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婚約破棄された令嬢は、召喚獣たちとほのぼの領地改革します  作者: 九葉(くずは)


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第2話 荒野の廃屋

一歩踏み出すたびに、埃が舞い上がる。

ゲホッ、と咽せながら口元を袖で覆った。


屋敷の中は、外よりも幾分か涼しかった。

けれど、空気は澱んでいる。

カビと腐った木材、そしてネズミのような獣の臭いが入り混じった不快な臭気。


「……誰もいないの?」


恐る恐る声を出す。

返ってくるのは、自分の声の反響だけだ。


玄関ホールは広かった。

かつては豪華だったであろうシャンデリアが、天井から半分外れかけてぶら下がっている。

床の大理石はひび割れ、隙間から枯れた雑草が顔を出していた。


壁に掛かっていた絵画は額縁だけを残して腐り落ち、床に黒いシミを作っている。


ひどい。

想像以上だわ。


私はトランクを引きずりながら、奥へと進んだ。

車輪が壊れているから、持ち上げて運ぶしかない。

重い。

十歩進むだけで腕が痺れてくる。


廊下の突き当たりにある扉を開けてみる。

蝶番が錆びついていて、嫌な音と共に重い扉が動いた。


そこは食堂のようだった。

長いテーブルが置かれているが、脚が一本折れて傾いている。

椅子は薪の山のように散乱していた。


「キッチンは……あっちかしら」


食堂の奥、配膳用と思われる扉をくぐる。

そこにあったのは、煤と脂汚れで真っ黒になったかまどと、何かの巣になった棚だけ。


水道の蛇口を捻ってみる。

カスカスという乾いた音がして、一滴の水も出なかった。

井戸が枯れているのか、ポンプが壊れているのか。

私には確かめる術もない。


ため息すら出ない。

ここでの生活を想像しようとして、思考が停止する。


「……まずは、寝る場所を確保しなきゃ」


日が暮れる前に、安全な場所を見つけないと。

一階は窓も扉も壊れていて、外と変わらない。

獣が入ってくるかもしれない。


私はきびすを返し、玄関ホールへ戻った。

階段を見上げる。

手すりは所々欠けているけれど、石段自体はしっかりしていそうだ。


トランクを一段ずつ引き上げる。

ガツン、ガツンと音が響く。


「はぁ……はぁ……ッ」


二階に着く頃には、汗だくになっていた。

着ているのは王都から着てきた灰色のワンピースだ。

すでに裾は埃まみれで、袖口はどこかで引っ掛けたのか解れている。


廊下を歩き、手当たり次第に部屋を覗いていく。

どの部屋も似たような惨状だった。

雨漏りで床が抜けている部屋。

鳥の死骸が転がっている部屋。


一番奥の部屋だけが、比較的マシだった。

窓ガラスは割れているけれど、雨戸が閉まっているおかげで内部の損傷が少ない。

家具はベッドフレームとクローゼットだけ。

埃の積もり方も、他の部屋よりは穏やかだ。


「ここにするわ」


荷物を部屋の隅に置く。

ベッドにマットレスはない。

床に直接寝るしかなさそうだ。


でも、このままじゃ寝られない。

床にはうっすらと砂が積もっている。


「掃除……しなきゃ」


私はトランクから、替えの肌着を取り出した。

雑巾なんて持っていない。

これを雑巾代わりにするしかない。


しゃがみ込み、床を拭き始める。


ザリッ。ザリッ。

砂が布に擦れる音が耳障りだ。


「……っ」


五分もしないうちに、腕が悲鳴を上げた。

今まで、掃除なんて一度もしたことがなかった。

屋敷には常に使用人がいて、私が落としたハンカチすら拾わせてくれなかったから。


『フィオナ様の手は、刺繍をするための美しい手ですから』


乳母の言葉を思い出す。

あの頃は、それが優しさだと思っていた。

でも今は、その言葉が呪いのように感じる。


私は生活するための力を、何一つ持っていない。


「痛い……」


指先に棘が刺さった。

血が滲む。

たったそれだけのことで、涙が込み上げてくる。


拭いても拭いても、砂はなくならない。

隙間から無限に湧き出てくるようだ。


一時間ほど格闘して、私が綺麗にできたのは畳一畳分ほどのスペースだけだった。

肌着は真っ黒になり、ボロボロだ。


私は力尽きて、その場にへたり込んだ。


「……何やってるんだろう、私」


膝を抱える。

お腹が空いた。

朝から何も食べていない。


トランクの奥から、布に包んだ干し肉とパンを取り出す。

これが私の全財産だ。


パンを齧る。

石のように硬い。

水筒の水で無理やり流し込む。

味なんてしなかった。


干し肉は塩辛くて、噛み切るのに顎が疲れる。


「あと、どれくらい保つのかな」


この食料が尽きたら、私はどうなるんだろう。

市場なんて近くにない。

畑を作るにしても、種を植えてから実るまで何ヶ月もかかる。

そもそも、水がない。


死ぬんだわ。

ここで、誰にも知られずに。


窓の隙間から、赤い光が差し込んでいた。

夕焼けだ。

王都で見る夕焼けよりも、ずっと濃くて毒々しい赤。


やがて、その赤も黒に塗り潰されていく。

夜が来る。


私はトランクから毛布を引っ張り出し、頭から被った。

掃除した狭いスペースに丸くなる。

硬い床が骨に当たって痛い。


暗い。

静かすぎる。


王都の夜は賑やかだった。

馬車の音、遠くから聞こえる音楽、人々の喧騒。

ここは、風の音しかしない。

世界に私一人しかいないみたいだ。


ガタッ。


不意に、下の階で音がした。


心臓が跳ね上がる。

息を潜める。


風?

それとも、崩れかけの壁が落ちた音?


ズズッ……ズズッ……。


違う。

連続している。

重いものを引きずるような音。

あるいは、何か大きな生き物が這っているような音。


『……腹減った……』


まただ。

昼間、門の前で聞いたあの声。

今度はもっとはっきりと聞こえた。


幻聴じゃない。

何かがいる。

この屋敷の中に、私以外の何かが。


『……食いモン……どこだ……』


低い、唸るような声。

一階の廊下を、ゆっくりと移動している気配がする。

階段の方へ近づいている気がした。


震えが止まらない。

魔物だ。

エドワード様が言っていた通り、ここは魔物の巣窟だったんだ。


私は毛布を強く握りしめ、口元を押し当てて悲鳴を殺した。


鍵なんてない。

ここが見つかったら、終わりだ。


ズズッ、ズズッ。


音は階段の下で止まった。


『……匂うぞ……』


鼻をすするような音。

私の心臓の音が、鼓膜を破りそうなくらいうるさい。


お願い。

来ないで。

私には何もないの。

お肉も美味しくないし、魔力だってほとんどないの。


目を閉じて祈る。

それしかできない自分が、惨めで仕方なかった。


静寂が、永遠のように長く感じられた。

次の瞬間。


ミシミシッ。


階段が軋む音がした。


上ってきている。

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