第12話 優しい召喚
風が耳元で唸りを上げる。
ポチの翼が羽ばたくたびに、身体がふわりと浮き上がる感覚。
背中からは、レオンハルト様の心臓の音が伝わってくる気がした。
私の腰に回された腕は、鋼鉄のように硬く、絶対に離さないという意志がこもっている。
「フィオナ! 見えるか!」
耳元で怒鳴り声。
私は目を細め、眼下の森を見下ろした。
「あそこです!」
指差した先。
森の中央に、ぽっかりと空いた広場があった。
いや、広場ではない。
木々がなぎ倒され、更地にされているのだ。
その中心で、巨大な影が暴れ回っていた。
「……なんだ、あれは」
レオンハルト様が息を呑む。
それは、生きた巨木だった。
高さは屋敷の倍はあるだろうか。
太い幹には歪んだ人のような顔が浮かび上がり、枝は鞭のようにしなって周囲を叩きつけている。
根元からは赤黒い霧が噴き出していた。
『……いたい! いたい!』
頭の中に、劈くような悲鳴が響いた。
鼓膜が破れそうなほどの絶叫。
「うっ……!」
私は思わず耳を押さえた。
「どうした!」
「声が……大きすぎます! 痛いって、叫んでます!」
「痛いだと? あいつがか?」
レオンハルト様は巨木を睨みつけた。
巨木の一撃が地面を叩き、土砂が噴き上がる。
「エントの古木か。……森の主が暴走しているなら、配下がパニックになるのも頷ける」
彼は冷静に分析し、そして短く告げた。
「やるぞ。ポチ、急降下だ!」
「ギャオッ!」
ポチが翼を畳む。
身体が投げ出されるような浮遊感。
地面がぐんぐん迫ってくる。
「着地したら俺が注意を引く! お前はその隙に下がっていろ!」
「えっ、でも!」
「議論はなしだ! 死にたくなければ走れ!」
ドンッ!
ポチが地面に降り立つと同時、レオンハルト様が飛び降りた。
「氷狼! 奴の足を止めろ!」
白い巨獣が実体化し、エントに向かって突進する。
冷気のブレスが根元を凍らせる。
エントの動きが鈍った。
「今だッ! 氷槍!」
レオンハルト様が手をかざすと、空中に無数の氷の槍が出現した。
月光を浴びて煌めく、美しい凶器。
それが一斉に射出される。
ドガガガガッ!
氷の槍がエントの幹に突き刺さる。
エントが空を仰いで咆哮した。
『……ギャアアアアッ!』
その声には、怒りよりも深い、もっと切実な響きがあった。
痛い。
痛いよ。
助けて。
誰か、これを抜いて。
「……違う」
私はポチの背中から滑り降りた。
レオンハルト様は、次の魔法の詠唱に入っている。
あれを放てば、エントは粉々になるだろう。
森の主を殺せば、暴走は止まるかもしれない。
でも、それでいいの?
この子は何も悪くないのに。
ただ、痛がっているだけなのに。
「待ってください!」
私は叫びながら、走り出した。
逃げる方向じゃない。
エントの方へ。
「フィオナ!? 馬鹿野郎、戻れ!」
レオンハルト様の静止を振り切る。
「ドン! 足場を作って!」
肩に乗っていたドンに叫ぶ。
『……無茶だ、嬢ちゃん! 潰されるぞ!』
「いいから! お願い!」
『……ちっ、知らねぇぞ!』
ドンが地面に飛び降り、両手を叩きつけた。
ズズズッ!
地面が隆起し、エントへと続く坂道ができる。
私はそれを駆け上がった。
暴れる枝が目の前を掠める。
風圧で吹き飛ばされそうになる。
『……グルルッ!』
赤い影が私の頭上を飛び越えた。
ポチだ。
ポチは私の前に立ち、飛んでくる枝を爪で弾き飛ばした。
「ありがとう、ポチ!」
ポチが作ってくれた隙を抜け、私はエントの懐へと飛び込んだ。
近い。
見上げると、壁のような樹皮が迫ってくる。
赤黒い霧が濃い。
息が苦しい。
「どこ!? どこが痛いの!」
私はエントに向かって叫んだ。
言葉は通じないかもしれない。
でも、気持ちは伝わるはずだ。
エントの動きが一瞬止まった。
幹に浮かんだ顔が、私を見下ろした気がした。
『……ここ……背中……』
声が聞こえた。
頭の中のノイズが、はっきりとした言葉になる。
『……熱い……焼ける……』
背中。
私はエントの裏側へと回り込んだ。
そこには。
「……これね」
息を呑んだ。
エントの太い幹、背中の部分に、漆黒の剣が深々と突き刺さっていた。
そこから赤黒い毒々しい液体が滲み出し、木を腐らせている。
誰かがやったのだ。
この森の主を狂わせるために。
「抜かなきゃ」
私は隆起した土の斜面を登りきり、剣の柄に手を伸ばした。
届かない。
あと少し。
「ポチ! 背中に乗せて!」
ポチが私の足元に滑り込む。
私はその背に飛び乗った。
ポチが羽ばたき、ふわりと浮き上がる。
届いた。
私は両手で、黒い剣の柄を握りしめた。
ビリリッ!
