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婚約破棄された令嬢は、召喚獣たちとほのぼの領地改革します  作者: 九葉(くずは)


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第6話 潔癖症の精霊と白亜の約束

空を突き破るような水柱の残像が、まだ網膜に焼き付いている。

私はレオンハルト様の腕の中で、眼下に広がる信じられない光景を見下ろしていた。


枯れ果てていた窪地は、今は満々と水を湛えた美しい湖へと変わっている。

月明かりを反射して煌めく水面は、まるで夜空を切り取って地上に貼り付けた鏡のようだ。

ポチがゆっくりと旋回し、湖畔の乾いた地面へと舞い降りた。


「……降りられるか?」


レオンハルト様の声が耳元で響く。

その低音に、早鐘を打っていた心臓が少しだけ落ち着きを取り戻す。


「はい、大丈夫です」


私は頷き、地面に足をつけた。

ブーツが湿った土を踏む感触。

さっきまでのカサカサした砂の感触とは違う、生命を含んだ柔らかさだ。


湖の中心から、青い光の粒子がふわりと近づいてきた。

光は波打ち際で収束し、一人の少女の姿を形作った。


透き通るような水色の髪は、重力などないかのようにふわりと漂っている。

肌は陶器のように白く、纏っているドレスは薄い水の膜でできていた。

その美しさは、絵画や物語の中のどんな姫君よりも幻想的だった。


(綺麗……)


