第8話 湯けむりと嫉妬のマント
蛇口から滴り落ちる透明な雫を、私はこの数日間、祈るような気持ちで見つめていた。
水はある。
小屋もある。
あとは「器」が届くだけ。
その待ち遠しさは、遠足の前日の子供のような、あるいは舞踏会の招待状を待つ令嬢のような、浮き立つ焦燥感だった。
カラン、コロン。
乾いた鐘の音が、再び屋敷の前庭に響き渡った。
私は弾かれたように顔を上げた。
仮設テントの中で整理していた種袋が、手から滑り落ちる。
「来た!」
私はテントを飛び出した。
夕暮れの街道の向こうから、ベルナルド様の馬車――今度は荷台を牽引した大型のもの――が砂煙を上げて近づいてくるのが見えた。
「フィオナ様、お待たせしました!」
御者台からベルナルド様が手を振る。
その背後、幌の下に見え隠れする白くて大きな影。
間違いなく、私のバスタブだ。
「ベルナルド様!」
私はエプロンの裾を翻して駆け寄った。
レオンハルト様やポチ、ドンも集まってくる。
騎士たちに至っては、「風呂だ! 風呂が来たぞ!」と歓声を上げて作業を中断している。
みんな、泥と汗にまみれた生活に限界が来ていたのだ。
「いやあ、重かったです。途中で車輪が一つイカれましたよ」
ベルナルド様は涼しい顔で荷台から降りると、恭しく幌を捲り上げた。
現れたのは、カタログの絵そのもの――いいえ、それ以上に美しい、純白の陶器製バスタブだった。
滑らかな曲線を描く縁取り。
猫の足を模した金色の脚部。
夕日を浴びて艶やかに輝くその姿は、この荒野にはあまりに不釣り合いで、だからこそ奇跡のように尊く見えた。
「……綺麗」
私はそっと、その縁に触れた。
ひんやりとして、吸い付くような手触り。
これから始まる至福の時間を想像して、指先が震えた。
「さあ、運び込みましょう。ドン君、手伝ってくれますね?」
『……おうよ! 俺様の出番だ!』
ドンが地面を操作し、バスタブをふわりと持ち上げる。
まるで羽毛のように軽々と運ばれていく巨大な浴槽を、私たちは行列を作って追いかけた。
小屋の中に設置され、配管が接続される。
蛇口がひねられる。
マリンの清浄な水が、勢いよくバスタブの底を打ち始めた。
同時に、ベルナルド様が持参した魔石式の給湯器が唸りを上げ、冷たい水を適温のお湯へと変えていく。
湯気が立ち上る。
小屋の中が、温かく湿った空気で満たされていく。
「……準備完了です」
ベルナルド様が眼鏡を拭きながら告げた。
「一番風呂は、もちろん領主代行殿の特権ですよ」
「はい……! ありがとうございます!」
私は小屋の鍵をかけ、深呼吸をした。
外では騎士たちが宴会のような騒ぎで順番待ちをしているけれど、今は気にしない。
この一時間だけは、私だけのものだ。
服を脱ぐ。
泥でゴワゴワになったチュニック、汗の染みた肌着。
それらを脱ぎ捨てるたびに、重たい殻を脱ぎ捨てていくような開放感があった。
私は裸足で、スノコの上に立った。
鏡はないけれど、自分の肌が薄汚れているのはわかる。
でも、それもこれでおしまい。
バスタブに足をかける。
お湯に浸かる。
「……はぁぁ……」
ため息が、魂の底から漏れ出した。
温かい。
お湯が全身を包み込み、凝り固まった筋肉を溶かしていくようだ。
毛穴の一つ一つが開いて、身体の中の澱んだものが流れ出していく感覚。
『……ん〜っ! 極楽ね!』
水面からポコポコと泡が立ち上り、マリンが小さな姿で現れた。
彼女もまた、お湯の温かさにうっとりと目を細めている。
『やっぱりお湯はいいわ。肌の純度が上がる音がするわ』
「うん、最高よ……。生きててよかった」
私はお湯をすくい、顔を洗った。
ベルナルド様がオマケでつけてくれた、バラの香りの石鹸を泡立てる。
ふわふわの泡が、肌の上を滑る。
ゴシゴシ擦らなくても、マリンの浄化作用のおかげで、汚れが嘘のように落ちていく。
髪を洗う。
指通りが悪いほどギシギシだった髪が、お湯を含んでツルツルに変わる。
『フィオナ、背中流してあげる』
マリンが私の背中に回り込み、水の流動で作った手でマッサージを始めた。
『あ、そこ……気持ちいい』
『でしょ? 水圧マッサージよ。……ふふ、あなた意外と肌が綺麗ね。泥さえ落とせば、王都の姫君にも負けてないわよ』
「買い被りすぎよ。……ただの元令嬢だもの」
私はお湯の中で膝を抱えた。
お湯に映る自分の顔を見る。
血色が良くなって、目が輝いている。
王都にいた頃、化粧で必死に隠していた疲れや不安が、ここにはない。
この荒野で、私は自分を取り戻しているのかもしれない。
