第2話 跳ね上がる価値と鑑定の沈黙
あの冷たく乾いた商人の手の感触が、まだ指先に残っている。
「契約成立」という言葉と共に握手をしたものの、その後のベルナルド様の沈黙が、私の心臓を嫌なリズムで叩き続けていた。
屋敷の中はまだ瓦礫の撤去が終わっていないため、私たちは前庭に設置された仮設のテーブルへと場所を移した。
椅子代わりの木箱に腰を下ろす。
たったそれだけの動作にも、妙な緊張が走る。
ベルナルド様は、テーブルの上に持参した革鞄を置いた。
カチャリ、と留め具を外す。
中から出てきたのは、精密な天秤と、何種類もの色のついた水が入った小瓶、そして銀色のナイフだった。
手際よく道具を並べていくその指には、一切の迷いがない。
プロの所作だ。
私は膝の上で拳を握りしめ、その様子を見守るしかなかった。
自分が作った野菜や、森の仲間がくれた果物が、まるで裁判にかけられる被告人のように思えてくる。
「では、拝見します」
ベルナルド様は白い手袋を嵌め直すと、まずは真っ赤なリンゴのような実――『スカーレット・アップル』を手に取った。
ルーペを覗き込みながら、表面の艶、色味、そしてヘタの部分を入念に確認する。
無言。
風が吹いて、近くの木々がざわめく音だけが響く。
次に、彼はナイフを取り出した。
果実に刃を当てる。
スッと抵抗なく刃が沈み、赤い果汁が滴り落ちた。
甘く、濃厚な香気が爆発するように広がる。
隣で控えていたポチが「クゥ〜ン」と鼻を鳴らし、尻尾をパタパタと振った。
それくらい美味しそうな香りだ。
けれど、ベルナルド様の表情はピクリとも動かない。
切り取った果肉の一片を、試験管のようなガラス瓶に入れる。
紫色の液体が入った瓶だ。
ポチャン。
果肉が沈む。
瞬間、液体がカッと黄金色に発光した。
「ッ……!」
ベルナルド様が息を呑む音が聞こえた。
糸目がほんのわずかに開き、試験管を凝視している。
額に脂汗のようなものが滲んでいるのが見えた。
怖い。
その反応が、私には何かの失敗のように見えた。
(やっぱり、ダメだったのかな)
王都での記憶が蘇る。
『魔物憑きの作ったものなど気味が悪い』
『毒が入っているんじゃないか』
そう言われて、手作りの刺繍を捨てられた日のこと。
この果物も、魔力が強すぎて人体に害があるのかもしれない。
あるいは、変な色に光ったせいで、売り物にならないと判断されたのかも。
ベルナルド様は試験管をスタンドに戻し、今度は無言で腕を組み、天を仰いだ。
長い溜息をつく。
それは、失望の吐息のように私の耳に届いた。
「……あの」
耐えきれず、私は口を開いた。
声が震える。
「やっぱり、質が悪い……でしょうか?」
ベルナルド様からの返事はない。
彼は目を閉じたまま、ブツブツと何か数字のようなものを呟いている。
私の不安は確信へと変わった。
怒っているんだわ。
わざわざ王都から馬車を飛ばして来たのに、見せられたのがこんな規格外の――あるいは規格外れの――粗悪品だったから。
申し訳なさで胸が潰れそうになる。
期待させてごめんなさい。
でも、せめてポチたちの食費くらいにはしたい。
私はテーブルに身を乗り出した。
必死で、言葉を紡ぐ。
「お、お金にならなくても構いません! 遠くから来ていただいたお礼として、全部差し上げますから……!」
せめて引き取ってもらえれば、腐らせずに済む。
レオンハルト様の顔も立つはずだ。
「ですから、どうか怒らないで――」
「……は?」
ベルナルド様が目を開けた。
そこには、きょとんとした色が浮かんでいた。
その時だった。
ドンッ!
