第二十九話:犠牲になる
小さな子供が、自ら犠牲になろうとしている。
その事実がクロアケ達にのしかかる。
「待って下さい、確か、ご主人の日記に…。」
リュクナは日記を読み返す。そしてあるページを見つけ、読み始めた。
「『魔術は使用者の命を代償に、事実を捻じ曲げるようなことさえできてしまう』…魔術を使えば、クエラ様が犠牲になることはないはずです!命を削るなら、削る量を一人に集中させず、僕らで分担すれば、きっと…!」
その言葉を、チェディーは首を振って否定した。
「境界は分からない。でも、魔術の代償は、そんな融通が利くようなものじゃない。魔法みたいに便利だと思ったら間違いだよ。きっと…仕方のないことなんだ。」
「じゃあクエラを犠牲にしろって言うのか!」
声を荒げ立ち上がったのは、クロアケ。
「アケちゃんなら、分かるでしょ。ここで迷ってたら、街が死ぬ。」
チェディーは否定も肯定もせず、ただ短く言った。
「…クソッ。」
吐き捨てながら椅子に座る。日記の内容をまとめたメモを見ながら、眉間にシワを寄せる。
「こんなに調べても、境界のことは誰もわからない…そうだよね、リュクナ。」
アドペロは問う。
「はい…。神話の時代に造られた門…それを開ける鍵が人の形をしていて、今この時代に生きている…異形の存在が言っていたことも、境界の開け方そのものも…謎が多すぎてどうしたらいいか分かりません…。」
「アルケイなら…こんな時、助言してくれただろうか。」
クロアケは天井を見上げ、ぽつりと呟く。
静寂が落ちる。
誰も代替案を思いつかないまま、刻み時計の音だけが店内に響く。
「ねえ、みんなの言ってること、分かるよ。」
静寂を破ったのはクエラ。
「門にして鍵。女神さまが教えてくれたの。門にして鍵っていうのは、あたしっていう鍵が生きてるから門があるっていうこと…。だからね、あたしがやらなきゃいけないの。みんなを向こうに連れて行くために。」
「……貴方は、それでいいのですか。」
リュクナだけが声を発した。
「うん。それに…魔界には、今も苦しんでるひとがいるって、女神さまが言ってた。」
手を後ろに組みながら、クエラは言った。
「ずっと気になってたんだけど…その女神様って、誰なの?」
チェディーは頬杖をつきながら質問する。
「おねえさん達があの村で会った、髪が長くて、目がきれいなひとだよ。」
クロアケは拳を握りしめていた。クエラがここに来てから、左目にずっと違和感があった。クエラを失うことが、どうしようもなく怖かった。この感情が何なのか、クロアケには分からない。
「…なあ、やっぱり、魔術で開けることはできないのか?いくらなんでも、こんな小さい子が鍵だなんて認めたくない。鍵の役目を私に移すとか、どうにか命を分け合うとか!魔術は…事実を曲げられるんだろ!?一番役立たずの私が犠牲になればいい!」
「…ッそれができないから今困ってるんじゃんか!魔法みたいに楽に使えるわけじゃないの!半端な覚悟で魔術は使えない!アルケイみたいに…術者が命をかけて使うものなんだから!」
クロアケの胸ぐらを掴んで、チェディーは叫んだ。
「アケちゃんが犠牲になるのだけは…絶対に嫌なんだ…。」
掴んだ手の力が弱まっていく。チェディーの目から涙が零れ落ちた。
クエラはひとつ深呼吸をした。
小さな胸が上下するだけのはずなのに、その間だけ店の空気が重くなる。
「ねえ、みんな。ありがと。」
笑った。いつもの、鈴のような声だった。けれど、笑みの端が妙に落ち着いていて、年齢にそぐわない。
「境界の開け方を知ってるのはあたしだけ。みんなは何も知らない。そうでしょ?」
その問いに対し、口を開くものは居なかった。
「ね、やっぱり…あたしが鍵なんだから、戻れないのは、あたしだけでいい。」
クエラは、誰の顔も見ないまま言った。そして、店の扉へ歩き出す。
「…クエラ、待て…ッ!」
クロアケが伸ばした手は、空を掴む。
「境界の前で…待ってる。」
その言葉だけを残して、扉が閉まる。
扉の鈴の音が、静かな魔法店に乾いて響いた。
残された四人は、立ち尽くす。
もう、元には戻れない。
誰もがそれを、言葉にしないまま理解していた。




