第5話 泥だらけの拒絶と一滴の清水
指先に残る黒い土の冷たさが、まだ微かに脈打っているような気がした。
夕闇が濃くなる窪地の底で、私は握りしめた土塊を見つめる。
乾ききった荒野の下に眠る、確かな水の気配。
それはまるで、私の身体を巡る血のように、見えないけれど確かにそこにある命の証だった。
「……掘ります」
私は立ち上がり、レオンハルト様を見上げた。
「水脈が深すぎるなら、私たちが降りていけばいい。泥を掻き出せば、きっと出口が見つかるはずです」
レオンハルト様は呆れたように眉を上げたが、止めることはしなかった。
私の目が本気なのを知っているからだ。
「……ドン。地盤は安定しているか?」
「ああ。崩れる心配はねぇよ。……ただ、こびりついた泥は相当頑固だぞ」
ドンが地面を蹴ると、ゴッという鈍い音が響いた。
長年の乾燥で石のように固まった泥層。
これを人力で剥がすのは、骨の折れる作業だ。
「やってみるわ」
私はカタログと一緒に購入していた園芸用スコップを構え直した。
小さな道具だけれど、今の私にはエクスカリバーより頼もしい武器だ。
ザクッ。
切っ先を突き立てる。
硬い。
岩を削っているようだ。
「……っ」
体重を乗せる。
柄を握る手に、ここでの生活を良くしたいという執念を込める。
メリメリと音を立てて、ようやく拳大の泥塊が剥がれた。
『……フィオナ、てつだう!』
ポチが私の横に滑り込み、鋭い爪で地面を引っ掻いた。
ガリガリガリッ!
さすがドラゴン。
スコップの倍の速さで土が掘り返されていく。
「ありがとう、ポチ! その調子!」
『……まかせろー!』
尻尾をブンブン振りながら、ポチは穴掘り犬のように前足を動かす。
泥が飛び散り、私の頬にペチャリと張り付いた。
冷たくて、少し生臭い。
王都にいた頃なら、悲鳴を上げてハンカチを探しただろう。
でも今は、袖で乱暴に拭うだけだ。
泥の感触が、私たちが前に進んでいる証拠みたいで、少しも嫌じゃなかった。
「……たく、見てられんな」
ため息と共に、銀色の影が動いた。
レオンハルト様が上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げている。
「貸せ。……俺が砕く。お前たちは土を外へ運び出せ」
「えっ、でもレオンハルト様のお洋服が……」
「服など洗えばいい。日が暮れる前に終わらせるぞ」
彼は私の手からスコップをひったくると、代わりに魔力を帯びた氷のツルハシを作り出した。
キンッ!
美しい音がして、硬い岩盤がバターのように切り裂かれる。
「……すごいです」
「口を動かすな。手を動かせ」
ぶっきらぼうな声。
でも、その背中は誰よりも頼もしかった。
私たちは無言で作業を続けた。
レオンハルト様が砕き、ドンが土を集め、私とポチが窪地の外へ運び出す。
単純作業の繰り返し。
汗が目に入り、泥が爪の間を埋め尽くす。
一時間ほど経っただろうか。
窪地の中央が、さらに一メートルほど掘り下げられた頃だった。
カチン。
レオンハルト様のツルハシが、何か異質な音を立てた。
土でも岩でもない。
金属か、あるいはガラスのような硬質な音。
「……ん?」
彼は手を止め、ツルハシを消した。
しゃがみ込み、掘り起こされた黒い土の山を凝視する。
「何かありましたか?」
私は手で額の汗を拭いながら近づいた。
心臓がトクトクと鳴る。
水脈に当たったのだろうか。
「……いや。水じゃない。何かが埋まっている」
彼は手で慎重に泥を払いのけた。
そこにあったのは、巨大な泥団子のような塊だった。
大きさは抱き枕くらいあるだろうか。
周囲の土よりも色が濃く、そして奇妙なことに、ぬめるような光沢を帯びている。
「岩……でしょうか?」
「いや、違う」
レオンハルト様が眉をひそめ、手をかざした。
「魔力反応がある。……微弱だが、生きているぞ」
生きている?
この泥の塊が?
私は思わず後ずさった。
背筋がゾクリとする。
魔物か何かの卵だろうか。
割ったら中から恐ろしいものが出てくるんじゃ……。
『……くさい』
ポチが鼻をつまむような仕草をした。
『……これ、なんか、腐った水の匂いがする』
腐った水。
澱んだ沼地のような、ツンとする臭気が漂っている。
『……おいおい、まさか』
ドンが私の肩によじ登り、身を乗り出した。
その土色の顔が、驚愕に見開かれている。
『……こいつは、精霊の成れの果てだ』
「え?」
『……汚れちまって、穢れちまって……本来の姿を保てなくなった精霊の核だ』
精霊。
水の精霊?
私は泥塊を見つめた。
これが、かつてこの泉を守っていたという存在なの?