テーブルに、分厚い革の手袋が叩きつけられた。
カップが揺れ、スプーンがチャリと音を立てる。
「……待て、ベル」
私の真横から、地を這うような低い声が響いた。
レオンハルト様だ。
彼はいつの間にか私の背後に立ち、テーブルに両手をついてベルナルド様を睨みつけていた。
その眼光は鋭く、まるで敵対する魔物を威圧する時のようだ。
「レオンハルト様?」
「フィオナ、騙されるな。こいつの悪い癖だ」
「え?」
「商談相手の不安を煽って、安く買い叩く。……あるいは、興奮しすぎて言葉を失っているのを、相手の自滅につなげる」
レオンハルト様はベルナルド様の顔の前に、ぬっと顔を近づけた。
「おい、ベル。この娘は俺の……大事な部下だ。食い物にするなら、俺が相手になるぞ」
殺気。
空気がビリビリと震える。
ポチが慌てて私の足の間に隠れた。
ベルナルド様は、ヒッと小さく喉を鳴らし、椅子の上で身体をのけ反らせた。
「ご、誤解です! 買い叩くなんて滅相もない!」
彼は慌てて手を振り、ハンカチで額の汗を拭った。
「言葉が出なかったのは事実ですが……それは呆れていたからじゃありません。驚愕していたからです!」
「驚愕……?」
私が聞き返すと、彼は先ほど光っていた試験管を手に取り、私の目の前に突き出した。
「見てください、この発光を! これは魔力純度が最高値に達した証拠です!」
彼の糸目が、興奮でまた開きかけている。
早口だ。
さっきまでの沈黙が嘘のように、言葉が溢れ出してくる。
「通常、市場に出回るスカーレット・アップルは、ここまでの反応を示しません。せいぜい薄い黄色になる程度です。なのにこれは、完全な黄金色! つまり、最高級ポーション『エリクサー』の触媒として使えるレベルなんです!」
「エリクサー……?」
物語の中でしか聞いたことがない名前だ。
死者さえ蘇らせると言われる、伝説の霊薬。
まさか、ポチがオヤツにしているリンゴが、その原料?
「フィオナ様、あなたはこれを『質が悪い』と言いましたが、とんでもない。王都の研究所が血眼になって探している代物ですよ。これ一つで、騎士団の年間予算が賄えるかもしれない」
年間予算。
桁が大きすぎて、頭が追いつかない。
私はテーブルの上の果物を見た。
ただの赤い実に見える。
でも、商人の目には、これが金貨の山に見えているのだ。
「……そ、そんなに……?」
「ええ。ですから、タダで譲るなんて言わないでください。私が心臓麻痺を起こします」
ベルナルド様は深呼吸をして、居住まいを正した。
そして、今度は電卓のような魔道具を取り出し、パチパチと指を走らせ始めた。
「適正価格で買い取らせていただきます。……もちろん、我が商会の利益分は引かせていただきますが、それでもあなたにとっては十分すぎる額になるはずです」
レオンハルト様が、ふん、と鼻を鳴らして身体を離した。
殺気は消えていたが、まだ油断なく商人を見張っている。
「……フィオナ。お前の作るものは、規格外なんだ。自覚しろ」
彼は私の肩に手を置き、ポンポンと軽く叩いた。
その重みが、現実感を連れてくる。
私の手の中にあるのは、ゴミじゃない。
宝物だ。
誰かに必要とされ、高い価値をつけられるだけのもの。
「……はい」
私は小さく頷いた。
テーブルの上の果実が、夕日を浴びて一層強く輝いて見えた。
ベルナルド様が提示する金額のメモを覗き込む。
そこに書かれたゼロの数を見て、私はあやうく椅子から転げ落ちそうになった。
この価値の重さを、私はまだ本当の意味で理解していなかったのだ。
震える指で、私は提示された羊皮紙を受け取った。
これが、私たちの新しい生活の始まりになる。
そう予感しながら、私はペンのインクを紙に落とした。




