第1話 糸目の商人と泥だらけの令嬢
第2章スタートです!!
カラン、コロン。
あの乾いた鐘の音が、まだ耳の奥に残っている。
夕暮れの街道を進んできた馬車が、屋敷の正門前でゆっくりと車輪を止めた。
「……到着だな」
隣に立つレオンハルト様が、短く告げる。
その声には警戒心よりも、どこか呆れたような、あるいは諦めのような響きが混ざっていた。
私はゴクリと喉を鳴らし、エプロンの裾を握りしめた。
手汗が滲む。
ここに来てから初めての「外からのお客さん」だ。
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、仕立ての良い群青色のコートを纏った男だった。
細身で背が高く、銀縁の眼鏡をかけている。
何より特徴的なのは、その目だ。
糸のように細められた目は、笑っているようにも、すべてを見透かしているようにも見える。
彼は屋敷の惨状――まだ瓦礫が残る東棟や、継ぎ接ぎだらけの外壁――を一瞥し、それから私たちの方へ優雅に歩いてきた。
革靴が砂を踏む音が、規則正しく響く。
「やあ、レオン。相変わらず僻地に飛ばされるのが好きですねぇ」
第一声は、騎士団長に対する敬語にしては、あまりにも馴れ馴れしいものだった。
「黙れ、ベル。……予定より早いぞ」
「商機を逃す商人がどこにいますか。あなたの報告書が届いた瞬間、馬車を飛ばしてきましたよ」
男は――ベルと呼ばれた商人は、眼鏡の位置を指先で直しながら、にこりと笑った。
「『銀の天秤』商会、ベルナルド・シモンズです。以後お見知り置きを」
その視線が、私に向けられる。
私は反射的に背筋を伸ばし、貴族の礼を取ろうとした。
左足を引いて、膝を曲げる。
王都で何千回と繰り返した動作。
けれど、膝がカクンと鳴っただけだった。
今の私はドレスを着ていない。
動きやすいチュニックと、泥で汚れたズボン。
足元は軍靴のようなブーツだ。
髪だって、作業のために無造作に結い上げているだけ。
「……っ」
顔が熱くなる。
元侯爵令嬢として、あまりにも見窄らしい。
ベルナルドさんの洗練された姿と比べると、自分がまるで浮浪者のように思えてくる。
恥ずかしさで俯きかけた、その時だった。
「……フィオナ」
レオンハルト様が、一歩前に出て私の肩を抱いた。
大きな手が、強張った筋肉を包み込む。
「紹介する。この領地の領主代行、フィオナ・アルベルトだ。……俺が認めた、優秀な召喚士でもある」
その言葉は、どんなドレスよりも私を飾ってくれた気がした。
私は顔を上げた。
そうだ。
私はもう、ただの着せ替え人形じゃない。
泥だらけの手は、この地で生きた証だ。
「……初めまして、ベルナルド様。フィオナ・アルベルトです」
私はズボンの泥を軽く払い、真っ直ぐに彼を見据えて挨拶をした。
ベルナルドさんの糸目が、わずかに開いた気がした。
彼は口元の笑みを深め、恭しく一礼する。
「お噂はかねがね。……なるほど、レオンが報告書で熱くなるわけだ」
「余計なことは言うな」
レオンハルト様が低い声で威嚇する。
ベルナルドさんは肩をすくめ、話題を変えるように手を叩いた。
「さて、積もる話もありますが……商人は時間が金貨より重い生き物でして。早速、商品を見せていただけますか?」
「え、ええ。こちらです」
私は屋敷の入り口へと彼を案内した。
ポチとドンが、柱の影からこっそり覗いている。
『……あいつ、だれだ?』
『……胡散臭い匂いがするぞ』
二人の声が頭に響く。
確かに、一筋縄ではいかなそうな雰囲気だ。
「これです」
私は玄関前に積み上げられた「山」を指差した。
三日前、森の魔物たちが置いていったお礼の品々。
とりあえずブルーシート(騎士団の備品)を掛けておいたけれど、入りきらなくて溢れ出している。
ベルナルドさんがシートを捲り上げる。
夕日が差し込み、山盛りの果実が宝石のように輝いた。
真っ赤なリンゴのような実。
