくて、少しだけ緊張が解ける。
「……フィオナか」
声は低かったけれど、朝のような冷たさはなかった。
ただ、どこか気まずそうだ。
「あの、これ……ありがとうございました」
私はマントを差し出した。
洗濯して、綺麗に畳んだものだ。
「……ああ」
彼は受け取ると、それを無造作に肩にかけた。
ふわりと風が吹き、彼の匂いが鼻をかすめる。
「昨日は、すみませんでした」
私は深々と頭を下げた。
「浮かれて、ご迷惑をおかけしました。監視役のレオンハルト様に、あんな……だらしない姿を見せてしまって」
「……だらしない?」
彼が怪訝そうに聞き返す。
「はい。濡れたままで、その……はしたないというか」
「はぁ……」
彼は深く、重い溜息をついた。
やっぱり、呆れさせてしまった。
私がこれ以上謝ろうと口を開きかけた時、彼がガシガシと乱暴に頭を掻いた。
「……違う」
「え?」
「怒っているわけじゃない。……俺は、ただ」
彼は言葉を探すように宙を彷徨い、そして観念したように私を見た。
「どう接すればいいか、わからなかっただけだ」
「どう接する……?」
「お前が……その、急に」
彼は咳払いを一つして、視線を逸らした。
耳が赤い。
夕焼けのせいじゃない。
「綺麗になりすぎたからだ」
ボソリと、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
心臓が止まるかと思った。
「え……?」
「泥だらけで走り回っていたお前が、昨日は別人のように……輝いて見えた。直視できなかったんだよ、眩しくて」
彼は早口でまくし立てると、ふいっと背を向けた。
「だから避けた。……俺の未熟さだ。お前が謝る必要はない」
頭の中が真っ白になった。
眩しい?
私が?
怒っていたんじゃない。
避けていた理由は、照れていたから?
熱が顔に集まるのがわかる。
言葉が出ない。
ただパクパクと口を開閉していると、彼がポケットから何かを取り出した。
「……これを」
差し出されたのは、小さな青いリボンだった。
サテンのような艶やかな生地に、銀色の糸で細かな刺繍が施されている。
中心には、小さな水色の宝石――アクアマリンだろうか――が縫い付けられていた。
「これ……」
「ベルの荷物に混ざっていた。……買った」
「私に?」
「ああ。……髪が、邪魔そうだったからな」
彼はぶっきらぼうに言い訳をした。
作業中、私がよく後れ毛を耳にかけているのを見ていたのだろうか。
「嫌なら捨てろ。……無理にとは言わん」
捨てるわけがない。
絶対に、一生捨てない。
震える手で受け取る。
宝石がキラリと光る。
高価なものだ。
私の働きの対価としては、あまりに過分な贈り物。
「……つけても、いいですか?」
「……今か?」
「はい。レオンハルト様が選んでくれたものだから、今すぐつけたいです」
私が言うと、彼は一瞬驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「……貸せ」
彼はリボンを取り上げると、私に背中を向けるよう促した。
「えっ、レオンハルト様が?」
「自分で見えないだろう。……じっとしてろ」
彼の指が、私の髪に触れる。
ゴツゴツとした、剣を握るための指。
でもその動きは、ポチの治療をした時と同じくらい繊細で、慎重だった。
心臓の音がうるさい。
背中に伝わる彼の体温。
髪を梳く指の感触。
時が止まればいいのにと、本気で思った。
「……できたぞ」
数秒後、彼の手が離れた。
私は髪に触れる。
サイドの髪が、リボンできゅっと結ばれていた。
「……どう、ですか?」
振り返って尋ねる。
彼は腕を組み、真剣な顔で私を見下ろした。
そして、満足げに頷く。
「……悪くない」
「似合ってますか?」
「ああ。……泥だらけの服よりはな」
憎まれ口を叩きながらも、その目は優しく細められていた。
胸がいっぱいになる。
嬉しい。
ただその感情だけで、涙が出そうになる。
「ありがとうございます。……大切にします」
私はリボンに触れながら、精一杯の笑顔を向けた。
「……フン」
彼は照れ隠しに鼻を鳴らし、マントを翻して歩き出した。
「行くぞ。夕食の時間だ。……今日のシチューは、マンモス肉だろう?」
「はい! 特選肉です!」
「楽しみだ」
彼の背中を追いかける。
その距離が、昨日よりも少しだけ縮まった気がした。
ふと、屋敷の角から視線を感じた。
見ると、ベルナルド様が壁に寄りかかり、こちらを見てニヤニヤと笑っていた。
手にはワイングラスを持っている。
「あらあら、青春ですねぇ」
口パクでそう言われた気がして、私は顔を真っ赤にして俯いた。
でも、その足取りは羽が生えたように軽かった。
髪につけたリボンが、風に揺れる。
この重みが、私を新しい自分へと変えてくれる気がした。
ただの領主代行じゃない。
誰かにとっての「特別」になれるかもしれない自分へ。
私はリボンをもう一度確かめ、誓うように強く握りしめた。
この贈り物に相応しい女性になろう。
いつか、彼が照れずに「綺麗だ」と言ってくれるような、そんな私に。