思わず息を呑む。

さっきまで泥だらけの塊だったなんて信じられない。

彼女が、この泉の主。

伝説に謳われる水の精霊なのだ。


彼女は音もなく宙に浮いたまま、優雅に腕を組んだ。

そして、その群青色の瞳で、私とレオンハルト様、そしてポチとドンをじろりと見回した。


美しい唇が開く。

どんな感謝の言葉、あるいは神託が下されるのだろうか。

私は背筋を伸ばし、緊張に身を固くした。


『……サイテー』


「へ?」


予想外の単語に、間の抜けた声が出た。


彼女は柳眉を吊り上げ、自分の周りの空気を手で払うような仕草をした。


『何この臭い。土臭い、獣臭い、汗臭い! 信じられないわ、こんな不衛生な環境!』


鈴を転がすような美声で放たれたのは、容赦のない罵倒だった。


『特にそこの茶色いの! あなた、いつからお風呂に入ってないの!? 菌が移るから半径五メートル以内に近づかないでくださる?』


『……あぁ!?』


ドンが地面から飛び出し、怒りで顔を真っ赤(土色から赤土色)にした。


『なんだとこの水女! せっかく掘り起こしてやった恩人にその口の利き方はなんだ!』


『掘り起こした? 笑わせないで。あなたの泥だらけの手で触られたせいで、私の純度が下がったのよ! 賠償請求したいくらいだわ!』


『お、お前なぁ……!』


一触即発。

感動の対面は、わずか数秒で痴話喧嘩……いや、罵り合いへと発展してしまった。


私は呆気にとられ、口をパクパクさせることしかできない。

レオンハルト様も、額に手を当てて深い溜息をついている。


「……気難しそうだな。水の精霊ウンディーネ級ともなれば、自我が強すぎるのが常だが」


「レオンハルト様、これって……」


「潔癖症だ。……最悪の相性だな」


潔癖症。

その言葉が、私の泥だらけの服に重くのしかかる。


今の私は、頭のてっぺんから爪先まで泥まみれだ。

さっきの水しぶきで多少は落ちたけれど、繊維に染み込んだ汚れは消えていない。

彼女にとって、私は歩く汚物のようなものかもしれない。


『ああもう、耐えられない!』


精霊の少女はヒステリックに叫び、湖の水面をバシャリと叩いた。


『こんな汚い場所、一秒だって居られないわ! 私は帰らせてもらいます! 綺麗な海への水脈を探して、さっさと引っ越すわ!』


「えっ!?」


私は慌てて一歩踏み出した。


「ま、待ってください! 行かないで!」


せっかく蘇った水源だ。

彼女がいなくなれば、この湖はまたすぐに干上がってしまうだろう。

そうすれば、お風呂も、畑の水やりも、騎士たちの飲み水も、全部夢と消える。


『触らないで!』


彼女がビシッと私を指差した。

水鉄砲のような水流が飛んできて、私の鼻先を掠める。


『あなたもよ、泥んこ娘。さっき水をくれたことには感謝してあげなくもないけれど……その汚い格好、生理的に無理なの』


彼女の視線が、私のボロボロのブーツと、泥の跳ねたズボンを冷たく射抜く。


「うっ……」


胸がチクリと痛む。

王都の夜会で、令嬢たちに向けられた蔑みの視線を思い出した。

「汚らわしい」「近寄るな」。

あの時の無力感が、喉の奥からせり上がってくる。


でも。


(……違う)


私は拳を握りしめた。

爪が掌に食い込む痛みで、過去の幻影を振り払う。


今の私は、ただ怯えて逃げ出すだけの令嬢じゃない。

この泥は、私がここで生きていくために必要なものだった。

恥じることなんてない。


「……汚れているのは、わかっています」


私は一歩も引かずに、彼女を見上げた。


「でも、それは私たちがここで必死に働いているからです。この屋敷を直して、畑を作って……暮らしていくために」


『ふん。それが私に何の関係があるの? 私は綺麗な水と、優雅な生活が好きなの。汗水垂らすなんて野蛮だわ』


彼女はつんと顔を背けた。

取り付く島もない。

このままでは交渉決裂だ。


どうすればいい?

彼女を引き止める材料は?

彼女が求めているもの。

綺麗な水。

優雅な生活。

そして、汚れを嫌う潔癖さ。


(……あっ)