泥だらけになって、汗をかいて、そしてこうして綺麗になる。
その繰り返しが、私を作っている。
一時間ほど長湯をして、私は小屋を出た。
外はすっかり日が暮れて、満天の星空が広がっていた。
夜風が濡れた髪を撫でるけれど、身体が芯から温まっているから寒くない。
むしろ心地よかった。
私は新しいワンピース――これもベルナルド様が持ってきたものだ――を纏い、タオルで髪を拭きながら歩き出した。
清潔な布の感触。
石鹸の香り。
自分が生まれ変わったように軽やかだ。
「おや、上がりましたか」
前庭の方から声がした。
ベルナルド様だ。
彼は騎士たちと焚き火を囲み、商談……という名の宴会に参加していたらしい。
私に気づき、立ち上がってこちらへ歩いてくる。
「どうでしたか、我が商会のバスタブは」
「最高でした。……本当に、生き返りました」
私は心からの笑顔で答えた。
ベルナルド様が、ふと足を止める。
糸目がわずかに開かれ、私をじっと見つめた。
「……ほほう」
彼は意味深に口元を歪め、一歩近づいてきた。
「これはこれは。……泥だらけの原石かと思っていましたが、磨けばここまでの輝きとは」
「え?」
「湯上がりのフィオナ様、実に艶っぽい。王都の舞踏会に行けば、貴族たちが列をなしますよ」
彼は冗談めかして言ったけれど、その目は商人の値踏みするような色を帯びていた。
私は急に恥ずかしくなって、濡れた髪を手で押さえた。
無防備すぎただろうか。
まだ髪も乾いていないのに、男性の前に出るなんて。
「あ、あの……そ、そうですか?」
しどろもどろになる。
どう返せばいいのかわからない。
その時だった。
バサッ。
視界が暗くなった。
温かくて重い何かが、頭からすっぽりと被せられたのだ。
獣の匂いと、微かな鉄の匂い。
そして、慣れ親しんだ安心する匂い。
「……レオンハルト様?」
私は布の隙間から顔を出した。
目の前に、レオンハルト様の背中があった。
彼は自分のマントを私に被せ、ベルナルド様の前に立ちはだかっていたのだ。
「……レオン? いきなり何ですか」
ベルナルド様が不満げに眉を寄せる。
「フィオナを見るな」
レオンハルト様の声は、氷点下のように冷たかった。
地を這うような低音。
背中越しでも、彼がベルナルド様を睨みつけているのがわかる。
「無防備すぎる。……男の前に、そんな姿で晒すな」
「そんな姿って……ただのお風呂上がりですよ? 減るもんじゃなし」
「減る」
「はい?」
「俺の精神衛生が減る」
レオンハルト様は言い捨てると、振り返って私の肩を抱き寄せた。
マントごと、きつく抱きしめられるような力強さ。
「フィオナ、髪が濡れている。風邪を引くぞ」
「あ、はい……平気ですけど……」
「平気じゃない。部屋に戻れ。……送る」
彼は私の返事も待たずに、屋敷の方へと歩き出した。
私はマントに包まれたまま、よちよちとついていくしかない。
チラリと後ろを見ると、ベルナルド様が口笛を吹きながら、楽しそうに肩をすくめていた。
『青春ですねぇ』という声が聞こえた気がした。
屋敷の入り口まで来ると、レオンハルト様はようやく足を止めた。
マントを少しだけ持ち上げ、私の顔を覗き込む。
月明かりに照らされた彼の顔は、怒っているようにも、拗ねているようにも見えた。
耳が赤い。
「……無用心だ」
彼はポツリと呟いた。
「ここは男ばかりだ。……俺も含めてな」
「え……?」
「その……綺麗になりすぎるのも、考えものだと言っているんだ」
彼はガシガシと頭を掻き、視線を逸らした。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
綺麗になりすぎる。
それって、褒め言葉?
それとも、心配してくれているの?
心臓が、お風呂上がりとは違う理由で高鳴り始めた。
「……気をつけます」
私はマントを握りしめ、小さく答えた。
このマントは、彼が私を守ろうとしてくれた証だ。
物理的な危険からも、そして他人の視線からも。
「……ああ。早く乾かして寝ろ」
彼は私の頭をマントの上からポンと叩くと、逃げるように背を向けた。
「おやすみ」
「おやすみなさい、レオンハルト様」
私は彼の背中を見送った。
夜風が吹くけれど、マントの中は驚くほど温かかった。
彼があんな態度を取ったのは、監視役としての義務感だけなのだろうか。
それとも――。
期待してしまう自分を抑えつけながら、私はマントに残る彼の匂いを深く吸い込んだ。
この甘酸っぱいような、むず痒いような気持ちは、カタログには載っていない、お金じゃ買えないものだった。




