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婚約破棄された令嬢は、召喚獣たちとほのぼの領地改革します  作者: 九葉(くずは)


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第3話 重たい革袋とカタログの誘惑

羊皮紙の上で乾いていくインクの匂いが、鼻先をくすぐっていた。

震える指先でペンを置き、私は深い息を吐き出した。


「……これで、契約完了ですね」


ベルナルド様がにこりと笑い、契約書を丁寧に折りたたんで懐に仕舞い込んだ。

その動作の滑らかさに、私はようやく肩の力を抜いた。


終わった。

詐欺に遭ったわけでも、買い叩かれたわけでもない。

正真正銘、適正価格での取引だ。


「では、こちらが第一回分の代金になります」


ベルナルド様が足元の鞄から、ずっしりと重そうな革袋を取り出した。

ドサッ、とテーブルに置かれる。

中身がぶつかり合う、ジャラリという重厚な音が響いた。


「ご確認を」


促されて、私は恐る恐る袋の口紐を解いた。


「……あっ」


息を呑む。

夕日を反射して輝く、黄金色の海。

大金貨だ。

それも一枚や二枚ではない。

袋の底までぎっしりと詰まっている。


王都にいた頃、お父様から渡されていたお小遣いは銀貨数枚だった。

ドレスや宝石は現物支給で、現金を手にすることはほとんどなかったのだ。

だから、これほどの量の金貨を見るのは初めてだった。


袋を持ち上げてみる。

重い。

ずしりと手首に食い込む重量感。

これが、私たちが作った野菜の価値。

みんなで汗を流して育てた成果の重さだ。


「……信じられない」


私は金貨を一枚、摘み上げた。

冷たくて硬い金属の感触。

泥だらけで爪の黒ずんだ私の指には、あまりに不釣り合いな輝きだった。


「夢じゃありませんよ。これはあなたの正当な財産です、フィオナ様」


ベルナルド様が眼鏡の奥の目を細める。


「残りの代金は『銀の天秤』商会名義の小切手にしておきました。王都の銀行ならどこでも換金できますが……今のところ、ここじゃ紙切れ同然でしょう」


彼は肩をすくめ、鞄から分厚い冊子を取り出した。


「そこで、提案です。この小切手の一部を使って、必要な物資を調達しませんか?」


「物資……?」


「ええ。我が商会の通信販売カタログです。食料、衣類、家具、建材……金さえあれば、王都の流行品からドラゴンの一本釣りまで何でもお届けしますよ」


ドンッ、と置かれたその冊子は、まるで辞書のように分厚かった。

表紙には『銀の天秤・総合カタログ 2024年秋号』と金文字で箔押しされている。


「……おい、ドラゴンの一本釣りはやめろ」


後ろで腕を組んでいたレオンハルト様が、呆れたように口を挟んだ。

彼は私の肩越しにカタログを覗き込み、ふんと鼻を鳴らす。


「だが、悪くない提案だ。この辺境には物がない。フィオナ、必要なものをリストアップしろ。金なら腐るほどあるんだ」


「はい……!」


私は金貨袋を抱きしめたまま、カタログのページをめくった。

パラパラと紙が音を立てる。

色鮮やかな商品の絵が、次々と目に飛び込んでくる。


(すごい……何でも載ってる)


最初に探したのは、もちろんあの子たちのものだ。


「えっと、お肉……お肉は……」


食料品のページを開く。

あった。

『最高級・骨付きマンモス肉の燻製』

『ドラゴンも唸る! 特選霜降りステーキセット』


挿絵を見ただけで、口の中に唾が溜まる。

こんなお肉、王都の晩餐会でも見たことがない。


足元で気配がした。

ポチが私の膝に前足をかけ、尻尾をブンブン振ってカタログを覗き込んでいる。


『……フィオナ! これ! これうまそう!』


ポチが鼻先で『霜降りステーキ』の絵を突いた。


「ふふっ、わかったわ。これね」


私は迷わず注文書にチェックを入れた。

値段を見る。

銀貨十枚。

以前の私なら卒倒していた金額だが、今の私の手元には金貨の山がある。


(買える。……買えるわ!)