不快な電流のようなものが、手を伝って全身に走る。
気持ち悪い。
怨念のような、ドロドロとした感情が流れ込んでくる。
『……オオオオオッ!』
エントが暴れ出した。
痛いのだ。
異物が動いて、傷口を抉るから。
枝が私めがけて振り下ろされる。
「くっ……!」
避けられない。
私は目を閉じて、衝撃を覚悟した。
ガキィンッ!!
硬質な音が響いた。
衝撃は来なかった。
目を開ける。
目の前に、銀色の背中があった。
レオンハルト様だ。
彼が剣で、巨大な枝を受け止めていた。
「……手間をかけさせるな、馬鹿」
ギリギリと剣を軋ませながら、彼は私を振り返らずに言った。
「レオンハルト様……!」
「早く抜け! 俺が支えている間に!」
彼の腕に青筋が浮く。
氷狼も加勢し、他の枝を必死に抑え込んでいる。
「はいっ!」
私は再び剣を握り直した。
熱い。
手が焼けそうだ。
でも、離さない。
「うううううっ……!」
全身の力を込める。
抜けない。
木の繊維が絡みついて、剣を離そうとしない。
一人じゃ無理だ。
私の力なんて、ちっぽけだもの。
でも、私にはみんながいる。
「ドン! 根元の土を緩めて!」
『……おうよ!』
地面が波打ち、エントの拘束が少し緩む。
「ポチ! 一緒に引っ張って!」
『……まかせろ!』
ポチが私の帯を口で咥え、後ろへ羽ばたく。
「レオンハルト様……お願いします!」
「ちっ……! 氷よ、砕けろ!」
レオンハルト様が叫ぶ。
突き刺さった剣の周囲、樹皮の隙間に氷の楔が打ち込まれる。
氷が膨張し、傷口をこじ開ける。
今だ。
「せええええええのっ!!」
全員の力が、一点に集中する。
ズズッ。
動いた。
『……ギャアアアアッ!』
エントの絶叫。
私は構わずに引っ張る。
痛いよね。
ごめんね。
でも、これで終わりだから!
「抜けろおおおおおおっ!!」
スポォォォォォンッ!!
黒い剣が、勢いよく抜けた。
反動で私は後ろへ吹き飛びそうになるが、ポチがしっかりと受け止めてくれた。
剣は空中で黒い煙を上げ、音を立てて砕け散った。
同時に。
エントの咆哮が止まった。
赤黒い霧が、スーッと晴れていく。
周囲を覆っていた殺気のようなプレッシャーが消えた。
静寂が訪れる。
私はポチの背中で、荒い息を吐きながらエントを見上げた。
巨大な木は、もう暴れていなかった。
幹に浮かんでいた苦悶の表情が消え、穏やかな木の肌に戻っていく。
『……ありがとう……』
優しい声が、頭の中に響いた。
さっきまでの悲鳴とは違う。
葉擦れのような、心地よい声。
『……小さき、人の子よ……』
エントの枝が、ゆっくりと下がってきた。
攻撃じゃない。
私を、撫でようとしているみたいに。
大きな葉っぱが、私の頭に触れた。
ふわりとした感触。
森の香りがした。
「……どういたしまして」
私はヘラリと笑って、その葉っぱを撫で返した。
遠くで、魔物たちの遠吠えが聞こえた。
それはもう、悲鳴ではなかった。
主の帰還を喜ぶ、祝砲のような声。
スタンピードは終わったのだ。
「……終わったか」
レオンハルト様が剣を納め、息を吐いた。
その顔は汗まみれで、泥だらけだったけれど。
彼は私の方へと歩いてきた。
私はポチから降り、姿勢を正す。
また怒られるかもしれない。
命令違反をしたのだから。
彼は私の前で立ち止まり、じっと見下ろした。
怖い顔だ。
やっぱり怒っている。
私はギュッと目を瞑った。
「……フィオナ」
名前を呼ばれた。
「……お前は、無茶苦茶だ」
呆れた声。
でも、続く言葉は予想外だった。
「だが……俺にはできなかったことだ」
え?
目を開ける。
レオンハルト様は、少しバツが悪そうに視線を逸らしていた。
「剣で斬ることしか知らない俺には、あの声は聞こえなかった。……お前が正しかった」
彼は不器用に手を伸ばし、私の頭に乗っていた葉っぱを払った。
そして、そのまま私の頭をポン、と叩いた。
「よくやった」
その手は大きくて。
やっぱり、すごく温かかった。
私は堪えきれず、その場でへなへなと座り込んだ。
緊張の糸が切れて、涙が溢れてくる。
「うぅ……怖かったですぅ……」
「……だろうな」
彼は苦笑し、しゃがみ込んで私の背中をさすってくれた。
月明かりの下。
森の主が見守る中、私たちは泥だらけのまま、互いの無事を喜び合った。




