第三十話:仕方のないこと
クエラが去った後。
魔法店の中では、それぞれが別の動きをしていた。
誰かが準備をしようと声を掛けたわけではない。ただ、もう目指す場所が決まっている。鍵は門の前で待っている。後は自分たちの覚悟を揃えるだけだった。
リュクナは棚の前に立ち、アルケイの遺した日記を一冊ずつ布で包んでいく。表紙の角が傷まないよう、指先で確かめながら、丁寧に片付けていた。最後に、持てる分だけの薬瓶を用意して、袋にしまう。
チェディーは勘定台の上に、最低限の魔法具を並べていた。灯し石、焚き葉、包帯。全部を使うかは分からないが、欠かすことはできなかった。まとめてリュクナに渡し、袋に収めてもらう。尻尾が床を打つ音が、一定の間隔で続く。
アドペロは店の隅に腰を下ろし、爪の先を見つめていた。アルケイが遺してくれた最後の薬は持っていない。代わりに、古い布を巻いただけの手を握りしめる。布の下には、鱗と血が滲んでいた。魔界へ向かう以上、龍化を抑え込むことより、向き合うしかないと分かっていた。
クロアケは、机に置かれたメモを前に立っていた。境界、門、鍵、魔術。メモを読み返すと、頭の奥で何度も同じ顔が浮かぶ。それはクエラであり、記憶にない赤子でもあった。その赤子を抱きかかる感覚が一瞬過ったが、クロアケの記憶にはないものだった。
包帯の下で、左目が微かに疼く。その痛みを受け入れて、言葉を発する。
「……行こう。」
促したわけではない。
それでも、その一言で全員の動きが揃った。
リュクナは袋を背負い、チェディーは扉に手を掛ける。アドペロは一度だけ店内を見回し、何も言わず立ち上がった。クロアケは最後に勘定台を見る。アルケイが立っていた場所は、もう空だった。
扉が開く。
外の空気が流れ込み、魔法店は背後に残された。
もう、引き返す理由はどこにもなかった。
リュクナは店の扉にかけられた看板に手をかけ、裏返す。
“閉店”…その文字を見つめ、誰の顔も見ないまま呟く。
「皆さん、やり残したことはありませんか?」
灯し石に魔力を込め、温かい光を照らしながら問う。
「…あ、一度家に寄らせてくれ。一つだけ、残してきたヤツがある。」
クロアケはそう言いながら、チェディーを見た。
チェディーもクロアケの顔を見て察したようだ。
「ボクはいいや。どうせ誰も見やしない絵なんて、どうでもいい。」
アドペロは僅かに服についていた顔料に気づき、手で擦る。
「じゃあ、境界に行く道中にチェディー達の家に寄ろう。それでいいよね。」
「はい。」「うん。」
リュクナとアドペロは同時に返答した。
路地裏を通り、入り組んだ森を歩く。程なくしてクロアケ達が住む家へと辿り着く。クロアケは一人家に入り、中を見渡すと、プアルルが机の下で眠っていた。プアルルをそっと抱きかかえ、外に出る。
「チェディー、コイツとお前は契約してる状態だったよな、どうやって野生に戻すんだ。」
「自由に生きろって命令すれば、そのうち野生に戻るよ。」
「そうか。じゃあそうしてくれ。」
クロアケはプアルルをそっと地面に置いた。チェディーは深呼吸して、優しく言い放つ。
「プアルル、自由に生きて。」
プアルルはその言葉を聞いた瞬間、一度も振り返ることなく、深い森へと這いずっていった。クロアケは胸を撫で下ろし、チェディーは寂しげな目をしていた。
「もういいですか?」
プアルルが見えなくなると、リュクナは急かすように言った。
「いい。すまなかった。あれでも一応可愛がってたペットだからな。」
「そうそう。魔界に行っている間に餓死しちゃったら気分悪いし〜!」
二人は少し笑って、リュクナの下へ歩く。アドペロは、しばらくプアルルが消えた森の方へ目を向けていた。
「…飼われることは、嫌じゃなかったのかな…。」
一人呟く。アドペロにとって、飼われることは苦痛の記憶だった。だからこそ、プアルルのような存在には同情のような気持ちがあった。
「何してるのアドペロ、置いてくよ。」
不意に呼ばれた。ハッとして、アドペロも歩き始める。
「分かってる。行こうか。」
境界は近い。朝になる前には辿り着く。
戻れない旅が、始まろうとしていた。