じっと見ていると、泥の表面がブクリと波打った。
粘つくような音。
まるでヘドロのようだ。
『……汚い……』
声が、聞こえた。
頭の中に直接響くノイズ混じりの声。
弱々しくて、今にも消え入りそうで。
でも、そこには強烈な拒絶が込められていた。
『……見ないで……触らないで……』
拒絶。
その感情が、私の胸を鋭く刺した。
(あ……)
記憶がフラッシュバックする。
婚約破棄された夜の舞踏会。
泥を投げつけられたわけじゃないのに、周囲の視線だけで全身が汚れたように感じたあの屈辱。
「穢らわしい」「近寄るな」という無言の圧力。
この子は今、自分で自分をそう思っているんだ。
汚れてしまった自分を、誰にも見られたくないと。
「……フィオナ、離れろ」
レオンハルト様が私を背後に庇い、腰の剣に手をかけた。
「穢れが溜まりすぎている。ヘドロの魔物化する寸前だ。……ここで祓うしかない」
祓う。
つまり、斬るということだ。
「待ってください!」
私はレオンハルト様の腕を掴んだ。
鋼のように硬い筋肉が、私の指の下で強張った。
「斬らないで。……この子、泣いてます」
「泣いているだと? ただの魔力暴走のノイズだ」
「違います! 『汚い』って……『見ないで』って言ってるんです!」
私は泥塊へと向き直った。
黒くて、ドロドロで、悪臭を放つ塊。
普通の人間なら、生理的嫌悪感で顔を背けるだろう。
でも、私には違って見えた。
それは泥だらけになって座り込み、膝を抱えて泣いている女の子の姿に見えたのだ。
「……私と同じだわ」
ポツリと漏らす。
私も泥だらけだ。
服も、顔も、手も。
侯爵令嬢だった頃の私が見たら、卒倒するような姿。
でも、今の私は知っている。
泥は、ただの汚れじゃない。
頑張った証で、前に進むための勲章だということを。
「……汚くないよ」
私は一歩、泥塊に近づいた。
『……くるな……汚れる……』
声が強くなる。
泥の触手が威嚇するように伸びてくる。
「汚れても平気よ。ほら、見て」
私は自分の手を差し出した。
泥と土で真っ黒になった両手。
爪の間まで真っ黒だ。
「私なんて、あなたより汚れてるかもしれない」
泥塊の動きが止まった。
私の手と、自分の身体を見比べているような気配。
「……綺麗にしてあげる」
私は腰の水筒を取り出した。
チャプン。
最後の一口分の水。
騎士たちが苦労して運んでくれた、命の水。
飲むために取っておいたけれど、今はこれ以上の使い道なんてない。
「レオンハルト様、ポチ。……少しだけ、下がっててもらえますか」
「フィオナ、お前……」
「大丈夫です。噛み付いたりはしませんから」
私は泥塊の前に膝をついた。
ヘドロの臭いが鼻をつくけれど、息を止めたりはしない。
水筒の蓋を開ける。
「……冷たくて気持ちいいわよ」
そっと傾ける。
細い水流が、泥塊の頭頂部(らしき場所)に落ちた。
ジュワッ。
焼けた石に水をかけたような音がした。
黒い泥が洗い流され、その下から透き通るような青い輝きがチラリと覗く。
『……あ……』
声が変わった。
拒絶から、驚きへ。
「ほら、やっぱり綺麗じゃない」
私はハンカチを取り出し、濡れた部分を優しく拭った。
こびりついたヘドロは頑固だったけれど、水を吸うとボロボロと剥がれ落ちていく。
もっと水があれば。
全体を洗い流してあげられるのに。
水筒を逆さにする。
最後の一滴が落ちて、それで終わりだった。
「……ごめんね。水、これしかなくて」
私は空になった水筒を握りしめ、申し訳なさで眉を下げた。
中途半端だ。
これじゃ、一部しか綺麗にできなかった。
期待させて、がっかりさせただけかもしれない。
『……ちがう』
凛とした声が響いた。
さっきまでのノイズ混じりじゃない。
鈴を転がすような、澄んだ声。
『……足りないんじゃないの。……呼び水には、なったわ』
呼び水?
次の瞬間。
ドクンッ。
地面が大きく脈打った。
足元の土が液状化し、波紋のように広がっていく。
「うわっ!?」
私はバランスを崩して尻餅をついた。
泥塊から、強烈な青い光が噴き出した。
眩しい。
目が開けていられないほどの輝き。
ゴゴゴゴゴゴ……!
地鳴り。
いや、水音だ。
激流が地下から突き上げてくる音。
「フィオナ、つかまれ!」
レオンハルト様が私を抱き上げ、ポチの背中に飛び乗った。
ポチが翼を広げて空中に逃れる。
直後。
ドッパァァァァァァン!!
窪地の底から、巨大な水柱が天に向かって噴き上がった。
夕焼け空を突き破るような、クリスタルのような奔流。
枯れていたはずの泉が、爆発したかのように蘇ったのだ。
水しぶきが雨のように降り注ぐ。
冷たい。
でも、痛くない。
浄化の雨だ。
私の服についた泥が、顔の汚れが、見る見るうちに洗い流されていく。
「……すごい」
私はポチの背中で、呆然とその光景を見下ろした。
水柱の中心。
光の粒子が集まり、人の形を紡いでいく。
透き通るような青い髪。
水の衣を纏った、少女の姿。
彼女は空中に浮かび、ゆっくりと閉じていた目を開けた。
その瞳は、一番深い海の底のような、美しい群青色をしていた。
彼女は私を見上げ、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、さっきまでの「汚れた自分」を恥じていた子とは別人のようだった。
『……ありがとう、泥んこのお嬢さん』
彼女が指を鳴らすと、噴水が落ち着き、窪地は満々と水を湛えた美しい湖へと変わった。
『久しぶりのお風呂、最高だったわ』
その言葉に、私は自分の願いを思い出した。
お風呂。
そう、私はお風呂に入りたかったのだ。
目の前には、溢れんばかりの清浄な水。
そして、それを司る高位の精霊。
「……賭けは、私の勝ちですね」
私は誰に言うともなく呟いた。
濡れた髪から雫が落ちる。
その一滴一滴が、これからの生活が潤っていく予兆のように感じられた。
私の泥だらけの手は、もう綺麗になっていた。
でも、その掌に残る土の感触は、決して忘れないだろう。
それは、私たちがこの大地と、そして精霊と心を繋いだ、最初の温もりだったから。
私はレオンハルト様の腕の中で、光り輝く水の精霊に向かって、精一杯の手を振り返した。