カタログのページが、脳裏をよぎった。

私が欲しかったもの。

そして、彼女が絶対に喜ぶもの。


「……お風呂」


私は呟いた。


「お風呂、好きですか?」


ピクリ。

精霊の尖った耳が動いた。

背を向けたまま、動きが止まる。


「とびきり広くて、真っ白で、ピカピカのバスタブ。……興味ありませんか?」


『……バスタブ?』


彼女がゆっくりと振り返った。

その瞳に、微かな好奇心の色が浮かんでいる。


手応えあり。

私は畳み掛けた。


「今、王都から取り寄せているんです。最高級の、猫足バスタブを」


私は身振り手振りで、その大きさと美しさを表現した。


「陶器製で、肌触りはツルツル。縁には金の装飾があって……そこに、あなたの綺麗な水を満たすんです」


『……ふぅん』


彼女は少しだけ高度を下げて、私に近づいてきた。


『それで? ただの桶じゃないの?』


「違います。専用の給湯システム……えっと、お湯を沸かす魔道具もつけます! 温かいお湯に浸かって、バラの香りの石鹸で泡風呂にするんです」


「泡風呂」という単語が出た瞬間、彼女の目がキラリと光った。


『泡風呂……! アワアワの、フワフワのやつ?』


「はい! 私、王都にいた頃は毎日入っていました。最高に気持ちいいですよ。一日の汚れが溶けていって……お肌もスベスベになります」


『スベスベ……』


彼女は自分の頬をうっとりと撫でた。

想像している。

温かいお湯に包まれる自分を。


『……悪くないわね。この湖も広くていいけれど、やっぱり温かいお湯でケアしないと、肌の純度が落ちちゃうもの』


彼女は空中で腕を組み、チラリと私を見た。

値踏みするような目だ。


『でも、あなた泥だらけじゃない。そんな汚い手で、私の神聖なバスタイムを用意できるわけ?』


「できます!」


私は自分の両手を彼女の前に突き出した。

黒ずんだ指先。

さっきまでコンプレックスだった手。

でも今は、これが私の最大の武器だ。


「この手で、泥だらけのあなたを見つけて、掘り出しました。……だから、今度はこの手で、最高のお風呂を作ってみせます」


彼女は私の手をじっと見つめた。

そして、ふいっと視線を逸らし、小さく鼻を鳴らした。


『……口が上手いのね、人間って』


声のトゲが、少しだけ丸くなっていた。


『いいわ。契約してあげる』


「本当ですか!?」


『ただし! 条件があるわ』


彼女はビシッと指を立てた。


『一つ。私専用のバスルームを作ること。もちろん、常にピカピカに磨き上げておくこと』


「はい、約束します!」


『二つ。毎日、あなたが私を洗うこと。……背中とか、自分じゃ届かないところがあるのよ』


「え、私が?」


『嫌なの? さっきあんなに偉そうなこと言っておいて』


「い、いえ! 喜んでやらせていただきます!」


メイド仕事の経験はないけれど、ポチのブラッシングなら慣れている。

要領は同じはずだ……多分。


『三つ。……その』


彼女は少し言い淀み、頬をほんのりとピンク色に染めた。


『私の名前。……つけてくれる?』


「名前?」


『そうよ。ずっと昔の主様につけてもらった名前があったけど……忘れちゃったわ。新しい契約なら、新しい名前が必要でしょ?』


彼女は期待と不安が入り混じった目で、私を見上げていた。

寂しがり屋。

ドンが言っていた通りだ。

口は悪いけれど、本当は誰かと繋がっていたいのだ。


私は彼女の透き通るような青い姿を見つめた。

湖の色。

空の色。

そして、海の色。


「……マリン」


自然と、その響きが口をついて出た。

かつて読んだ物語に出てくる、海を司る女神の名前。


「マリンはどうかしら。……海のように広くて、美しいっていう意味」


『マリン……』


彼女は口の中でその音を転がした。

そして、パァッと花が咲くように笑顔になった。


『マリン……うん、悪くないわね! 響きも可愛いし、私の高貴さにぴったりだわ!』


彼女――マリンは満足げに胸を張り、スッと私の前に手を差し出した。


『契約成立よ、フィオナ。……光栄に思いなさい』


その手は、水でできているはずなのに、確かな質量を持っていた。

私は泥を服で必死に拭ってから、その手をそっと握り返した。


ひんやりとして、柔らかい。

ゼリーのような不思議な感触。


「よろしくお願いします、マリン」


その瞬間、淡い青い光が私たちの手を包み込んだ。

魔力のパスが繋がる感覚。

ポチの時のような熱い奔流ではなく、静かな水が染み渡るような、穏やかな契約だった。


『ふふん。これで宿無しは免れたわね』


マリンは手を離すと、私の肩――ドンが乗っていない方――にふわりと舞い降りた。

重さをほとんど感じない。


『さあ、早く帰りましょ。ここ、やっぱり湿気が足りなくて肌がカサつくわ』


「はいはい。……あ、でも屋敷まで歩かないと」


『ええっ、歩くの? 汚れるじゃない!』


『……おい水女、文句ばっかり言ってねぇで少しは我慢しろ』


反対の肩でドンが呆れ声を上げる。

マリンは『フンッ』と鼻を鳴らし、私の髪の毛をクッションにしてくつろぎ始めた。


私は苦笑しながら、レオンハルト様の方を振り返った。

彼は一部始終を黙って見ていたが、目が合うと小さく肩をすくめた。


「……賑やかになりそうだな」


「そうですね。……でも、水は確保しました」


私は胸を張った。

これで、念願のお風呂生活が手に入る。

騎士たちの労働も減らせる。

そして何より、新しい家族が増えた。


「帰りましょう、レオンハルト様。……カタログ、もう一度見直さないと」


「ああ。バスタブの他に、石鹸も追加だな」


「そうですね。マリンのために、一番いい香りのやつを」


『バラの香りがいいわ! あとラベンダーも!』


肩の上でマリンが注文をつける。

ポチも足元で『にくー!』と吠えている。


騒がしくて、温かい夜。

私は泥だらけの服のまま、けれど心は最高に晴れやかな気分で、屋敷への帰路についた。


この水源が、私たちの生活を劇的に変えることになるなんて、この時の私はまだ想像もしていなかったけれど。

とりあえず今は、これから届くバスタブのことだけを考えていよう。


そう決めて、私は夜道を照らす月を見上げた。

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