胸の奥が熱くなる。

我慢しなくていい。

一番良いものを、大切な家族に食べさせてあげられる。


「ドンには……これかしら」


農具と肥料のページを開く。

『ミスリル製・軽量鍬くわ

『大地の精霊が愛した最高級腐葉土』


地面からドンの声が聞こえる。

『……おう、その土だ! そいつはいい匂いがしやがる!』


迷わずチェックを入れる。

ペンを走らせるたびに、心が弾む。

買い物って、こんなに楽しいものだったかしら。

誰かの喜ぶ顔を思い浮かべながら選ぶ時間が、こんなに幸せだなんて。


ひと通りみんなの分を選び終えると、ベルナルド様が静かに言った。


「フィオナ様。……ご自分の分は?」


「え?」


顔を上げると、彼は私の服――泥で汚れ、裾の解れたチュニック――を意味ありげに見つめていた。


「失礼ながら、今の装いは領主代行としては少々……ワイルドすぎます。ドレスとまでは言いませんが、もう少し着心地の良い服を新調されては?」


言われて、私は自分の姿を見下ろした。

膝の泥汚れ。

袖口の擦り切れ。

もう何日も同じ服を着て、洗濯も川の水ですすぐだけだ。

ゴワゴワして肌触りが悪いし、獣の臭いも染み付いている気がする。


恥ずかしさが込み上げてくる。

レオンハルト様やベルナルド様の前で、こんな格好をしているなんて。


「……そう、ですね。服も、欲しいです」


衣類のページを開く。

素敵なワンピースや、丈夫そうな作業着が並んでいる。

どれも清潔で、柔らかそうだ。

指先で絵をなぞる。

新しい布の感触を想像するだけで、肌が喜んでいる気がした。


でも。

服よりも先に、どうしても欲しいものがあった。

ページをめくる手が止まる。

私の視線は、『家具・生活用品』のページに釘付けになっていた。


そこには、白く輝く猫足のバスタブが描かれていた。


「……あ」


声が漏れる。

お風呂。

温かいお湯に浸かって、身体を洗う時間。


王都にいた頃は当たり前だった。

毎晩、メイドがお湯を張り、バラの香りのする石鹸で身体を磨いてくれた。

でも、ここに来てからは一度も入っていない。

身体を拭くだけの日々。

髪はバサバサで、指の間の泥も落ちきらない。


(入りたい……)


切実な欲求が、喉の奥からせり上がってくる。

綺麗になりたい。

泥を落として、せっかくの新しい服を、清潔な肌で着たい。


私は顔を上げ、レオンハルト様とベルナルド様を交互に見た。

こんな贅沢を言っていいのだろうか。

まだ屋敷の壁すら直っていないのに。


でも、レオンハルト様は私の視線に気づくと、小さく顎をしゃくった。


「言え。金はあるんだ」


その一言が、背中を押してくれた。


「……お風呂が、欲しいです」


私はカタログのバスタブを指差した。


「この、大きいバスタブ。……買えますか?」


ベルナルド様がニヤリと笑った。


「ええ、もちろん。在庫もございます。……ただ」


彼は眼鏡の位置を直し、少し意地悪そうに付け加えた。


「バスタブは買えますが、中身は別売りですよ?」


「え?」


「水です。……この屋敷の井戸、枯れていると聞きましたが」


ハッとした。

そうだ。

忘れていた。

ここは水のない荒野だ。

飲み水でさえ、騎士団が遠くの川から苦労して汲んできている。

お風呂一杯分のお湯なんて、今の私たちには宝石よりも貴重な資源なのだ。


「……そう、でした」


私の指が、カタログから力なく滑り落ちた。

バスタブがあっても、お湯がなければただの箱だ。


急速にしぼんでいく私の高揚感を察したのか、レオンハルト様が眉を寄せた。


「川から運ばせるか? 力自慢の部下ならいくらでもいる」


「い、いえ! そんなことさせられません!」


毎日何往復もさせるなんて、申し訳なさすぎる。

それに、騎士団は私の召使いじゃない。


「……諦めます」


私はカタログを閉じようとした。

我慢すればいい。

今までだってそうしてきたのだから。


その時。

地面がモコモコと盛り上がった。


『……水か。嬢ちゃん、風呂に入りたいのか?』


ドンだ。

彼はテーブルの上にひょっこりと顔を出した(ベルナルド様が「うおっ」と声を上げて仰け反った)。


「うん。でも、水がないから……」


『……ここにはねぇな。だが』


ドンは土の手を伸ばし、屋敷の裏手にある森の方角を指差した。


『……昔はあっちに、コンコンと湧く泉があったんだ』


「泉?」


『ああ。今は干上がっちまってるがな。……あそこには、やかましい水野郎が住んでたはずだ』


水野郎。

ドンの言い方からして、ロクでもない相手か、あるいは腐れ縁の友人か。

でも、「住んでいた」ということは。


「そこに、水の精霊がいるってこと?」


『……かもしれねぇ。主がいなくなって拗ねて隠れてるだけかもしれん』


ドンは私の泥だらけの手を見た。

そして、ぶっきらぼうに言った。


『……嬢ちゃんのその手、俺は嫌いじゃねぇが。……たまには綺麗にしてぇよな』


ドンの優しさが、胸に染みる。

土の精霊である彼が、私のために「泥を落とす」ことを提案してくれているのだ。


私は拳を握り直した。

カタログのバスタブ。

そして、ベルナルド様から受け取った金貨袋。

手段(お金)はある。

目的(お風呂)もある。

足りないのは、それを満たす資源(水)だけ。


「……行ってみます」


私は立ち上がった。


「その泉、探してみます。……もし精霊がいるなら、話してみます」


「フィオナ?」


レオンハルト様が怪訝な顔をする。


「交渉するつもりか? 水の精霊は気難しいぞ。特に、人間の女には厳しいと聞く」


「大丈夫です。私には、交渉材料がありますから」


私はカタログをドンッと叩いた。

最高の住環境と、私の「声」。

そして何より、この泥だらけの身体を綺麗にしたいという執念。

これだけあれば、きっと話はできるはずだ。


「ベルナルド様、バスタブは注文します。……一番いいやつを」


「おや、強気ですねぇ」


ベルナルド様が楽しそうに注文書にペンを走らせる。


「では、商品が届くまでに水を確保できるか……賭けといきましょうか」


「負けませんよ」


私はニカっと笑ってみせた。

金貨袋の重みが、今は心地よい。

これはただの金属の塊じゃない。

私の夢を叶えるための、頼もしい武器だ。


私は屋敷の裏手に広がる荒れ地を見据えた。

待っていて、私のお風呂。

必ず満タンのお湯で満たしてあげるから。


夕闇が迫る中、私は新たな冒険――水源確保の旅への第一歩を踏み出した。

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