黄金色の木の実。
そして、大人の腕ほどもある巨大なキノコ。
甘く濃厚な香りが、あたり一面に広がる。
「……」
ベルナルドさんの動きが止まった。
彼は無言で、赤い実を一つ手に取った。
手袋をした指先で転がし、鼻に近づけ、そして懐から取り出したルーペで表面を覗き込む。
その背中から、先ほどまでの飄々とした空気が消えていた。
「……レオン」
「なんだ」
「これ、どこで採れました?」
「そこの森だ。フィオナが手懐けたエントからの差し入れだ」
「エント……ああ、なるほど。古竜の森の主ですか」
ベルナルドさんは独り言のように呟くと、今度は黄金色の木の実を手に取った。
手が、微かに震えているように見えた。
私は不安になって、レオンハルト様を見上げた。
彼は腕を組んで、ニヤリと笑っている。
「どうした、ベル。腐っていたか?」
「……まさか」
ベルナルドさんがゆっくりと振り返った。
その顔には、もう笑みはなかった。
糸目が完全に見開かれ、鋭い金色の瞳が剥き出しになっている。
「『スカーレット・アップル』に『黄金胡桃』……。王都の市場でも、年に数個出回るかどうかの幻級素材ですよ」
「え?」
私は間の抜けた声を出した。
幻級?
ポチがオヤツにぼりぼり食べていた、あのリンゴが?
「しかも、この魔力含有量……。通常品の十倍、いやそれ以上だ。そのまま食べれば傷が治るレベルですよ。ポーションにするのが勿体ない」
ベルナルドさんは興奮を抑えきれない様子で、果実の山を見上げた。
「フィオナ様」
「は、はい!」
「あなたは、とんでもないことをしてくれましたね」
彼は一歩、私に詰め寄った。
商人の目だ。
利益という獲物を見つけた、狩人の目。
「これ、全部買い取ります。言い値で構いません」
「い、言い値……?」
「ええ。金貨袋の一つや二つ、安いものです」
金貨袋。
その単語に、私の心臓が跳ね上がった。
一つあれば、平民が一年暮らせると言われる金貨。
それが、この果物の山で手に入る?
「……あの、そんなに価値があるんですか? ただの森の恵みじゃ……」
「ただの恵みじゃありません。これは『奇跡』です」
ベルナルドさんは果実をまるで聖遺物のように両手で包み込んだ。
「これがあれば、我が商会は王都のポーション市場を独占できる……いや、国王陛下への献上品にもなる……」
ブツブツと計算を始めている。
どうしよう。
思っていたより、事態が大きくなっている気がする。
私は助けを求めてレオンハルト様を見た。
彼は肩をすくめ、ポンと私の頭に手を置いた。
「言っただろう。お前の力は、すごいんだと」
その掌の温かさに、胸の動悸が少しだけ落ち着く。
そうだ。
これは私が、みんなと協力して手に入れた成果なのだ。
「……わかりました。取引、お願いします」
私はベルナルドさんに向き直り、しっかりと告げた。
「でも、一つ条件があります」
「条件? 何なりと」
「このお金で……この子たちのための、美味しいご飯を買わせてください」
私は柱の影を指差した。
ポチが尻尾を振って飛び出してくる。
ベルナルドさんはポチを見て、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに商人の笑顔に戻った。
「ドラゴンの餌代ですか。……ええ、それくらいお安い御用ですとも」
彼は私の差し出した泥だらけの手を、両手でしっかりと握りしめた。
「契約成立ですね、領主代行殿」
その手の感触は、レオンハルト様とは違う、冷たくて乾いたものだった。
けれどそこには、確かな「対等な相手」としての敬意が込められていた。
この果物たちは、本当にお金になるのだろうか?
その問いへの答えは、目の前の商人の燃えるような瞳が語っていた。
私は握り返した手に力を込める。
これで、みんなを守れる。
ここでの暮らしを、もっと良くできる。
新しい風が、夕暮れの屋敷に吹き抜けていった。




