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失われた名前
かつて苗という、世界を救った少女がいたことを知る者は、今やだれも存在しない。
伝承は形を変えていく。名は風化し、功は解釈を変え、都合のいい部分だけが残される。
苗は、日のような瞳をしていた。
その眼を見た者は、怖れと安堵を同時に覚えたという。闇の底に灯る熱。永久の時を生きる少女。
人々は彼女を讃え、やがて呼び名を与えた。その名は—―ヒガミ。
ヒガミ。
それは祈りの言葉になり、誓いの言葉になり、最後には神の名になった。
「この世界の神はヒガミだ」
そう語り継がれるたび、苗という“ひとりの少女”は薄れていった。
彼女が何を恐れ、誰を抱きしめ、何を捨ててきたのか――その記録は剥がれ落ちていった。
忘れられたのは、時間のせいではない。
それはヒガミが、存在を覚えてもらおうとしなかったからだ。
だから今も、人は祈る。
日の瞳の神よ、と。
世界を守る神よ、と。
その祈りが、何を鎖にしているとも知らずに。
――そしてある春の朝。
ヒガミの加護を受けた者が、目を覚ます。




