第三十六話:拒絶
道は無かった。ただ街の外側の地面を歩いていた。
舗装された名残はなく、瓦礫と土が混ざった不安定な足場が続く。かつて人が通った痕跡だけが、壁の崩れ方や、踏み固められた地面に残っていた。誰も整備しないまま、長い時間が経ったのだと分かる。
「この辺りから入るぞ。」
シュナが立ち止まり、朽ちた建物の壁を指差した。壁の一部が崩れ、ぽっかりと穴が空いている。その向こうは、街の内側へと繋がっていた。
クロアケは無意識に歩調を緩めていた。理由はわからない。ただ、胸の奥がひどくざわつく。
足元に、錆びた金属片が転がっていた。
鎖の輪のようにも見えたそれを、クロアケは避けるように歩く。触れてはいけない気がした。
「…?」
左目が、じくりと痛んだ。
包帯の下で、嫌な感覚が広がる。痛みと、引き戻されるような感覚。
思い出したくない何かが、ここにあると、体が知っている。
「アケちゃん、平気?」
チェディーの声に、クロアケは小さく頷く。
「…大丈夫だ。」
そう答えながらも、視線は自然と壁の穴へ向けていた。
暗い。けれど、その闇は知らないものではなかった。
「ここから先は街の中だ、気を引き締めろよ。」
…。
穴の空いた壁を抜けると、空気が変わった。錆びた鉄の檻が、規則正しく並んでいる。床には鎖の擦れた跡だけが残り、誰のものだったかを示すものは何一つ無かった。
クロアケはここに足を踏み入れた瞬間、息が止まった。
鉄の匂い、足首の重さ、冷たい床。
ここで、確かに生きていた。
___。
泣き声が重なる。足枷の鎖が鳴る。看守の怒号と、叩きつけられる音。これが、クロアケの覚えている限りで一番古い、幼少期の記憶だった。
ある日、血と泥に塗れた自分の手を、誰かが握ってくれた。それが、あの異形の女神だった。
「やっと見つけた。」という言葉が、頭の中で響いた。
戦争が激化した。隙を見て、他の奴隷達が逃げ出す。自分も両親とともに外へ逃げた。
走った。
境界を超えたと思った瞬間、背後で声がした。
振り返った時、もう両親は立っていなかった。
食われていた。
気が狂った。叫ぼうとして、声が出なかった。
目の前に、翼を持った魔族が降り立つ。
「もう苦しまなくていいよ。」という、優しい声。
左目がじわりと暖かくなり、視力が戻る。
そこで思い出した。
森で目覚めた日。
記憶が途切れていた理由、思い出せなかった理由。
記憶を、誰が消したか。
___。
現実の鉄臭さが、肺の奥に戻ってきた。
「……チェディー。」
チェディーに掴みかかり、錆びた鉄の檻に叩きつけた。
ガシャン、という音が響く。
クロアケの包帯が、掴みかかった勢いでほどけた。
「全部…思い出した…。お前、今までどんな気持ちで私と過ごしてたんだよ!」
掴みかかった手に力が入る。
「あ、アケちゃん、何のこと?ねぇ、怒らないでよ…。」
「私が両親を探して森の中を歩き続けていたこと…両親はもう死んでたこと、全部知ってて影で笑ってたんだろ!?」
クロアケはこの時初めて、人間的な感情を抱いた。
怒りだけではない。悲しみと、裏切られた痛みが混ざり合っていた。
チェディーは檻に背を打ちつけられたまま、抵抗せず、ただクロアケを見つめていた。
その目には、いつもの軽さはなかった。
「…影で笑うなんて、そんなこと、するわけないでしょ……。」
声はかすれていた。
「アケちゃんが思い出したら、壊れるって思った。あんな記憶を抱えたまま生きるなんて、人間には無理だって思って…。魔術で消したんだ…アケちゃんの左目が代償になるとは、思ってなかったけど…。」
クロアケの手が、僅かに揺れた。
「じゃあ…優しくしたのは、全部、罪悪感か?」
「違う!」
チェディーが声を荒げた。
「全部、守りたかったから…!普通の人間みたいに、正気のまま生きててほしかった!!」
鉄の檻が軋む。チェディーは掴まれたまま、続けた。
「勝手に消したのは…悪いと思ってるよ。でも、アケちゃんが生きるためには、必要なことだと思った。」
沈黙が落ちた。
クロアケの中で、何かが決定的に壊れた。
「……じゃあ、私の人生は何だ?」
低い声だった。手が、ゆっくりと離れる。
「…私は、忘れたかった訳じゃない。」
クロアケは一歩下がる。
その距離が、拒絶そのものだった。
チェディーの喉が鳴る。
何か言おうとして、言葉にならなかった。
「今は…お前の顔を見たくない。」
アドペロは歯を食いしばり、リュクナは何も言えず立ち尽くしていた。
シュナだけが、少し離れた場所で周囲を見ている。
「最悪の場所で、最悪のタイミングだな。」
騒ぎの中、魔物が現れた。




